十八.罪をささやく窓
日も暮れるころ、番匠街の通りに、ふと躍り出た影がある。
ガーランドだ。
彼はそろそろと出店が幕を下ろすのを尻目に、街の寺院へと足を向けた。その道中では、行商人や職人が訝しげな目付きで互いを見ては、なにもなかったかのようにそっぽを向いている。
(やはり、疑心暗鬼が植え付けられている)
ガーランドは目を細めた。正直なところ、彼には望ましくない事態だった。
いや、正確には彼の所属する教導会の面々にとって、と言うべきだろうか。
このごろ、フェール辺境伯の独断によって交易の要衝でもあるタリムは、七日七晚も検問を続けている。
それは、この秋の収穫期においては非情な判断だった。聖女王国内の多くの村や町からの産物が、東部辺境へと往き来する、まさに大動脈を抑えられたと言っていい。
逆に言えば、この街を通る人間を監視していれば、魔女であろうと、異国の軍勢であろうと、けもの一匹ですら、その侵入を防ぐことが可能になる。
だからこそ辺境伯は、この判断に至った。
そこまではわかる。
しかし一向に魔女は見つからない。このままでは、収穫期の商いで日銭を稼ぐ人びとが一気に食い詰めるようになるだろう。
となれば、いつ、何をもってそれが終わるのか? それがわからない限り、この事態は終わりようがなかった。
フェール辺境伯がそこまで愚かだとは思わない。だからこそ、ガーランドの脳裡には、不吉な予感が横切った。
(まさか、な……)
橋の中空の階層から成る番匠街は、さながら洞穴のごとき造りを有する。
上層部からの日差しは当てにならない分、街そのものは谷に向かって迫り出している。主だった生活道路は崖の内側に彫られていたため、橋の上は出店と人足が往き来する通路でしかなかった。
この層の街は、その名の通り、大工や職人による工房が建ち並ぶ。だがそのために、ひとびとの関心は、つねに最上層の市が立つ場所に限られていたのだ。
でなければ、せいぜい最下層の厩屋街にて荷駄の世話を見る程度である。どちらにせよひどく内向きな街だった。うわさや苦労のほとんどが、この街で生まれ、この街で消費されていたのである。
方形広場に差し掛かると、街の導師と思しき人物が、声高に説教をしている。
「──神々によって記された契約を、いまこそわれわれは思い出さねばならない。聖女が約し、われわれの心の書物に書き写されたことばをいまこそ思い出さねばならない。
それこそは終末の約定。物事にはいつか終わりがやってこなければならない。ゆえにわれわれは自らに恥じぬ生き方を選べるように心掛けるべし。不幸にもわれわれの時代に生まれ落ちた悪魔・邪神の類いを退け、神々の御心のままに従い、生きるべし──」
導師が話しているのは、聖典『神聖叙事詩』に伝わる〈白紙の契約〉の内容だ。
かつて、古代魔法文明が滅亡し、世界が暗黒に包まれていた時代──
聖女アストラフィーネは、とある僻村にて預言を授かる。「神々の声を聞くものよ、なんじの使命を思い出し、失われたるものを取り戻すべし」。このような託宣を得た聖女は、ひとり東へと旅に出る。そこで聖女は三人の賢者と出会い、世界の原理を知ったと言われている。
帰還した聖女は、その手に奇跡の〝力〟を携えて、ひとつの国を興した。聖女王国の先駆けとなる小さな国だった。
そのとき神々から一枚の石板を戴く。石板には世界がひとつの大きな物語によって統一されることを定めた法が刻まれていたが、聖女が読んだ途端、文面が消えてしまうのである。
聖女、かく語りき──
「法はおのずから心の奥底に彫られた。なんじらはその怠惰なる記憶から、この法のなんたるかを想起し、おのれの身を奮い立たせるべし。神々はご覧じ給うぞ! なんじらが行いを、なんじらが失念したる想いの数々を。なんじら冥府に降りしとき、心の書物のかたちを取りて、おのおのの全てが偽りなく記されていることを知るであろう」
──ゆえに忘るるなかれ。来たるべき日が盈ちるまで、失われたる法を想い、その行いを全うし続けるべし。
この〝来たるべき日〟というのが、要するにひとにはいつか必ず死ぬのだ、と解釈されているのだった。
タリムの橋を構成する、巨大な石造りの橋脚のひとつが、巨大な四角柱となっている。さながら塔のごとく橋の一角を貫いて、空にそびえているのだ。
方形広場は、この橋脚と一体化した寺院を取り囲んで、街の中枢を成していた。
寺院に入ろうとしたとき、ガーランドはすれ違いざまに、肩をぶつけた。途端、バラバラと紙が落ちる。あっ、と声が上がり、ガーランドは我に返った。
「あ、いや、失礼……」
慌ててひざを折り、紙を拾う。散らばったのは、番匠街のそこここに貼り付けられている刷物の一種で、何番地の壁に魔女の印だとか、厩屋街の井戸に毒が入っている、などと根も葉もない言説が書き込まれていた。
ガーランドは自分の側に落ちた刷物を全て手に取り、肩をぶつけた相手に手渡す。と、そこで眉根を寄せる。
「あなたは……以前どこかで?」
紫水晶のひとみが、見つめ返した。
「いいえ。人違いでは」
冷静な声だった。しかしガーランドは納得がゆかず、返事に詰まった。
相手は立ち上がると、一礼して去っていった。
(服装は紛れもなく街の自警団のものだ。しかし──いや、いまは止そう。それどころじゃない)
そのまま寺院へと踏み入った。
中央の〈祈りの碑〉の傍らを通り過ぎると、隅の告解部屋に進む。
告解部屋とは、ひとびとの生活における悩みや苦しみを吐き出すための個室だ。壁に網目状の格子が掛かった窓があり、いずこともしれぬ場所に向けて、罪の意識を告白するようにできている。
教導会においては、心の書物は絶対だ。ゆえに罪を隠して生きるよりは、自覚的に反省することを推奨する。
しかし表立って告白すれば、角の立つことも多かろう。そのため都市部の寺院では告解部屋を設けることになっている。教導会はひとびとの相談を受け、苦悩を一手に隠す役割を担っているのだった。
ガーランドは席に着いた。窓の向こう側に影が座るのを認めると、口を開く。
「遅いぞ、デニス」
「──へ、へ、へ。すまんね。王都からの連絡を取るのに手間取ってね」
デニスと呼ばれたおとこは、無精ひげをさする音を立てながら、応えた。
彼は導師の身なりこそしているが、背筋をわざとらしく曲げている点といい、どこかそらとぼけている風がある。それがガーランドにとっては腹立たしい。
「首尾は?」と鋭く問う。
「上々、とまではいかねェが、おかげさまで段取りは進んでる。やっこさん、とうとう動き出したみてえじゃねえか」
「フェール辺境伯がか?」
「さすがにそろそろわかれよ。お前はともかく、おれは、そもそもこっちのほうを調べるために、こんなへんぴなところで導師の真似ごとしてんだからヨ」
そうなのだった。
聖女王国の中枢──星室庁が、その組織と人脈を駆使して散りばめた密偵は、各地方における領主の謀反や、魔女結社の活動がないかを常に伺っている。
ガーランドもまた同様だった。
ところがある日、彼に一羽の遣いがやってきて、任務の変更を告げられた。
人探しをせよ、と。
その対象がノエリク・ガルドだった。いまではラストフと名乗っていることは、調べれば案外かんたんに判明した。だから当人が失踪したと聞かされたとき、自分の動きがバレたのだと考えざるを得なかったのだ。
しかし、図らずもうひとつの大事件に遭遇してしまった。
「──領地内での魔宴の発生は、フェール辺境伯と魔女結社が手を組んだことの証拠にはならないかね? 村がひとつ消える程度の規模の〈結界〉と術式の用意は、はっきり言って領主の協力がないとムリだ」
「しかし、だとすれば、フェール辺境伯はみずからの領民を生け贄に献げたことになる。仮に辺境伯が、女王府に逆らう意図があったとして、そんなことをする意味があるだろうか?」
「あるさ。間違いなくな」
デニスはため息を吐いた。
「魔法技術。かつて古代魔法文明をどこまでも押し広げたという強大な〝力〟だ。この秘密は実際のところ、教えればできるほどヤワなもんじゃねえ。その教訓が、〈エル・シエラの悲劇〉だった」
ガーランドはここでようやく、目を見開いた。
「ノエリク・ガルドは、あの事件で何を知ったんだ?」
「あるいは、とんでもないことまで知ってしまったのかもしれんな」
「何を」
「それはおれたちの知るべきことではない」
ガーランドはのどまで出かかったことばを、いったん呑み込んだ。
「──街に出てる魔物のほうは、どうするんだ?」
「どうもしねえよ。しようもねえ。おれの管轄外だしな」
「しかしこのままでは、犠牲は増えるばかりだろう」
「だからといって、実在しない怪物を、いるとみなしてしまえば教義に反する。導師連は首を縦には振らないぜ? だったら、なりゆきを見守るしかないんだよ」
ガーランドは告解窓の向こう側を伺う。格子から透けて見えるおとこの横顔は、見事に目元だけが隠されていた。
「疑うな、心の書物を思い起こせ。導師連はお前が何をするかではなく、何をなすべきかを見守っておられるぞ」
デニスはおどけた調子で、しかし有無を言わさぬ言葉遣いで喋る。
「……あと、ついでだから訊いておく。あのガキどもに魔法技術を教えてどうするつもりだね?」
「大した理由じゃない。強大な〝力〟は、教えて制御させたほうが身のためだ。それこそ〈エル・シエラの悲劇〉の二の舞を踏まないためにもね」
「なるほど。で、出来は?」
「少女のほうはかろうじて安定している。だが、少年は出来すぎる」
「ほほう」
先を続けろ、と暗に示す。
「あの子たちは、なんら理論的な理解もなく魔法技術を発動した。それも、幻影を断つ剣を、巧みに具現化してみせた。それがどちらの素養から生まれたのか、確認してみる必要があった。おそらく、少年のほうだろう」
「稀にいるんだ、そういう天才肌の奴が。魔女の子供とか、そういうのとは関係なくな」
「だとしても、これ以上は危険だ」
「そうだな。なら、するべきことはわかっているんだろう?」
格子の隙間から、目が覗いた。
ガーランドは無言だった。手のひらに汗がにじむ。握りかけたこぶしを、そっとほどいてから、ようやく口を開く。
「ああ、わかっている」
「ならいい。おれも早いとこ、この街から出てえしなあ」
あーあ、と大きなあくびをする。吸い込まれ、吐き出された息は、邪悪なささやきを伴った。
「フェール辺境伯がその気なら、いずれこの地域はとんでもないことになる。どさくさに紛れてやっちまえばいいんだ。お前さんの仕事を思い出してみろよ、手にかけた人数なんて、指で数えるのも諦めただろ?」
ガーランドは応えない。やれやれ、とデニスは告解窓からすがたを消した。




