十.ヴェラステラ──〈氷月の乙女〉
その少女は一見すると華奢だった。背丈は低くないものの、吹けば飛ぶような細さでもない。
代わりに受ける印象は、うら若い乙女の魅力だった。薫るようなその色気は、少女をひとりのおんなとして際立たせている。
彼女は手に持っていた傘をずらし、月光を差し入れる。すると光が彼女の白い肌を狂おしいほどに美しくかき立てた。
おまけに、彼女の耳元に付けられた珊瑚の耳飾りが、妖しく輝いた。
なるほど〈氷月の乙女〉なる二つ名も、これゆえかと納得するほどだ。
「んー……」
手のひらで傘の柄を弄びながら、少女は三人をひとりひとり検分してゆく。
すでに荷物は降ろしていた。
ガーランドは緊張した構えを取っていた。しかしそこから動くことはせず、じっくり少女との間合いを測っている。
その距離、おおよそ十歩ほどか。
──とても決着をつけるそれではない。
訓練の記憶を通じて、アデリナも無意識のうちに同じ判断を下していた。
しかし、武器をすぐに手に取るような余裕はなかった。
(せっかく父さんの武器を持ってきたのに、これじゃあどうしようもない!)
双子の家から見つかった、二振りの長剣。その片方はガーランドが、他方はアデリナが所持している。
だから、ガーランドもその気になれば剣を抜くことができただろう。しかし、彼もまた武器を取らず、構えていた。
「あらら、せっかく月がきれいな夜なのに、物騒なのね」
「……」
「確かにこんな夜だと散歩がはかどるわ。でも、知っておいたほうがいい。古き神々のなかには、月に見初められた子供をさらって遊んじゃうのもいる──例えば、ボクちゃんみたいな坊やは、ね」
彼女はルートを頭の天辺から爪先まで、じっくりと見つめながら、そう言った。
ルートは口をつぐんだまま、むっつりと黙り込んでいる。
(表情を読まれてはダメだ。魔女ならひとの心を読む技も知ってるはず──)
しかしあまりの緊張から、ごくりとのどを鳴らした。
「ねえねえ、わたくしに見惚れてことばも出ないの? 鼻の下が伸びてるわよ」
「なッ!?」
あわててルートは口元を隠した。
からからと少女は笑った。
「からかいがいのある坊や! とても可愛くて、着せ替え用のお人形さんみたいにキレイ。いいなぁ、持って帰って、オモチャにした〜い」
邪気いっぱいに微笑むその表情は、ひとを堕落させる小悪魔のようだった。
そしてその余裕ぶった笑みが、アデリナは気に喰わなかった。
「図に乗ってンじゃねーぞ、このクソアマ」
「あら、ひどい言いようね。あなたもその口の汚ささえなければ、けっこうべっぴんさんなのに」
「そらどーも」
「あ、でもダメね。胸がないもの」
サッと頰に朱が差した。
とっさに飛び出てしまうからだを抑える。
その自制っぷりを見て、〈氷月の乙女〉はややつまらなそうに、
「別にいいのよ。そーゆーのが好きなひとも世のなかにはいるんだから」
「テメエ……」
さすがに見兼ねたのか、ガーランドがアデリナの肩を抑える。見上げると、彼は首を振っていた。
〈氷月の乙女〉は目を細める。
「あー、保護者さん、で合ってます?」
「不本意だがそうなるな」
「教導会の飼い犬がお子ちゃまたちのお守りやってるなんて、めちゃくちゃ滑稽なお話ね。バカバカしくて吟遊詩人も語り草にはできないわ」
「ああ、珍しいだろう。しかしこんなところまで、わざわざ貴様が出向いてくるとは思わなかったぞ、〈氷月の乙女〉」
「あらダメよ。わたくしにはヴェラステラという素敵な名があるというのに、そんな物騒なお名前で呼ばなくてもけっこうですのよ。──むしろ、ヴェラ、て呼んでいただければ、もっと嬉しいのだけれど」
言いながら、ヴェラステラは傘をくるくると回している。
「誰が望んで貴様らの名など呼ぶものか。たしかに名前で呼ぶことはそのものを縛ることにつながるが、逆に呼んだ側をもそのものに縛られることでもある。
そしてそれが貴様ら魔女の黒魔術であるということを、私はよく知っている」
「あらあら、よくご存知ね」
そう言う表情は、しかしどこか淋しそうだった。
しかし、それもつかの間のことだった。
「でも、親愛の証として、しっかり憶えてもらわなきゃいけないわ。だってガーランドさん、あなたのことを阻止しないといけないんですもの」
──そのひと言が、戦いの合図だった。
ぱちん、と指を鳴らす。
すると彼女を起点に、烈風が同心円上に拡大していく。
それが一同のからだを通り過ぎた瞬間、アデリナはりいん、と鈴の鳴るような音を聞いた。
(またあの音だ!)
途端、視界が激変する。
さながらゆっくりと青いもやが掛かるかのように、世界が青ざめていった。
驚いて、とっさに振り返ると、そちらでは世界が赤みがかっている。
「──〈結界〉を見るのは初めて?」
ヴェラステラは不敵に微笑んだ。
「もう少し待てば、見た目は普通の世界になるわよ……」
と、ここでガーランドが長剣を抜き払い、前に飛び出した。
大胆な踏み込みとともに、目にも止まらぬ速さで間合いを詰めてゆく。
あ、と言う間に、彼はヴェラステラののどに向けて、切っ先を向けていた。
このまま魔女の反応が遅れれば、一撃必殺も可能だろう。
しかしその剣は、彼女の眼前で止まった。
「無粋なおとこね」
さながら見えない何者かの腕が、彼女に向く刃を握っているかのようだった。
勢い余ったガーランドのからだは、しかしびくともしない。土ぼこりだけが、彼の走った軌跡を残している。
「甘いにもほどがありますわよ。〈結界〉を張り終える前に決着を付けようなんざ、トーシローの考え方よ!」
ヴェラステラがあざ笑う。そのひとみは獲物を見つけた肉食獣の笑みに似ていた。
口惜しげに長剣を握りしめるガーランドを尻目に、世界の色が元に戻る。その途中で、双子は背景の月に五芒星の紋様が浮かぶのを見た。
「──封印完了。じゃあ早速」
傘を閉じ、その先端をだんッ、と地面に突く。途端に大地が揺れ動き、急に植物が芽吹くように、粘土の腕が生え始める。
その腕がガーランドの足首を掴むと、思い切り強く引っ張った。同時に腕じたいも空に向かって高く伸びてゆく。
ガーランドは頭と足がひっくり返るのを感じながらも、とっさに長剣を手放した。
そして、すぐさまふところに手を入れて、何かを素早く弾き飛ばした。
ヴェラステラは顔色を変え、とっさに飛び退る。
飛んできたのは二本のダガーだった。ひとつは飛び退って躱すことに成功するも、もうひとつが彼女の左の頬を掠った。
激痛が、彼女の思い描くイメージの力を削いでいく。途端、ガーランドを掴む腕がかき消え、長剣も地面に音を立てて落ちた。
つつ、と滴り落ちる血が、〈氷月の乙女〉ヴェラステラの感情を刺激する。
「ちきしょう。あと少しだったのに」
悪態をつくと、彼女は古い銅貨を三枚取り出した。おのおのの中心部には怪物の図像が彫り込まれている。
それからふっと自分の息を吹き掛けると、三枚同時にガーランドに向けて投げつけた。
すると、銅貨が光り輝き、三体の魔物が出現した。
三体とも実体のないオオカミだった。そのたてがみは、風の前の炎のように激しく揺らめいている。
彼らはさまざまな軌道を描いてガーランドに迫るものの、手出しはせず、動きを抑制するように取り囲んだ。
(魔狼か──)
ガーランドはすぐにそう判断した。
「ずいぶんと安直なものを引用してきたな」
「うるさいわね……ッ!」
苛々した口調で、魔女は応える。
いっぽうアデリナとルートは、〈結界〉内部で発生している一連のできごとに、頭の理解が追いついていなかった。
代わりに、押しつけられたかのような得体の知れない恐怖心がある。
(あれが魔物なのか)
アデリナはグッと剣の柄を握った。
(ガーランドさんが動けないのは、さすがにまずい。戦い方は知ってるかもだけど、このままじゃアタシたちはヴェラステラと真っ向から戦うことになる)
さすがに魔女相手に勝てる気はしない。さっきの魔術も、アデリナにはタネも仕掛けもわからなかった。
ルートならわかったかもしれない。しかし彼は黙ったまま、ひたいに汗をかいている。
(別にルゥが魔術使いなわけじゃないんだ。下手な期待はしないほうがいい)
そうこう考えているうちに、幻影のオオカミの一体が、ガーランドの背後から、巧妙に飛び掛かろうと動いていた。
「ガーランドさん!」
アデリナが叫ぶ。しかし──
「大丈夫だ」
オオカミのすがたは、さながらガラス細工が石壁に衝突したかのように、ガーランドの後頭部で粉々に砕け散ったのだ。
その破片を背中で浴びながら、ガーランドはヴェラステラへの目線を動かさない。
「この程度の魔術なら、騎士学校で訓練を受けた私でも対応できる。甘いよ、お嬢さん」
ヴェラステラは目を細くした。




