一.失踪した父親
「ラストフ、て父さんの名前なのかな?」
「いや、そんなこと言われてもさ」
リナとルゥは互いに顔を見合わせる。
その様子から、導師はほんとうにふたりが何も知らないことを悟った。大きく首を振って、ひたいに手を当てる。
「おお、聖女の祈りが神々に届かんことを! リナならともかく、ルゥまで知らないと言うなんて、これは悪夢なのでしょうか」
「いまさりげなく、ひどいこと言ってません?」
リナはさすがに怒鳴りはしなかったものの、不機嫌そうに応えた。
導師は思い出したかのように首を振って、さらにつづけた。
「そうだったな。いくらリナでも父親の顔ぐらいは忘れたりはせんだろう」
「もっと聞き捨てならないんですケド」
「ならばせめて『神聖叙事詩』から、ひとつやふたつ、ことばを引っ張ってみい。ルゥの記憶力の素晴らしさを見習って欲しいわい」
「ちぇっ、どいつもこいつも……」
「まあまあ。というか導師さまもここでお説教をしている場合じゃないでしょうに」
あわててルゥが割って入る。しかしリナは拗ねていた。
「フン、どーせアタシゃ親の顔も名前も知らない出来の悪い子ですよ」
「でも、たしかにヘンだよ。いま何となく思い出そうとしてたんだけど、ボク、ほんとうにお父さんとお母さんの名前が思い出せないんだよ」
「え、ウソだろ、そんな──」
と、言いかけた途端、リナの脳裏に閃光のようなものが走った。まるで火打ち石でも叩きつけたかのような、瞬間的で激しい光だ。
光がほのかに浮かび上がらせたのは、まとまりのない獣皮紙の束をめくるがごとき記憶の映像だった。幼いリナの前に立つ、ひとりの人間のシルエット。しゃがんで同じ目線に立っているのに、顔がまるでわからない。
(あれ、アタシはこのひとのことを知っているはずなのに)
すまない、とその影は言っていた。母さんは流行り病で死んでしまったんだ。もういないんだよ。そう語りかける声は、紛れもない男性の、父親の声であるはずだった。
しかし、名前も顔もぼやけていた。インクが乾かないまま、にじんでしまった文字を読むような気分だった。
記憶が急速に閉じてゆく。ロウソクが吹き消されたかのように視界が暗転し、リナはそのままぐったり倒れた。
それはあまりに唐突に起きたできごとだった。
「……リナ? リナ!」
ルゥがあわてて彼女を抱き起こす。あわてて揺さぶるが、反応がない。
一連のできごとに対して、導師もルゥも茫然と立ち尽くす。
そこに赤いコートをまとった青年が、リナのもとに駆けつけた。
金色の髪と、険しい顔に付けられた片眼鏡とが特徴を際立たせる。彼は少女を抱き起こすと、素早くルゥに指示を出した。
「急いでベッドに」
「ガーランドさん」
青年の名を呼ぶ。彼は大学都市で医学を修めた医術師で、村に住みつつも、ときおり周囲の家々に往診してくれるお人好しだった。
ガーランドは素早くリナを担ぎ上げると、双子の住む母屋のほうへと歩き出す。あわててルゥが追いかけて、ベッドの位置を示す。
青年はリナを寝かしつけると、彼女のひたいに手を当てて、診断を下した。
「熱がひどい。まるで何かが頭のなかで燃えているような感じだ」
と言うなり、傍らのルゥを見やる。
「濡らした布を」
「はい!」
駆け出すルゥを尻目に、彼は導師のほうを見た。
「何が、あったんですか?」
「それがさっぱりわからんのだ。ラストフがいなくなったと思ったら、ふたりが記憶喪失になってて、それから突然リナが倒れた」
「なるほど、わからないということがわかりました」
「そうじゃろ?」
「共感を求められても困ります。とにかくリナの容体がどうなのか、明確にしなければ」
ルゥが絞った布を持ってきて、リナのひたいに置いた。その傍らで、ガーランドは少女の脈を測り、瞳孔や耳を確認し、それから呼吸のリズムを診ていた。
やがて、眉をひそめながら、ルゥのほうを見やる。
「おかしい。何もない」
「どういうこと?」
「これほどの発熱があるはずなのに、体液の流れも正常だし、目立った発疹もない。呼吸だって安定している」
ガーランドは眉間にしわを寄せたまま、今度は布を外し、ふたたびひたいに手を当てる。すると、さらにわけがわからないという表情で、つぶやいた。
「……熱も引いている」
立ち上がる。険しい顔は、変わらない。
ルゥは青年を見上げた。
「何かできることはありませんか?」
「残念ながら、することはもうないよ。不気味なくらい、健康だ。気を失っただけみたいだよ。時間を置けば、すぐに元に戻るさ」
少年はけげんな顔をする。ガーランドは肩をすくめた。
その背後から、遅ればせながら、導師がやってきた。
「いやはや、助かりましたよ、ガーランドさん。偶然あなたが通りがかってなければ、どうなっていたことか」
「いえ、私はそこのユリアさんの往診をしていただけなので。それよりも導師さま、先ほどから何か混乱している様子ですが」
「おお、そのことなんだが」
導師は改めて、いま双子が置かれている状況について、順序立てて解説した。
ガーランドはますます険しい顔になった。
「無断で柵の外を出歩いているだけであればまだ良いのですが……なにぶん時期が悪すぎる。もう少し落ち着いた頃だったら、探しに人を出せたのに」
「そうなんじゃよ。おまけに冬のヤセムギを撒いたばかりだ。農具の手入れも人手が足りんというのに」
「それは追って辺境伯に届け出ましょう。大切なのはラストフ本人の安全です」
ガーランドの説得に押されて、導師はたじろいだ。
「確かに、そうだな。昼まではいたはずだから、そう遠くまでは出かけておらんじゃろ」
しかし、青年は反応しなかった。何か物思いにふけったまま、指をあごに乗せている。
「時間はない。早く村の連中にも声かけせにゃならんぞ!」
「──え? ああ、そうですね」
導師に急かされ、ガーランドは双子の家を出ようとする。その直前、彼はふところから薬袋を取り出して、ルゥに手渡した。
「万が一、また発熱したら、これを。気力を養う薬だ。使うかどうかの判断は、きみに任せる。いいね?」
「わかりました」
「じゃあ、また。夜までには戻るつもりだけど、くれぐれも用心してね」
そう言って、大人たちは行ってしまった。
ぱたんと扉が閉まると、ルゥはそのまま向き直り、背を預ける。大きくため息を吐くと、全身からゆっくり床に腰を下ろした。色あせたローブのすそが、取っ散らかるのを、そそくさと畳み、ひざを抱えた。
急激に静寂がやって来た。あまりにも唐突に通り過ぎた騒動は、リナはともかく、ルゥにとっても大きな混乱だった。それが無くなったいま、ルゥは突然、何もかもが虚しいもののように思えてしまう。
「また、ふたりだけになっちゃったね」
ふとこう呟くと、意を決し、また立ち上がった。
ベッドのほうに歩み寄る。二段組みの下のほう、リナが横たわっているのは、実はルゥの場所だった。
元気いっぱいな反面、乱暴な姉で、いつもベッドは上を取っていた。別段何かが変わるわけではないというのに、何をむきになっているのかがルゥにはわからない。
彼自身は、よく村の学び舎から古い版本を借りて来ては、ベッドに腰掛けて読んだり、寝そべって開いたりしていた。だから上でよく暴れられては、困ったものだった。
(あの頃、文句言うたびにリナを叱ってくれた人、誰だったかなあ)
ルゥはその人物の肖像をはっきりと憶えていた。金髪の癖毛、青いまなざし。無精ひげを生やした壮年の男性は、きっとこれが父親なのだろう。しかしルゥにとって、彼は奇妙なほど遠い他人のように思えた。
ラストフという名前。その人物と過ごした思い出が、破られたページのようにすっかり無くなっている。だからその書物の見かけはまともでも、何も感じることができない。
唯一確かな思い出は、目の前の双子の姉、リナだけだった。
(……長持ちを片付けなきゃ)
あやうく忘れるところだった。ルゥは自分が散らかした長持ちの中身を、一枚一枚、拾い上げては、片付けていった。
ところが、ある一枚の布を拾ったとき、視界に過ぎったあるものが注意を惹いた。広げ直し、目の前でそれを再確認すると、彼は目を瞠る。
「青い花に金色の翼……女王家の紋章?」
伝説に謳われる黄金鳥 の翼を模した、金色の刺繍。それに縁取られ、咲き乱れている青い花。
これはかつて〈叙事詩圏〉を暗黒時代から救ったという聖女アストラフィーネの、ひいては聖なる女王家の象徴だった。
「お父さん、あなたは何者なんですか?」
生地の優しい触り心地が、ことさらに恐ろしく感じた。
そのとき、リナが目覚めた。まるで何もなかったかのように、うんと背伸びをする。
「むにゃ。あ、おはよう」
ルゥは無言だった。力なく刺繍入りの布を握ったままだ。
「なんだよ、素っ気ないな。あれ、しかもここお前のベッドじゃん。そっか、場所取ってたのか、ごめんごめん」
「……何も憶えてないの?」
「ほへ?」
「いや、なんでもない」
気まずい思いがして、素早く俯く。リナは眉をひそめるものの、あんまり気兼ねせずにベッドから降りた。
「もう身体は平気なの?」
「うん。それがもう、ばっちりでさ」
と、言いながら腕をブンブン振り回す。しかしすぐに間の抜けた音が、腹のほうから鳴り出した。
つかの間の沈黙。ルゥは目を点にしていたが、それが空腹の音だと理解するに到って笑い出した。失礼なほど、大声で笑った。
「な、なんだよ」
「いや、リナの腹時計は正確なんだなぁ、て」
「ふざけてんのか!」
「まじめもまじめ、大まじめー」
なんだか、リナと一緒にいればどんな最悪な事態も笑い飛ばせてしまいそうだ。ルゥはかまどのほうに足を向けながら、そんなことを思っていた。
一方リナは、弟の気など知らず、むすっとしている。その間にも腹の虫がごうごうと喚き立てているものだから、いつしかこれが空腹によるものなのか、不満を代弁しているのかが自分でもわからなくなっていた。
そしてとうとう、こう言い出した。
「早くメシ出せ! 怒るぞ!」
「はいはい、言われなくてもやってるてば」
やがて、再三の催促を受けながらも、ルゥはヤセムギの黒パンと、丸ネギやコゼニマメの煮込み汁を持ってきた。
木椀に容れられた煮込み汁には、腸詰めの肉や、裏の菜園から採ったナツナの葉も入っており、彩り豊かだった。リナは飛びかかるように食べ物を手に取ると、猛烈な勢いで頬張り始めた。
その下品すれすれの食べ方に、ルゥは眉をしかめる。
「ちょっと、もう少し落ち着いて食べてよ」
「いいらんはよ、べつに……」
「食べながら喋らないでよ!」
とは言いつつも、ふたりは淡々と食事を進めていった。
素朴で麩の多いパンの、独特な噛みごたえを味わいながら、煮込み汁と一緒に食べていく。パンを木椀に入れて、十分に汁を吸わせてから口に運ぶのだ。
リナはとうとう、パンそのものを匙のように自在に使いこなして、具のひとかけらも残さないよう、そそくさと食べ尽くしている。
そんな姉を見ながら、ルゥはゆっくりとパンを咀嚼し、飲み込んだ。
「そういえばそろそろ粉が無くなるかも」
「うん」
「また水車小屋に行かなきゃいけないよ」
「うんうん」
「お肉ももらって来ないと」
「たしかにそうだなー」
「……こんな大事な時期に、お父さんはどこに行っちゃっんたんだろうね」
リナは即答せず、顔を上げた。まだ頬張ったまま、口をモゴモゴさせている。
ルゥはと言えば、ろくに顔も見合わせることができず、俯いていた。食べ物もようやく喉を通るぐらいだったのだ。
ぎゅっ、とローブの裾を握る。
「やっぱり何か、おかしいよ。このまま何も無かったかのように過ごすのは、できない」
リナはごくりと音を鳴らし、飲み込んだ。
「この家には間違いなくお父さんがいた。でもボクたちはそれを知らないどころか、すっかり忘れちゃっている。こんなのってある? ボクはこのまま平気な顔して生きていける自信がないよ」
「母さんは?」
「えっ?」
「母さんは死んだ、て昔誰かが言ってた気がするんだ。でも、アタシはそれがなんでか知らないけど、どうにも信じられない」
「それって、金髪の青い目の男の人が話してた……」
「ンなもん知るかよ。アタシ、ヒトの顔を覚えるのが苦手なんだって」
肩透かしを喰らい、ルゥは下唇を噛んだ。
「じゃあさ、いまから提案があるんだけど、いいかな」
「もったいぶるなって。ルゥのやりたいことなんてわかってるよ」
よっこいしょ、と椅子の上にあぐらを掻くと、リナは不敵に笑った。
「父さんと母さんの持ち物、探そう」




