九.星室庁から来た男
「なんで、て思ってるのかい?」
そう言ったガーランドは、赤いコートをズタズタにして、すっかりくたびれているようにも見えた。
けれどもその顔は以前会ったときと変わらず、余裕すら垣間見える笑顔だった。
すでに日は暮れかけている。
血のように赤い夕焼けが、あたり一帯を深く影を刻み込み、ヤセムギの畑に描かれた魔女の印をよりいっそう不吉に見せつける。
「遅いよ、若僧」とユリアは言った。
「なにぶん、緊急事態なもので」とガーランド。
「なあにが緊急事態さ。この子たちのほうが優先事項じゃないのかい」
「優秀な守り手がいるから、安心しておりましたよ」
「達者なクチを聞くじゃないか。そういうのは好きな女の子を口説くときに使うもんだよ」
「淑女諸賢には須らく優しくせよと従騎士時代に教え込まれているものでして。それに、私には許嫁がおります」
「フン、そうかい」
つまらないのぅ、とユリアは鼻を鳴らす。
頭の上で飛び交う言葉に、ふたりは戸惑うばかりだった。
「え、と、あの、これは?」
「どゆこと?」
「あれ、言ってなかったんですか?」
「バカもん、それこそ優先順位ってものがあるんだよ。どっかの誰かとちがってね」
「はっはっは、こりゃ失礼しました」
そう上品に笑うと、ガーランドは、片眼鏡にかかった金髪を整えなおしてから、ふたりに言った。
「大学都市出身の医術師、というのは単なる肩書きのひとつに過ぎない。本職は教導会の星室庁、いわば密偵に当たる」
「あなたが……」
アデリナがそう呟く傍ら、ルートはズカズカと間合いを詰めた。その青いひとみには、敵意がみなぎっていた。
「星室庁の男、あなたがお父さんとお母さんの敵なんですね」
「おい、ルゥ」
アデリナが制止するも、ガーランドはあまり気にしていない。
彼は先に少女のほうを向くと、にこりと微笑む。
「リナ、無事でよかった。熱も引いて、すっかり元気そうじゃないか」
「え? あ、はい」
戸惑うアデリナ、疑うルート。
そのふたりを前にして、ガーランドは少しも動じない。
「どうやらふたりとも、記憶が戻ったみたいだね。安心した。ラストフとエスタルーレのことも、いまなら話せる」
男はタナウラカエデの幹に寄りかかり、問わず語りに口を開いた。
「簡潔に言うと、私はもともと、君たちのご両親にある用があって、この村に来た。
こう見えても、だいぶ長い間探し回っていたんだよ。ざっと三年近く、聖女王国のあちこちを歩き回った。ようやく見つけたときには、君たちのお父さんは〝ラストフ〟と名乗っていた──」
「え、待って。アタシたちの父さんはラストフって名前じゃないのか?」
とっさにアデリナは質問する。ルートが険しい顔をして、手でさえぎろうとしたが、ガーランドの応答のほうが早かった。
「そうだ。彼のかつての名はノエリク・ガルド。西方辺境の田舎貴族の生まれでありながら、騎士学校で一二を争う人材、そして女王陛下から〝力〟を分譲された、正真正銘の〈聖印の騎士〉だった──もっとも、私が知ってる時点ではすでに行方知れずだったから、うわさでしか知らないけどね」
「聖印の、騎士……」
このとき、彼女の記憶が閃いた。
(そうか、だから父さんはアタシにあれだけ厳しかったんだ)
幼い日々の記憶で、アデリナはなぜ父と木剣を交えていたのか。
過去に騎士だった可能性はあった。しかしまさか聖女王国でも最強の名を持つ、聖印の騎士のひとりだったなんて──
(思いもしなかった。そんな素振りもなかったはずなのに)
ガーランドはつづけた。
「とにかく、すでに彼はひとり身で、君たちを育てる父親になっていた。だから、最初は聞いていた人相が一致しても、本人かどうか疑ったぐらいだ。けれども、私は何度か話をして、ラストフとノエリクが同一人物であるところまで突き止めた──その矢先だったんだ、彼がいなくなったのはね」
「それは、あなたが星室庁の人間だから、ではないのですか?」とルート。
「かもしれない。しかし、こうして怪現象が起きている以上、違う目的があるようにも思えてならない。だから、私は君たちをラストフのところまで安全に守ると誓おう」
ルートはしかし、疑いの念が拭えない。
「それで、お父さんを見つけたらボクたちを人質に、その用件ってのを果たそうとするんでしょ?」
「必要に応じれば、あるいは、ね」
「否定はしないんですね」
「私も立場ってものがある。見透かされているなら素直に答えるしかないよ」
ここで、ルートがキッとガーランドをにらんだ。ラピスラズリのような美しい眼差しが鋭く投げられる。
ガーランドは、眼前の少年が自分を威嚇しているとはっきりと理解した。
「あなたは信用ならないひとだ。けど、たしかにボクらは非力だ。あなたの力を借りないといけない。だからこれは、あくまで利害の一致であって、それ以上のものじゃないですからね」
「やれやれ。足元を見られたものだね」
ガーランドは両手をあげる。
降参の意志を示したのだ。
そのとき、山からひゅう、と風が吹いた。
とても冷たい風だった。
まるで一足先に冬がやってきたようでもあった。……まだ、秋の盛りだというはずだというのに。
この風を肌に感じた途端、アデリナとルートは本能的な恐怖を察知した。そのことにガーランドも勘づき、さらにユリアがつぶやいたひと言で、決定的になった。
「魔術の気配がする。これは間違いなくヤツらだあね」
魔女結社だとは、言うまでもなかった。
「さあ、行きなさい。急がないとここは瘴気の渦に呑み込まれてしまうだろうね。この寒さだと、ひょっとすると……」
「ひょっとすると?」とアデリナ。
「いや、なんでもない。早く支度するんだ」
「お婆ちゃんは、行かないの?」
アデリナが尋ねる。
しかし老婆は首を振った。
「わたしはもう歳だ。死ぬ場所ぐらいは選ばせておくれよ」
「死ぬ場所だなんて……そんなこと言わないでよ」とルート。
「つべこべ言わない。お前さんたちは早く支度をするんだ。食料と水はある程度準備があるから」
そう急かされたふたりは、ユリアの剣幕に圧され、あわてて用意を始めた。簡単な荷造りを行い、護身用の武器を備え、外套を羽織ったぐらいだが、しないよりはましだった。
双子が準備をしている間、ユリアはガーランドに向かって言った。
「あの子達を裏切るような真似をしたらほんとうに許さないよ」
「わかっています。そこまで私は身の程知らずではありません」
やがて双子の支度が済むと、ガーランドは解き放たれる。彼は食料と水を荷物を分担させてから、ふたりを連れて歩き出した。
その背中を、ユリアが手を振って見送る。
生きていればまた会えるさ──彼女はそう言っていたが、もうこれで二度と会えないのは直感的にわかっていた。
だから、ふたりはガーランドに従いつつも、ちら、ちら、と背後を見やって、ユリアのすがたを忘れまいと目に焼きつけようとしたのだった。
だんだんと遠ざかる村の景色に、山が夜に高く影をそびえる。それは別れゆく故郷の名残惜しい光景でありながら、彼らを追いかける不穏な影でもあった。
風はどんどん強くなる。
心なしか、白い粒が混じっていた。
気づいたときには、昇り始めた月に雲が掛かっていた。その雲から、冷たい風が雪を運んでいるのだ。
気温が低くなり、道沿いの植物がつぎつぎと冷酷な風になでられ、力尽きる。同じ風がガーランドやふたりをさすり、容赦無く体力を奪わんとしている。
いまや、みな無言だった。
言葉を交わす余裕などなかったのだ。
走るわけではない。しかし急がねば。
そうした意志をともにして、背に迫る風から逃れるように、ひたすらに、ただひたすらに歩を進めていった。
やがて、月が中天に昇り、東に掛かった雲をまたいだころ。
まだ雲は空を覆うまでには至ってない。
けれども時間の問題だった。
びょう、びょうと吹き荒れる風は、すでにこの付近の環境をひとならざるものの世界に吞み込もうと舌を這わせているのだから。
「……なあ、ガーランドさん」
無言のなか、アデリナは話しかける。
風の雄叫びに逆らうように。
「父さんは──ノエリクさんは、どうして聖印の騎士をやめて、追われる身になったんだ?」
「それを知ってどうするの」
返事は問いかけだった。それも酷く冷淡で、問いそのものを拒絶するかのようでもある。ガーランドという人物の、見てはならない側面をのぞいてしまったかのような、後ろめたい気持ちが湧き上がりかけた。
だが、それでもアデリナは問う姿勢を諦めなかった。さながら砥石で、鈍い刃を研いでいくように、気持ちを奮い立たせた。
「ユリアさんは、父さんと母さんが世界の秘密を知っている、と言っていた。それもとびきり重要なことだって。たぶん、ガーランドさんもそれを知りたくて、父さんを追っていたんじゃないのか。
でも、だったら、なんで父さんは聖印の騎士をやめて、こんなとこに逃げなきゃならなかったんだ? あなたはまだそのことを話してない。だから教えてほしい」
そう言い切った彼女のひとみは、研ぎ澄まされた刃のように澱みがなかった。
やれやれ、とガーランド。
もうその表情から、笑顔の仮面は外されていた。
「可愛くないね、きみたち。しかしそれが成長したということなのかな」
いいだろう、と彼は言った。
そんなに聞きたければ、教えよう、と。
「──〈エル・シエラの悲劇〉。いまから約十四年前、湖上の神殿都市エル・シエラにて魔女結社と聖印の騎士が激突した事件だ。君たちが生まれる前の出来事になるだろう。私自身、君たちと同じぐらいの歳だったから、当事者として居合わせたわけじゃない。
ただ、聞いた話によると、このときノエリクは〝同胞殺し〟をやったとされている」
「──?!」
「あと、補足しておくと、リナは『ノエリクが聖印の騎士を辞めた』と言ったが、それは誤りだ。彼は〝力〟の返上をしていない。それどころか、他の聖印の騎士のしるしを奪ったとすら、言われている。だから、これは世界的な叛逆行為に他ならなかったんだ」
「そんな……」
衝撃を受けたアデリナを尻目に、ガーランドは続ける。
「むろん、そんな絶大な〝力〟を持った男を相手に、私のような人間が勝てるとは思わない。私自身、聖印の騎士でもなんでもないからね」
「──でも、あなたにはボクたちの身柄、という有効な手札がある」
ルートが割り込んだ。
淡々と、棘を含みながら。
「〝力〟というのがなんなのかはよく知らないけど、あなたはボクたちを守ることで、父とそれなりに対等に話す立場を得た。
その気になれば、父さんから〝力〟を奪って、どうとでもできるとか、そう考えているんじゃないの?」
にらみつつ、そう断言する。
だがガーランドは余裕を見せた。はっはっはっ、と笑い声をあげる。
「好きに言いたまえ。しかし世の理も知らないまま、ひとを疑うのはあまりよろしくないと思うよ、ルゥ」
最後のひと言は、寒々しい空気のなかで、ひときわ恐ろしく聞こえた。
それでも、ルートは負けじと言い返した。
「あなたたち星室庁は、自分たちの都合さえ付けば魔女狩りだってなんでもして良いと思ってるんですか?」
「──いいんだよ」
「えっ」
突如、そこに声が割って入った。
鈴の鳴るような、愛らしい声が。
ようよう差し掛かっていた街道沿いに、里程を示す塚が築かれている。
声はそこから聞こえていた。
心臓をキュッと握られたような驚きをこらえて、そのほうを見やる。すると、塚の上に腰かけた、ひとつの影が視界に入った。
月明かりが、影の正体をあらわにする……
「おまえは……」
絶句するガーランド。
対する影は、クスクス笑いながら、
「ねえ坊や。大切なことを教えてあげるわ。人間ってのはね、正しいと思い込んだらそれが本来どういうものかすら忘れてしまう、薄情な生き物なんだよ。
だから、この愚かものはさっさと殺して黙らせてしまいましょう? キャハハハッ!」
笑ったものの正体は、少女だった。
そしてアデリナとルートは、その少女を見て、ガーランドがつぶやいた言葉を聞き逃さなかった。
〈氷月の乙女〉、と。
それは、魔女結社〈イドラの魔女〉でも極悪級の幹部のひとりを指す二つ名であった。




