序.忘れじの花を、忘れられたあなたに
長い間、夢を見ている気がした。
それは儚くも美しい、一枚の絵だ。
まるで蝶の羽ばたきか、花のかすかな匂いのように、おぼつかない景色。しかしはっきりと、少女の心に刻まれている。
どこからともなく吹く風が、視界いっぱいの花畑にさざなみを立てていた。
さながら青い湖の上である。
少女が走ると、花びらはしぶきを上げる。一歩一歩進むたびに、青い花びらが宙を舞う。それが楽しくて仕方なかった。
だが、少女は立ち止まった。
「……ナ、リナ」
少女の名前を繰り返している。
しかし不思議と怖れはなかった。むしろ親しみを感じる、懐かしい声だった。
その声目指して、少女は走る。
青い花びらを散らしながら。ほのかな甘い香りに包まれながら。
やがて見いだしたのは、木の近くにたたずむひとりのおんなだった。
近づいて、見上げる。しかし顔は見えない。ちょうど光が背後から差し掛かり、影になってしまっている。
けれども少女はこのひとを知っていた。この声、この匂い、このまなざしは、まちがいなく記憶に残っているものだった。
だがその名前を思い出すことができない。
「憶えてなくても、いいの」
すると、おんながまるで察したかのように言った。手を差し伸べようとして、少しためらってから、しゃがんで同じ目線に立つ。
おんなの顔から、青くて透き通ったひとみがのぞく。
「あなたはまだ知らなくていい。わからなくたっていい。けれども、どうかこれだけは忘れないでほしい。《鍵》はあなたのなかにある。だから、〝その時〟が来たら──」
風が、強く吹いた。
少女はとっさに訊き返す。しかしおんなは構わず話し続けた。
「──どうか〝その時〟が来ないことを祈っています。しかし近いうちに来るでしょう。だから、せめてそれまでの間、元気でいて」
さらに風が強くなる。そして花びらの波しぶきとともに少女を押し飛ばした。
尻もちをつくかと思った。しかしそのからだは、地面をすり抜けてしまう。
まるで果てしない水底へと沈んでいるようだった。
ゆっくりと落ちてゆくなか、少女は無数の雪のように白い花びらと、その向こう側にある巨大な樹の枝の影を見た。
りいん、と鈴の音がする。そして──
「ねえリナ! いい加減起きてよ!」
目を開くと、双子の弟であるルゥが、ふくれっ面で見下ろしていた。
身を起こすと、そこは金色の草原だった。大のおとなも隠してしまいそうなタケダカソウの原っぱが、視界いっぱいに広がる。
金色に見えるのは、夕暮れの光を浴びた枯れ草の色だった。
「あれ、ルゥ。おはよう」
「おはよう、じゃないでしょ。いま何時だと思ってるのさ」
そう言ってルゥは、長い黒髪をかしげる。双子ではあるものの、リナとルゥの外見は全くの別人だ。
例えば、髪。ルゥの髪は黒くて長くて艶がある。おまけに持ち前の髪をそのまままっすぐ、肩まで下ろしている。黙っていれば絵になるほどに、美しかったのだ。
しかしリナの髪はくすんだ金色で、癖毛だった。だから彼女は伸ばすのを諦め、うなじがはっきり見えるほどに短くしていたのだ。
正直なところ、そんなルゥの外見が羨ましかった。けれども彼はずけずけと顔を近づける。リナの思いなどつゆ知らずに。
「ほら、立ってよ。ここに何しに来てたか、きちんと思い出せる?」
「えーっと、なんだっけ、それ」
「もう、ほんとにさあ、しっかりしてよね。騎士学校で同じことしてたら、鞭で叩かれるんだからね」
「うっせ、余計なお世話だろ」
「はいはい。じゃ、これ持って」
つっけんどんにルゥが突き出したのは、カシの木の皮で編んだ籠に、目一杯に集められた白い花だった。ワスレジバナだ。〈記憶の花〉とも呼ばれている。
それでようやく思い出した。
いまは秋、黄昏の季節。冥府の彼方から、生命の実りと死者の魂が一緒にやってくる頃合いだ。そのためこの時期、ひとびとは収穫を祝い、死者を弔う祭りを行うしきたりなのだった。
「ああ、そっか。母さん、戻ってくるんだったな」
「実感湧かないかもしれないけどさ、こういうのは騎士道精神的にも大事だと思うよ」
「あー、あー、聞こえない聞きたくない。あんたはアタシの母親代わりかっての」
「だったら姉さんらしく、しゃんとしてよ」
「うるさい! 弟のくせに生意気だ」
むきになって突き出した手を、ルゥはひらりと避けてみせる。寝起きだからだろうか。いつもならこんな隙など与えないのに。
ルゥのにやにやした顔が、憎らしい。
「ほうら、騎士見習いさん、はあやくしないと晩ご飯抜きだよー」
と、なにげない会話をしつつ、ふたりが歩き出そうとした、その時であった。
ふと、ルゥが振り向き、立ち止まった。リナはと言うと、カゴを抱えたまま、ひざを立てたばかりだ。
そのまま立ち上がる。そこでようやく、双子の弟が、不思議そうに首を傾げているのに気がついた。
「ん、どうかしたのか?」
「いやそれはこっちのセリフだよ」
「え?」
「なんで泣いてるのさ。悪い夢でも見てたの?」
「ウソだろ?」
思わず指を目元まで持ってゆくと、たしかに透明な液体が、しとどに、絶え間なくあふれ出ていた。それでようやく、リナは、自分が泣いていると知ったのだった。
あごの先から、滴が落ちる。水滴は、花びらに落ちて跳ねた。その一点だけほのかに青みがかったことを、ふたりは知らない。
「どうして……」
その問いかけは、風になって消えた──
†
ふたりが向かった先は、メリッサという山あいの村だった。
聖女王国の東側、辺境のなかの辺境と蔑まれるこの場所は、百年ほど前の大開墾によって拓かれた。村の中央広場に打ち立てられた〈祈りの碑〉には、当時の女王家が発した、臣民を思いやることばが刻まれている。
しかし、そうした銘文とは裏腹に、この村における出来高は思わしくなかった。そのため徴税人たちにひどく呆れさせたという。
実際、王立図書館に所蔵される『王国地誌』において、この村はこう書かれている。
「猫のひたいのようなわずかな土地から得られるのは、ヤセムギばかりで、本来あるべき穀物はすっかりだった」と。
以来、この地は東部辺境を守護するフェール辺境伯によって統治され、廃れることなく今日までながらえてきた。
さいわい、辺境伯の城から騎士が、定期的に巡回しており、治安は良かった。彼らは地元で育ち、辺境伯の居城で訓練された愛郷心豊かなひとびとでもあった。
川沿いに並ぶ塚を通り過ぎ、村を囲っている木の柵が見えてくると、双子はより急ぎ足になった。
「急がないと門が閉まっちゃう」とルゥ。
「大丈夫だよ、今日の門番はティークだ。話せばわかる奴だよ」
「外で昼寝してましたって? それとも原因不明の涙が流れて止まらなかったんです、て感じ?」
「バッカおまえ、それは言わない約束だろ」
「言わないよ、さすがに。どっちにしたって納得してもらえないしね」
そんな軽口を叩きながら、ふたりは門にたどり着いた。
両開きになったカシ製の門扉が、少しずつ閉められようとしているところだった。
「おーい、待ってよ!」リナが手を振った。
すると、門の陰から男が現れた。栗毛のティークだった。彼はフェール辺境伯の軍団でも、村の出身の若手で、双子とも歳が近い。
彼はしっと人差し指を立てると、周囲を見回してから、素早く手招きした。
「ありがとう」とリナ。
「リナが遅いのはいつものことだけど、ルゥは珍しいな」
ティークは面白いものを見る目で、しげしげとふたりを見比べた。
ルゥは肩をすくめる。
「魂迎えのために、〈記憶の花〉を集めていたんです。そしたら離ればなれになっちゃって……」
「またどーせリナがサボって昼寝でもしてたんだろうな」
「あッ、ティークおまえ、なんで」
「図星か。リナはカマかけるとすぐ顔に答えが出るからな」
ルゥは、ボクは知りませんよという態度を全身で表した。
「それにしても、閉門が早くないですか? まだ〈時の鐘〉は鳴ってないと思いますけれども」
ティークは待ってましたと言わんばかりに答えた。もったいぶって眉をひそめる。
「いや、それなんだが、ここ数日魔女結社の出没が激化しているらしい。用心しろってお達しが昨日あったばかりでさ」
「昨日?」とルゥ。
「ここだけの話なんだが、三日ほど前、瘴気の渦が確認されたらしいんだ。ずっと南の、タリムのあたりだがな。だから付近の都市はもちろん、人里には例外なく警戒態勢を敷くよう連絡が回ってるんだ」
「魔物が出たのか?!」とリナ。
「まだわからないが、ほぼ間違いないんじゃないかと思うぞ」
魔女結社のうわさは、辺境にもよく知れ渡っていた。
教導会と聖女の権威に刃向かい、女神の平和を乱すもの。そう、教えられている。
特にここ最近は、結社の活動を取り締まるために騎士団が出動することも増えていた。
というのも、やはり魔物の存在が大きい。魔女は独自の黒魔術を用いて、冥府の闇をもたらすのだと、もっぱらのうわさだった。そこでは必ず魔物が現れ、近隣の人里に被害を及ぼしているのだった。
「まあ、討伐部隊編成の話もある。リナはおとなしく騎士学校にでも行くんだな」
「またまた、バッカにしてくれちゃって」
「いいか、たしかにおまえは脚が速いし、身のこなしとセンスがある。導師さまから騎士学校の推薦を受けたのもわかるけどな、実戦経験はないだろ?」
ティークは真剣だった。
「わーってるよ。ちょっと知りたかっただけだって」
「だったらそこのルゥを見習って、よく書物を読むこった」
「うるせいやい。だいたいティーク、おまえってば──」
「はいはい。ケンカはそこまでにして。ティーク、ありがとう。いつかお返しするから」
「おう。親父さんによろしく伝えておいてくれよ」
文句を垂れるリナを、ルゥが引きずるようにして連れて行った。
その傍らで、ティークは黙々と閉門の作業に戻っていった。
ふたりはそのまま広場まで進むと、最初に〈祈りの碑〉に近づき、手を合わせる。
教導会が管理するこの碑を通じて、聖女アストラフィーネの坐す天堂へと、日々の感謝の祈りをささげるのだ。
その後、左側にある登り坂を進んだ。赤い屋根の母屋が軒を連ねるなかを駆け上がると、右手には段々畑となったヤセムギの実りの穂が一望できた。
そのまま少し進んだところに、煙突の付いた大きな小屋がある。そこが双子の住む家だった。
ところが、家の少し手前で、ルゥの足が止まった。つられてリナが注目すると、その視線の先に、村の導師のすがたがあった。
「導師さま!」
「おお、リナにルゥか。無事で良かった」
ルゥの呼びかけに応えた導師は、まるで行方不明になった子供を見つけたときのような喜びの表情を浮かべた。
そんな大げさな、と思うと同時に、リナはふと妙な感じがした。耳の端にぴんと糸が張ったみたいな違和感。何か大切なことを忘れてしまっている。
「何か、あったんですか?」
導師は戸惑ったように双子の顔を、交互に見やった。
言うべきか、言わないほうがいいか。その判断を迷っている。
「導師さま、はっきり言ってくださいよ」
ため息を吐く。これ以上の隠し事は無理だろうと諦めの表情すら浮かんでいる。首を振ってから、決心したように、導師は言った。
「そのう、昼からずっとラストフの姿が見えなくてな。お前たちと一緒かと思ってたんだが……」
「ラストフ?」とルゥ。
「誰なんですか、そのひと」とリナ。
導師は目を瞠っていた。口をポカンと開け、なにを言われたのか、まるで理解できないようだった。
「お前たち、本当に知らんのか」
「いえ、べつに」
「そもそも名前も初めて聞きましたよ」
「そんなバカな……」
慄える手で、伸ばした顎髭をさする。
落ち着きのない仕草が、何かとんでもないことが起こったことを示している。
不安になったルゥは、恐る恐る尋ねた。
「もし良ければ、お手伝いしましょうか?」
「ん? ああ、そうだな。きみたちにはちゃんと手伝ってもらわなきゃならん。なぜなら……」
と、しばらく瞑目してから、覚悟を決めたように言った。
「ラストフは、お前たちの父親だからな」
2020/09/20
全面改稿しました。
2020/10/07
イラスト・タイトルロゴ添付。
どちらも(それぞれ別の)友人からの頂き物です。




