十九.風の向かう場所
おとこは、丘のうえから、タラン平原を見下ろしていた。
タリムの南東、大河アンカリルが流れていく広大な平野部である。
夕陽のなか、ツノムグラが風に流される一面の景色が起伏に富んだ地形をなしている。きっと先祖も、そのまた先祖もこの景色を見たに違いない。さらにまた遥か向こう側には、大河アンカリルの永劫の時の流れにも似た水面が臨めることだろう。
何も変わらない景色に見えた。明日もあさっても、同じような光景が連続すると夢見ることすらできそうだった。
柔毛が立つ毛皮の外套に身を包むそのおとこの名は、オイリゲン・フェーガス。俗にフェール辺境伯と呼ばれ、まさにその肩書きの通り聖女王国の辺境領の守護を担当する戦士でもあった。
「ここにいらっしゃいましたか」
「──シュヴィリエール殿か」
中性的な顔立ちをした若い騎士が、そこにはいた。
シュヴィリエールは恭しく一礼する。
「マースハイム卿が探しておられましたよ」
「で、あろうな」
「みずからの領地を心配されるお気持ちは察して余りあります。しかしここまで追い込んだのちは、申し上げたとおり時間の問題です。お戻りください」
「あいわかった。だが見張りも必要ではないかな?」
「これは狩りとは違います。わたしたちはただ争い、血を以て解決は致しません。ここから先こそが、われら騎士団のほんらいあるべき仕事です」
瘴気の発生から、すでに十四日が経過していた。
タリム西の蹄鉄城から援軍を頼みつつ、フェール辺境伯は真っ先に魔物が産み落とされた地域に急行していた。
──魔法文明が滅んで以来、人類の歴史は魔物との戦いだったと言い換えてもいい。
長い暗黒の時代、ひとびとを恐怖に陥らせてきたわりには、その正体や性質について知られていることは少ない。
せいぜい、魔物がひとを襲い、その心を砕いてしまうことしかわかっていないのだ。
魔物に襲われた人間の末路は、魂の閉ざされた人形と化すか、あるいは魔物の同類として他者を襲うかの二択しかない。
そのため魔物には一定の外見が存在せず、対策もその都度、状況を確認しながら考えてきたのである。
このような存在がなぜ生まれたのかについては、さらに謎が深まる。魔物とは人類の源罪であるとする、『神聖叙事詩』の記述がもっともよくひとびとに知れ渡っているだけだ。
神学の一派に業魔学と呼ばれるものがある。『神聖叙事詩』における人類の業と魔属の研究を行う学問だ。それに拠れば、かつて古代魔法文明以前には魔物は存在しなかったという。人類が魔法技術を知り、使いこなし、驕った結果として魔物が与えられたのだ、と。
この結論は、魔法技術がひとびとの心を動かす〝力〟であることの、裏返しから得られた考察だったのかもしれない。
しかし魔物はこの世界の、れっきとした恐怖の対象だった。
歴史におけるあまたの試行錯誤と犠牲の末、ひとは魔物の発生を予測し、退けるための知恵を手に入れた。
まず、瘴気の発生について。
魔物が発生する場所は、その時期に前後して魚や鳥、植物に異変が起きる。
具体的には、生きとし生けるものが元気を失い、病いに罹りやすくなり、ひどいときには無数の枯れ草と亡き骸とが転がるのだ。
この現象の発見にともない、素早く近隣の住民の退去が始まる。
フェール辺境伯が先んじて行動したのはそのためだった。
魔物はひとを襲うが、ひとがいない場所には出没しない。
したがってほんとうの意味での魔物退治には、人間は必要ではなかった。ただその場所から逃げ出せば良かったのだ。そうすれば、時間が解決してくれるだろう。風雨を経ればいつか瘴気はおさまり、不自然な大量死が、ほんのつかの間だけその地域の一帯を覆うだけなのである。
ところが一度でも、誰かがそれを〝見て〟しまったら、ことは大きくなる。
今回は、そういう事例だった。
たまたま川べりで漁をしていた村民が、それを見つけてしまったのだ。
あとは文字通り、尾ひれが付いて、魔物は大きくなっていったのである。
好奇心と恐怖心が綯い交ぜになったまま語られたそれは、ついには魚類と四足獣の合いの子のごときかたちを取るに至った。
うわさはひとり歩きを始め、ひとびとの耳から耳へと伝わったのだ。
と、同時に、河からあがった魔物も、形態を変えて、みずからの脚で立ち上がる。
ここまで来てしまえば、たとえ人民からの信頼が厚いフェール辺境伯でさえも、なかったことにはできなくなる。
ついに騎士団が到着するまで、みずからの軍団を率いてこれを防戦するよりほかになかった。しかし軍団と言えど、もともとは農村や漁村で働く青年たちである。彼らは陣頭に立つフェール辺境伯の鼓舞によって、かろうじて沈黙を保つ程度の強さしか持ち合わせていなかった。
──それでも、騎士団が着くまではかろうじて堪えたのである。
いまや騎士団は、その特別に訓練された能力を駆使して魔物を追い込んだ。
魔法技術で鍛えられた刃でこれを斬り、弱めてから、少しずつ生息圏を狭めていった。
あとは時間の問題だ。ひとびとが生活感覚を取り戻し、少しずつ恐れや不安を忘れるようになったころ、ようやく魔物は絶命する。そういうものだった。
だが、そのときが来るまでどれほどの時間が費われることだろう。
辺境伯を包む皮の外套が、ひらりと揺れる。
その身にまとわれたのは、あまたの生命の犠牲のもとに成り立つ温もりだけだった。
「では、戻ろうか」
フェール辺境伯は外套を翻し、夕陽に背を向けると、さっさと丘を降りる。あとから若き騎士が追いかけた。
ふたりは下り坂を進みながら、影を追いかけるように、進む。
ふたりはさっそく天幕に入った。すでに十数名の鎧かたびらを付けたおとこたちが、卓を囲んでいる。
その中央に、杖をついた壮年のおとこがたたずむ。頬は痩けてはいたものの、なお精悍なまなざしで見るものを緊張させる。背筋もしゃんとしており、杖がある理由が判然としないくらいだった。
──マースハイム・ゴドウィン。
彼は過去に〈聖印の騎士〉であった、伝説的な人物でもある。その武勇は火吹き竜の末裔を殺し、聖女王国の栄光に数枚の歴史を追加したほどだ。
シュヴィリエールが先導し、一礼すると、フェール辺境伯もあとから首を垂れる。
「申し訳ない」とひと言。
ゴドウィンは片手を挙げて、そこから先のことばを制した。
「──今後は勝手な行動は謹んでいただけるとありがたい。もちろん、貴殿の英断によって魔物の被害は当初よりも遥かに狭い範囲に抑え込めているが……」
おとこはゆっくりと視線を降ろす。そこには机上に広げられた地図に、紅色の結晶が散りばめられている。
地図には短い針が複数突き立っている。さながらそれ自体が柵で、囲い込みを行なっているかのように紅結晶の群れを内側に収めていた。実際これは騎士団の魔法技術が生み出した〈結界〉であり、地図上の該当区画で動くものを探知する術が仕掛けられているのだった。
ときおり紅結晶が、つつつ、と動く。
「さいわい、貴殿のいた場所から見える位置に奴らはいない。だから数も増えなかった」
「しかし──ほんとうにいなくなるものなのか? わたしにはまだ……」
「さすがに信じろ、といっても仕方がないのだろうな」
ゴドウィンは首を振る。彼は机の周りを歩いて、フェール辺境伯の側に歩み寄った。
「しかし、これだけは確実なのだ……魔物はひとの心に付け込む。恐怖すること。憎むこと。怒り。苦しみ。辛さや悲しみ。疑いといった感情に、とりわけ強く反応する。それは古今の歴史が、記録が教えてくれる事実にほかならない」
いいかね? とゴドウィンの目が鋭く光を帯びた。
「だから、少なくとも魔物に接するわれわれは、恐れたり、怪しんだりするわけにはいかないのだ」
フェール辺境伯は黙っていた。頷きもしなかった。
しかし緊張を帯びた眼差しだけが、その意味を理解した旨を伝えている。
ゴドウィンは、フェール辺境伯の表情を読み取るなり、そっと目を伏せた。その肩越しにシュヴィリエールの複雑な表情を見いだしたからだった。
と、そのとき──
「──〈エル・シエラの悲劇〉もまた、そのようにして起こったのですね」
フェール辺境伯のひと言が、さながら突風のように場を一閃した。
場が凍り付くかのようだった。
緊張が支配する中、かろうじてゴドウィンは口を開く。
「なにがお望みかな?」
「べつに。ただ、なんといいますか、この国には不思議なことが多すぎる。それを知ることは許されざることなのでしょうかな?」
ゴドウィンは無表情のまま、軽くため息を吐いた。
「ええ。残念ですが、おしゃべりはここまでにしましょう」
そこで話題を打ち切って、ふと机の上を見る。途端にゴドウィンの表情が変化した。
──魔物の群れを表す結晶が、少しずつ動いているのだ。
「風向きが変わってきましたな」
フェール辺境伯が独りごちる。
そのとき風のなかに、冷たいものが混じるようになっていた──




