十一.記憶と幻影の戦い
「オオカミそれ自体が恐怖の対象だったのは、もう少し古い時代の話だ。いまとなってはその認識は薄れつつある──」
崩れゆくオオカミの幻影から、ガーランドは一枚の銅貨をつかみ取る。
その表面に刻み込まれた、魔狼のしるしを見ながら、彼はつづけた。
「──この印章の刻まれた時代には、この怪物の彫り込みは魔力を持っていたかもしれない。しかしもう古い。森を拓き、けものを駆逐した記憶も、特にこの街道沿いの土地では過去に遠ざかった遺物に過ぎない。
ひとに恐怖と驚きをもたらしたいのであれば、もう少しひねりが必要なんじゃないかな」
ガーランドの勝利宣言の前に、ヴェラステラは黙して応えない。
それをけげんに思っていると、魔女の肩が震えているのがわかった。次第にぶるぶると揺れ動き、やがて彼女は弾けたように笑い出した。
「アハハハハッ! 傑作! あんたまさか自分の置かれている状況も理解できてないわけ?」
眉をひそめるガーランドだったが、すぐにそのことばの意味に気づいた。
すかさず、ヴェラステラの手が動く。パッと素早く振り上げられた腕の動きに合わせて、風が吹く。巻き揚げるそれは、左巻きの螺旋を描いているようだった。
振り向いたガーランドが発見したのは、宙に浮かぶ無数の氷の針だった。
(まずい──!)
途端、残り二匹のオオカミも動き出した。
「危ない!」
ルートが叫ぶと同時に、アデリナが飛び出した。
長剣を抜き払い、ガーランドの不意をねらったオオカミの幻影に斬りかかる。あいにくその斬撃は致命傷にはならなかったものの、横あいからねらった切っ先が、けものの腹に傷を与えることに成功した。
「リナ! 来るな!」
ところが、ガーランドはとっさに、アデリナを突き飛ばした。
あまりに突然だったので、彼女は受け身を取り損ねる。
すると、倒れ伏したその背後で、氷の針が突き立っていた。
(ガーランドさん!)
素早く顔を上げる。
ガーランドは、赤いコートに無数の氷の針を突き立て、血を流していた。
魔女の笑い声がけたたましく聞こえる。
「足掻いたってダメ。だってここはわたくしの領域なんだから」
実に皮肉っぽい微笑みから放たれる第二撃は、手のひらから生み出された、鋭利な氷塊を撃ち放つものだった。
それも、ひとつではない。
無数の刃が飛んできていた。
まるで横殴りの雹を一身に浴びるかのように、容赦のない攻撃を受ける。ガーランドはとっさに身構えてしまった。
(構うんじゃない……これは幻影だ、本物じゃない。この痛みは偽りの感覚だ……!)
必死に自己暗示を掛け、迫りくる幻影に反応してしまう自分を抑えようとする。
しかしヴェラステラの魔術は巧妙だった。さすがに最年少で幹部の座を勝ち得ただけはある。〈結界〉のなかで生み出されるあらゆる像が、限りなく真に迫っている。
迫りくる鋭利な氷のつぶて。ガーランドの自制心はその多くを無効化しつつも、受け止めきれず、ひじや脇腹に傷を負った。
(この娘から漂う感情──痛み、苦しみ、悲しみ、全てが尋常じゃない! いったいどんな過去を背負ったらこんなに過激な幻影を作れるというんだ?!)
生々しい傷痕。向けられた憎悪の数。生まれてきたことそのものへの後悔──あらゆる想いが、貪欲なオオカミのようにガーランドの精神に喰らい付いて来る。
その〝力〟の源が眼前の魔女であることに、ガーランドはむしろ驚いた。
動揺し、精神の集中が乱れ、他者の攻撃的な想いが牙を剥いて襲来する。彼はもはや受け止める力を失いつつあった。
(ガーランドさんが危ない)
アデリナは状況を察して、立ち上がる。
長剣はまだ握ったままだった。だから、このままヴェラステラに向かって攻撃を掛ければ、ガーランドは自由になるかもしれない。
しかし──
(あのオオカミに目を付けられたら、ひとたまりもないよな……)
アデリナはいかに気付かれずに間合いを詰めようか、考えようとした。
そのときのことだった。
「リナ! 目をつぶって! そのまままっすぐ走って!」
ルートの声が聞こえた。一瞬振り向きかけたが、さらに待ったが掛かった。
「そいつらを真に受けちゃいけない! 幻のことなんて気にしないで!」
ヴェラステラの注意がルートのほうを向く。その動揺を見て、アデリナは双子の弟を信じることにした。
考えるよりも早く、駆け出す。すかさず二匹のオオカミが牙をあらわに飛び掛かる。
(信じるな、これは幻だッ!)
彼女はとっさに目をつぶる。そのまま速度は落とさず、走りつづける。
すると、アデリナはあることに気付いた。
(こいつらから、音がしない──)
オオカミの息遣いは聞こえるが、先ほど見た身のこなしと連動していない。一定のリズムで、しかも機械的ですらある。
代わりに、魔女のいる場所ははっきりと分かった。ヴェラステラの息を呑む音が、一瞬だけ、アデリナの聴覚で察知できたのだ。
(そこだ!)
一気呵成に、距離を詰めていく。
片やルートは固唾を呑んで、その様子を観察していた。
一見すると、それは自殺行為だった。実に、飛びかかったオオカミの顎に頭から突っ込む少女のすがたが見えたことだろう。
しかし次の瞬間、オオカミの像は〝力〟を失い、アデリナのからだをすり抜ける。あまりにも生々しく見えたそれは、よそ風に吹かれた程度の影響しか、少女に及ぼすことがなかったのだ。
(やっぱり……)
ルートの仮説は、確信につながる。
彼が立てた考えはこうだった。
(この〈結界〉のなかでは、魔女は自由に思い浮かべたことをほんものみたいに表現することができる。そしてボクらの側で、それがほんものだと思い込んだとき、その通りになってしまうんだ!)
だから、もし魔術の影響を免れたければ、それが偽物だと気付かなければならない。
そうすれば、魔術の産物は〝力〟を失うことになる。
しかしそれを実践するためには、まずそれがほんものだ、と思い込んでいる自分の感覚を否定しなければいけない。
自分の見ているもの、聞いているもの、信じているもの──それを疑ってみなければならないだろう。
(そんなことがすぐにできる人間なんて、そういない。でも、自分ひとりでそれを判断しなければ、回避はできる!)
いっぽうアデリナの振り下ろした刃は、でたらめだったが、紛れもなくヴェラステラに迫っていた。
ヴェラステラは舌打ちをする。状況に対して、ぱちんと指を鳴らし、オオカミの幻影を消去したのだった。
この変化に、アデリナがもし気付かなかったら、危なかっただろう。
魔女は傘の柄を強く引くと、その鋭利な先端を、アデリナのほうに差し向けたのだ。
その一瞬に、流れるような金属音がした。
(なんかやな予感がする──!)
目を開き、長剣を振り下ろしながら、近づいてきたものを往なす。
ヴェラステラが差し向けたのは、仕込み杖の刃だった。
「くそッ!」
「あら、それはこっちのセリフですわよ!」
魔女が素早く蹴りを繰り出す。アデリナはそれをもろに受けてしまい、後方に下がった。
しかし今度はうまく受け身を取った。瞬時に体勢をととのえる。
だが、魔女のほうが先手を取っていた。
「──坊や、なかなかやるわね」
すでにルートの背後に回り、仕込み杖の刃を押し当てている。
「ルゥ!」
アデリナは口惜しげに叫んだ。
(アタシがしくじったせいで、ルゥが……!)
しかし、おかげでガーランドは氷塊の連打から自由になった。
満身創痍ではあったものの、彼は立ち上がり、魔女のほうを向く。
「……その子をどうするつもりだ?」
その目は、まだ戦意を失っていない。
「んー、まあ、どっちでもいいんだけど。賢い子がいると、不利なのよね。オオカミさんも使いものにならなくなっちゃったしさ。でも、そんなに大事な子なの? もしかして隠し子?」
ガーランドは答えない。
しかし魔女は楽しそうだ。
「まあ、そうよね。ノエリクの子供だから、重要人物にはまちがいないわよね」
「──?!」
「隠しても無駄よ。わたくしは全部知ってるから」
そうねえ、とくちびるを舐めてから、魔女はひとりごちる。
「なら、この子の記憶に問い合わせてもいいかもしれないわね」
そう言うや否や、人差し指をこめかみに突き刺した。その指先はまるで泥に突き立てるかのようにずぶずぶとゆっくり入ってゆく。
いっぽうでルートは、この得体の知れない事態に際し、全身に鳥肌が立つような気持ちになっていた。悲鳴を上げたくなるのを、必死にこらえている。
「さあて、《鍵》はどこにあるのかしらね……」
じっくり嬲るように、責め立てるように、しかしどこか甘やかすように、ヴェラステラは調査を進めて行く。
だが、やがて彼女は目を瞠る。
「ウソでしょ。《鍵》がない?」
なんで……とつぶやくその隙を突いて、ガーランドは飛び出した。
落とした長剣を拾い、その切っ先をヴェラステラに差し向ける。
驚いたヴェラステラは、ルートのからだを押し出して、間合いを取ろうとする。しかし、ガーランドはそれを巧みに回避し、さらなる攻撃の手を緩めなかった。
一心不乱に飛びかかる刃に、魔女は虚を突かれたようだった。
焦って防御する庇護者の腕を連想し、長剣を掴むと、これを魔力で叩き折る。
だが、そのせいで主導権をガーランドに譲ってしまった。
気づいたときには遅かった。ガーランドが間合いに迫った瞬間、ヴェラステラの反応は次の手を出すには追いつかなかったのだ。
容赦のない体術が、余裕を失った魔女の足を払う。
ふわり、と宙に浮いたヴェラステラ──そのからだが抑えつけられ、とどめの一撃を喰らうのは時間の問題と言えただろう。
いっぽう、ルートは糸の切れた人形のように倒れかかる。
アデリナは身を投げるようにして、彼のからだを受け止めた。あわてて身を起こし、揺すってみるが、ルートのひとみはどこか虚ろで、さながらガラス細工のようだった。
「しっかりしろ! ルゥ!」
焦りと怒りが込み上げる。自分が何もしてやれなかった無力感もあった。
感情に任せて顔を上げる。
しかしその表情は、次第に恐怖と愕然へと変化していた。
(そんな、なんで……)
見ると、ガーランドが力なく倒れ、ヴェラステラが立ち上がろうとしていたのだ。
「──言い忘れていたけど、あなたがたはなぜ、わたくしが〈氷月の乙女〉て呼ばれているかご存知?」
焦ったアデリナは、長剣を構えて突進する。その動きはとっさにしては俊敏で、ヴェラステラの不意を突いたかのように見えた。
ところが、その切っ先は魔女の眼前で、さながら見えない壁にぶつかったかのように、動きを止めた。
反動が、アデリナのからだに跳ね返る。
自重と同じ質量が、飛び込んだ速度で手首を強い負荷を掛けた。
あまりの衝撃に、アデリナは手を離す。そのままからだごと吹っ飛び、もとの位置まで退く羽目になった。
からん、と長剣が転がる音がする。
「それはね──わたくし自身が、〝月に見初められた子供〟だからよ。わたくしには古き月の神の加護がある。鏡のようにきれいで、氷のように冷たい、月の力がね!」
アデリナはそれを聞きながら、自身の無力を悔しく思った。
(やっぱりアタシの頭じゃ、あいつの魔術を避けられない……見抜くことすらできない……!)
そんな少女の苦しむ様子を眺めながら、ヴェラステラはあざ笑う。
「ノエリクの子供だからってもう少し期待してたんだけど、それはしすぎだったかしら。まあいいわ。あなたたちの旅はここでおしまい。さっさと終わらせて──」
と、言いかけて、ヴェラステラはとっさに身を翻した。
すると、際どいところをダガーの先端が通り過ぎる。ヴェラステラは感情を剥き出しにして、その攻撃を行った当人──ガーランドを蹴り倒した。
そのまま仰向けになったガーランドの、みぞおちに膝を置く。
「先にあんたが死にたいようね!」
素早く氷の刃を生成する。そして、高々と振り上げて──
(もうダメだ! くそっ! ルゥさえ目覚めてくれれば! アタシも武器さえあれば!)
救いを求めて、ルートのほうを見る。
そのときだった──
(──けれども、どうかこれだけは忘れないでほしい。《鍵》はあなたのなかにある)
アデリナは、ルートのひとみに、不思議な紋様を見つけた。瞳孔と虹彩のあわいに揺れていて、最初は判別がつかなかったものの、やがてくっきりと輪郭を帯びて浮かび上がった。
それは、三角形だった。
しかしアデリナは気づいていない。その紋様が、上下逆さまの状態で、自分のひとみにも現れていることを。
ふたりは見つめ合っていた。
さながら恋人たちのように。
生涯をともにすると誓った間柄のように。
強く絡み合うように交わされた視線は、やがて離れがたい縁を可視化する。それは縒りあわされ、紡がれた糸のようにしっかりとお互いをつなぎ、ふたりの紋様を転写し合った。
白く烈しい光が顕現する。
周囲の土煙りを巻き込んで、昇る螺旋を描くがごとき霊気を感じる。それはあたかも、この世ならざるものをこちら側に降ろしている、その途中の光景だった。
強い風を感じ、魔女は手を止めた。
ガーランドもまた気を取られる。
両者のまなこは吸い寄せられるかのように、ふたりのすがたに見入っていたのだ。
(だから、〝その時〟が来たら──手を伸ばして。あなたが心の底から望んだかたちが、そこに宿るはずだから)
突然、アデリナは落雷に打たれたように、ある直感が全身を駆け巡るのを知った。そして考えるよりも素早く、ルートの胸に向かって手を突き出した。
心臓を貫く一閃。
しかし手は突き抜けない。
異次元につながっているのか。
それとも……
やがてゆっくりとした動きで、腕が引き抜かれた。その手には何かが握られている。黒い、否、金色の十字を模したそれは、月明かりに煌めく白刃を伴っていた。
まさか、ガーランドがつぶやいた。
そんな、とヴェラステラは青ざめた。
抜き払ったのは、剣。
月を貫くよう高くかかげる。
そしてそのひとみに宿るは、六芒星──




