十六.魔術──魔法技術とは
まどろみのさなかにあるとき、アデリナは不思議な感触を覚えた。まるで自分がゆっくり水の底に沈んでいくかのような──
(あれ、ここどっかで見たような気がする)
口から泡が爆ぜていく。ことばがことばにならず、意味を失った音に還元されてしまうのを目で追いかけながら、アデリナは自分が夢を見ていることを自覚した。
自覚すると、重く気だるいからだを意識できるようになった。自分はいま背中からゆっくりと下に降りている。
このままでは頭から着地するだろう。
天性の勘がアデリナのからだを動かした。腹のほうに力を込め、上半身を起こすと、足が下になるように調整した。姿勢が制御できてくると、次第に視点はこれから向かう場所──下のほうに移っていく。
よく目を凝らすと、水底からも細かい泡が群れをなして昇ってきている。それらは不愉快な音を立ててながら、アデリナの傍を通り過ぎていく。一回きりではない。間隔を置いて、繰り返し昇っている。
(アタシ以外のひとが、この夢の世界にいるってことなのか?)
その疑問に応えるかのように、アデリナの視界が開けはじめる。するとそれまで濃紺の薄暗い世界から少しずつ輪郭が浮き上がり、すり鉢状の底が見えてきた。
時間をかけて、着地する。砂煙に似たものが足元から立ちのぼるものの、いまいち実感が湧かない。アデリナは誰かいないかと声をあげようとするが、口を開いた途端に泡がボコボコと音を立てるばかりだ。
(アタシ以外に誰かいたとしても、調べようがないな、これじゃあ)
と、そのときだった。
──ごうん、ごうん、ごうん。
大きな金づちが、規則正しく振り下ろされるような音がする。これはかつて水車小屋で聞いた歯車仕掛けの大きな機械の音に非常によく似ていた。
アデリナは音のほうへと足を向けた。すり鉢状の底から、次第に歩みを進めると、稜線から巨大な建造物の屋根をみとめた。よく見るとそれは泡を立てながら、ゆっくりと上昇を続けているようだった。
走る。そして、その全貌を見た。
上昇を続けるその大建造物は、壮麗なる高さに至ると見るや、どっしりと屹立した。するとたちまちのうちに真鍮の扉が数箇所開け放たれた。見れば内部には広々とした広間があり、一面に滑らかで平坦な敷石が敷かれていた。
石脳油や瀝青油を給油された星さながらの燈火や、煌々と輝く吊り燈火がおびただしくも列をなすと、天空より照射されたと見紛うばかりに燦然たる光を漲らせている。
さながらこの世の光という光を食い尽くした巨大な海の怪物のように、とぐろを巻いた蛇のように存在を強調したのだった。
(あれ……?)
その巨大な建造物に、無数のひとびとが列をなして入っている。よくよく目を凝らしたとき、アデリナは、列の中に知っている人物の顔を見た。
(おい──! ──!)
──ごうん、ごうん、ごうん。
叫んだ声は、泡となって消えていく。歯車じかけの機械音が上書きする。アデリナの必死な想いは意味を砕かれ、散り散りになったまま、無力なすがたをさらけ出した。
──ごおん、ごおん、ごおん。
「……ナ、リナ」
誰かが自分を呼んでいる。自分に戻ってこいと叫んでいる。
(どうして、アタシはあっち側に行けないんだ。どうして……)
悲鳴に似た声をあげる。それでも想いはかたちになろうとしない。無意味な泡となって解けて消えて──
「──リナ! もっと集中しろ!」
冷や水を浴びたかのように、意識が現実に引き戻される。
そこは紛れもない部屋の一角だった。
背筋に緊張が走るのを自覚しながらも、あらためて手元を見る。汗びっしょりの手のひらが鮮明になったかと思うと、その先に木組みの三角錐がテーブルに置かれているのが視野に入ってきた。
傍らには、同じようなものを目の前にして立っているルートがいる。その向こう側には右腕を固定したガーランドが座っていた。
奥の窓から差し込んでくる日差しがかなり深い角度の影を伸ばしていた。アデリナはそれで、いま自分が魔法技術の訓練中だということを思い出したのだった。
「あれ、いま何時だ?」
我ながら間が抜けた発言だった。
「……さっき正九課の鐘が鳴ったところだ。もうじき日が暮れるだろうね」
ガーランドはため息を吐いた。そしてゆっくり立ち上がった。
「今日はここまでにしよう。あんまりやりすぎると記憶の混濁が起こる。無理はしないほうが良いよ」
そういうガーランドの表情は、窓から差し込む光が邪魔してよく見えない。しかし黄昏た街の景色と相まって、異論の余地を許さない圧力を感じてしまった。
ガーランドは黙ったまま部屋を出る。アデリナはルートとともに、黙ったまま見送ることしかできなかった。
「──アタシ、なにかやばいことをやっちまったのか?」
ようやく口を開く。ルートは首を振った。
「全然。でもリナは途中から調子悪そうだったんだよね」
ルートはそれから、しばらくアデリナの顔色をうかがっていた。そのあとはたと気がついて、じいっと彼女の目を見る。
「……もしかして、訓練のこと、憶えてなかったりする?」
「どうもそうみたい」
「あー、そっか。やっぱり」
ルートはみずからの脳裏に一冊の写本を思い浮かべていた。おろしたての獣皮紙に、罫線を引いたものを具体的に想起する。
そこにガーランドから聞いて学んだ内容を照らし合わせ、羽ペンで清書するように、みずからに言い聞かせながら、アデリナに話しかけた。
「理論的なところだけ、簡単におさらいしてみるよ。いい?」
彼の話すところに拠ると、魔法技術とは大きく三つの段階に分けられる。
一つが記憶術。物事を知り、把握し、みずからの記憶として繫ぎ止め、いつでも思い出せるようにする技術。
二つ目が忘却術。みずからの記憶を削り取ったり、上書きしたりすることで、過去に繋ぎ止めた記憶を造り替えてしまう技術。
そして三つ目が──
「〝力〟の発現。ボクたちが今日やろうとしたのはこれだったんだよ」
「なるほどな……それがうまくいかなかったってこと?」
「ううん。少なくとも、小さな光を出すぐらいのことならできたよ。あんまり意味はないんだけど」
ルートいわく、〝力〟の発現とは、自分のなかで作った想像を、こちら側に引き寄せて表現することだと言う。
「《光》ってひと言で言ってもさ、それが火が燃えて見えるものなのか、日差しが明るくて見えるものなのかとかで、とにかくいろんなものがあるじゃない? そういう具体的なところまできちんと意識して、頭のなかで再現してみるんだ。それが『ある一定の範囲内』でほんとうのことになる──これが魔法技術なんだって」
「『ある一定の範囲内』?」
「うん。それが〈結界〉って言うんだって」
これのことだね、と木組みの三角錐の玩具を指さした。
よく見ると、三角錐の頂点から紐で小さな水晶玉が吊るされていた。
「〈結界〉を作るには『中心となるもの』と『境界を設定するもの』のふたつが必要なんだよ。これが揃って、初めてボクたちの頭のなかで想像していることと実際に目の前で起きていることの境目があやふやになる。それが魔法技術の仕組みなんだってさ」
「へええ」
ここで、はたとアデリナは不思議に思う。
「だとしても、どうしてアタシは記憶がめちゃくちゃになってんだ?」
「うーん、それはね。魔法技術の根本的な問題に関わってくるんだけど──」
魔法技術は、術者がどれだけ物ごとを知っていて、かつどれだけ状況に合わせて引き出しを使い分けられるかでその〝力〟の強さが比べられてしまう。
例えば、炎を再現するとしよう。焚き火で薪を燃やしながらパチパチと爆ぜるものを具体的に想起して、〈結界〉のなかに再現したとする。
しかしそれはほんものの炎の再現でしかない。いくら極めたところで、燃えるために焚き木と空気を必要とし、風に煽られて無関係なものを焼き焦がす物理的な炎と同じものかそれ以下のものに過ぎないのだ。
したがって、魔術の炎はあえてほんものの炎とは違う表現を持たなければならない。焚き木がなくとも燃え上がり、風に煽られない炎。必要に応じて熱と光を発する都合の良いものを表現しないと実用に向かない。
そうでないと、現実とは異なるものを現出させる異能──魔法としての意味を持たなくなってしまうだろう。
「だから……魔法技術の術者は、その技を自分のものにするために、自分の記憶を──知ってることや事実であることをあえて忘れ、歪めて憶えなおす必要があるんだ」
「え、だとすると──」
「そうだよ。ボクらはさっき、〈結界〉のなかでなんとなく再現した《光》のイメージを作り替えようとしたんだ。それでボクは太陽を直接見た時の雰囲気で丸く輝く球体を作っていたんだけど、リナはそうじゃなかったみたいなんだ」
アデリナはここでいろんなものがつながって理解できた。
(そういえば、《光》が差し込んだ具体的な場面を連想しろって言われて、それで──)
彼女はそれとなしに、故郷のメリッサ村のタケダカソウの原っぱを思い出していた。夕日の輝きが反射して金色に揺れる一面の景色。そのなかで落陽を背中に浴びて、影を帯びたルートの顔。それから──
「アタシあの夢の、続きを見てたんだ」
「へ?」
「──なるほどな」
いつのまにガーランドが戻ってきていた。彼は左腕にオークの木の皮で編まれたカゴを提げており、それをテーブルに置くと、ふたりの顔を見やった。
「夕食だ。あんまり外に出てくれるな、とのことだったから、遣いをやって街じゅうの仕出し屋から食料をもらってきたんだ」
カゴのなかには、サトムギの粉を捏ねて作ったパンに、屑肉を挟んだもの。それから秋の野菜を煮込んだスープを木製の容器に入れたものと、脂の乗ったマガリツノシシの肉を焼いた串焼きが入っていた。
アデリナは歓声をあげて、ルートも感動を隠しきれずに食事に掛かった。山村部ではめったに味わえない肉の味と、ヤセムギよりもふっくらとした生地になるサトムギのパンの食感が、思いがけぬ気持ちを催した。
「街の人って、いつもこんなもん食ってるんだな」
「そうかもしれないね。この時期には収穫祭も兼ねて屋台が並ぶから、それで家畜を潰す場所もあるんだよ」
アデリナは串焼きに手を付けていた。
いっぽうルートは、ふとあることが気に掛かって、食べる手を止めた。
「ガーランドさん、さっき納得していたのはいったい……?」
「ああ、それか」
左手で串焼きの鉄串を抜き、カゴのなかに立て掛けながら、ガーランドは答える。
「いや、魔術の初心者がよく陥る失敗だな、と思ったんだ」
「どういうことですか?」
「記憶を思い出すためのきっかけは、自分で考えてるよりも複雑なんだ。きちんと名前を憶えて、特徴と結びつけられればそれに越したことはない。けれど、私たちの記憶はそれほど機能的じゃない。だから、なんとなく似ているものを探してしまう」
赤いものと血液とを、青いものと晴れ渡った空の色とを、木を登ったときの幹のザラザラとした感触や、鳥が飛んでいる光景を自由で素敵なものだと感じてしまうようなものまで──さまざまだろう。
「だから、それを逆にたどったり、道を踏み外したりすると、全く思いがけない方向に転んでしまう。自分で自分の想像力を制御できなくなるんだ。それで、昨日見た夢の続きなんかを見てしまう。
初めのうち、特に〝力〟の弱いひとの場合はそこまで恐ろしいことはない。途中で自分で訳がわからなくなって、やめてしまうからだ。現れるものも非現実的で、〝力〟を持たない。しかし……〝力〟の強いものが踏み外しをしてしまうと、危険なんだよ」
「どういう具合に?」とルート。
「いろいろある。まずはひとを巻き込む危険で壮大なイメージを実現してしまうこと。巨大な炎を一度にあちこちで発現し、都市を丸ごと火災に追い込んだ例を知っている」
「ほかには?」
「魔物を招くことがある。いや、〈結界〉を設けてさえいれば、よほどのことがない限り魔物が引き寄せられることはないんだが……」
あえて補足説明をしたのは、テーブルの上でパンを取りこぼしたルートを安心させるためだった。
「ただ、この理屈はよくわかってない。魔物を引き寄せる──とさっき言ったが、逆に術者自身が『帰って来れなくなる』こともあるんだ。自分のいる世界と〈結界〉のなかの区別ができなくなって、抜け殻みたいにそのままからだだけが死に至ることがあった」
「それって! すごく危険じゃないですか!」
ルートはふたたびパンを取り落とし、屑肉をぼろぼろと床にこぼしてしまった。
アデリナがぶつくさ文句を言いながら、それをこっそり拾って食べていたが、ルートは気にしてる余裕がなかった。
「まさに。ただ、『戻ってくる』ひとも多くいて、そういう人物が証言したところに拠ると、どうやら魔術使いはこの世界とは違う《どこか》とつながっていて、そこから〝力〟を引っ張り出しているようなんだ」
「《どこか》ってどんなところなの?」
「ひとによってちがう。だから具体的にこういうものだ、と表現できない。もどかしくて申し訳ないけど、そういうものだ」
ただ──とガーランドは付け加える。
「長年の研究から、いつしかそこは〈ムの場所〉と呼ばれるようになった」
「〈ムの場所〉?」
「そう。存在が夢のように儚くなり、無に帰ろうとする場所。ほかにも無数の意味が掛け合わされているが、誰もそこを定義づけることができない《どこか》──」
沈黙が場を覆った。
「──まあ、そこまでたどり着けるほどに強い〝力〟の持ち主は歴史上、指で数える程度しかいなかった。だからこの話は誰もが知っているが、お伽話として知られてる。決して近づいてはいけない。しかし誰も行き方を知らない場所だ、とね」
警告するようにも聞こえるその口調には、しかし失われたものを思い返す苦々しい響きがこもっていたのを、アデリナは聞き逃さなかった。
ガーランドはそれに気づいたのかそうでないのか、おもむろに立ち上がった。
「長話しすぎてしまったね。また明日、訓練をするときになったらまた来るよ」




