モノクロの天国
「お目覚めですか」
目を開けると、その場にいた男から声を掛けられた。ベッドから体を起こし、周囲を見渡す。その部屋の広さは八畳ほど。石造りの白い壁と天窓から差し込む光が、清楚な空間を演出していた。どことなく神秘的な気配を持っていたが、私が知るどの宗教にも属していないように思えた。
どうにも記憶があいまいだった。何故私はここにいるのか。かたいベッドに寝かされていたのか。皆目見当がつかなかった。私が目の前の男に問う前に、その男は口を開いた。
「ようこそいらっしゃいました。ここは、死後の世界でございます」
はぁ。男の淡々とした事務的な口調に、思わず力のない返事が漏れた。しかし言われてみれば、この空間にも説得力があった。納得と同時に、かすかだが記憶が回復してきた。そうだ、確かに私は死んだ。
「こんなものか」
思わず小さく呟いた。男には聞こえていなかったのか、あるいは意に介さなかったのか、表情に変化は無かった。あの世といっても所詮はこの程度なのだ。確かに神秘的な空間ではあったが、それ以上の風格は感じられなかった。神殿やら仏閣やらの方が、ずっと威厳がある。
また、拍子抜けというのは「死」についても同じだった。事を済ませるまでは、随分と仰々しく身構えていたものの、終わってみればあっさりしたものだった。首を吊る苦しみなど、死に向かう苦しみなど、想像していたより遥かに優しいものだった。
そうだ、私は自殺したのだ。また少し思い出した。だが、何が原因で自殺に至ったのか、そこまでは思い出せなかった。
私は男にいくつかの質問をした。男はそれに不足なく答え、更に聞いてもいない事まで私に話した。その中で、男は案内人を自称した。どうやら死後の世界にも、サービスの精神は存在しているようだった。簡素な会話がひと段落着くと、男は私をその部屋の外に誘導した。促されるまま私は男に連れ出され、死後の世界を案内されて周った。
色々な施設、場所、空間を見て周った。私はそのどれにも、特別な感想は抱かなかった。数多の人間が存在し、秩序を維持するための社会が存在する。人間の法則に従ったごく普通の世界だった。神秘的な見てくれをしていたのも、最初の空間くらいだった。あの場所は、死んだ人間が最初に現れる転送場らしい。冷静ですね。案内の途中で男は私に言った。死後の世界だと理解するとパニックになる者もいるらしい。だが私は、既に男の話にも興味を失っていた。それが傍からは冷静でいるように映ったのだろう。案内の最後にたどり着いたのは、集合住宅だった。この死後の世界での住居を決めるまでの、借りの住処。それがこの俗世の象徴のようなアパートメントだった。中にはここに永住する人もいる。男は案内の最後にそう付け加え、いくつかの書類を渡すと、別れを告げ去っていった。仮住まいとして与えられたその部屋は、例にもれず簡素で画一的なものだった。六畳一間の1K家具付き。立地によっては良い物件かもしれないと思った。増える人口と多様化する思想に逆行し、社会を維持するために統一された狭苦しい空間。そういった意味では、最も社会的な施設ともいえた。私はその部屋で、速やかに首を吊って自殺した。ようやく全て思い出した。私は社会なるものに絶望して自殺したのだ。
目を開けると、そこには同様に男がいた。さきほど別れた男とはまた別人の男。その男から私は似たような説明を受け、似たような場所を案内された。違いを挙げるなら、そこは二番目の死後の世界との事だった。男はそう説明した。死後の世界で死亡すると、今度はこの世界にやってくるらしい。他の人も二度目となると大抵のことに驚かなくなるのか、冷静だなと指摘する文句を聞くことは無かった。最後に住居を案内され、同様に私は首を吊った。慣れたものだ。
三番目、四番目にも、やはり死後の世界は存在した。似たような説明と案内を受け、似たような場所で話が終わる。これもまた、様式の統一化なのだろう。だが、明らかな変化もあった。気が付けばコンクリートの建物は見当たらなくなり、人々が集まる街には木造建築が並んでいた。言葉遣いも変わり、教科書や時代劇にしか存在しなかった世界がそこにはあった。死後の世界でも人は百年弱生きるのだろうか。であれば、次の世界では時代が遡る道理も理解できる。羽織を着た案内人と別れると、長屋の自室にて一生を終えた。
その後も死後の世界は続いた。あるタイミングから私は、舌をかみ切ることを覚え、いつしか人目をはばかることも無くなった。
更に死を繰り返すと、気が付けば人間と呼ぶべき生物を見なくなった。案内人も現れなくなった。だがその世界でも、ヒトは群れを成し社会を形成していた。
やがて類人猿さえも見当たらなくなり、社会と呼べるものは存在しなくなっていた。しかし名も知らぬ生物が跋扈しているその環境には、秩序とでも称するべき生態系が存在していた。その秩序において、私は間違いなく異物であると理解した。舌をかみ切るという行為が、癖にならないかと少し心配になった。
目を開ける。そこには白色の地が限りなく続いていた。そこから地平線を跨いで、黒色の天が頭上まで覆っていた。そこに生物は存在していなかった。私という自我だけが存在していた。真の孤独があった。だがそれは、おそらく私が望んでいたものに他ならなかった。念のため数回死んでみても、世界は変化しなかった。おそらくは、これ以上続けても同じことだろう。しばらくすると柔らかな眠気が訪れ私を満たした。私はその場で横になり、脱力した。白の地面は、やや硬かったが不快に感じるほどではなかった。仰向けになると、視界を黒の天空が満たした。睡魔に抗うこともなく、私は意識を手放していく。「死」とは異なる「終わり」が訪れたのかと思った。そういえば、死後の世界の住人は眠るのだろうか。私は誰にも質問しなかった。だがどちらでも良い。すぐにそう思った。ここにはあらゆる客観性が存在しない。生と死、そして終わりと眠り。自我という主観は、それら一切の区別を必要としないのだから。