第一話 曇り空と来訪者
⚠鬱と挿し絵に注意⚠
青々とした草原に点在する村の一つ。
穏やかな気候に恵まれたこののどかな
アインマールの村では、いつもの
変わらない日常が流れていた。
人口三十人にも届かない小さな村は、
村人全員が全員の顔を知っており、また、
それなりに仲が良かった。差別もなく、
偏見もない、心の広い優しい人々。
おかげで、今までどんなに平和に過ごせたことか。
少年の燃えるような赤毛が太陽の光にきらめく。
長い前髪の間から、ハシバミ色の瞳が覗いた。
少年の名はヨハン。薄いそばかすの素朴な少年だ。
父親は栗毛、母親は黒髪といった組み合わせで、
少年は偶然この髪の色に生まれたのだ。
しかし、この髪色を悪く言われたことは
一度もない。少年の心は傷を負うことなく、
すくすくと育った。少年の成長こそが、
ここの人の良さを充分に表している。
ただ、自分も含めここの住人はあまりにも
平和に慣れすぎているので、家畜が脱走する
だけでもう大騒ぎだ。ハプニングに
対しての耐性のなさは、大事件として扱われ、
たちまち村の隅から隅まで行き届く程。
「ったく、牛が逃げただけで騒ぐなっつーの。
あーあ、刺激が欲しいなあ」
金髪の少年がつまらなそうにぼやく。
「何を突然…牛が脱走したのよ、マルク。
それも二頭!騒ぎにもなるわ!」
そこに、栗毛の少女がマルクの話に噛みついた。
「そりゃ大変なこったな、カミラ。
牛乳が飲めなくなっちまうもんな。
すっげー大事件だ」
マルクは口を尖らせる。そのふざけた
口調に内容。カミラは宣戦布告と受けとったのか、
マルクを濃い茶色の瞳で睨む。
少し動揺するが、マルクも負けじと
青い眼光を突きつけた。ばちばちと
激しい火花を散らす二人。
「い、いいじゃないか!
それだけ平和ってことなんだよ!」
どうもこの二人が話すと、どんな平和な
話題でも喧嘩に発展する。この前は雲の形が
何に見えるかで、気がついたら殴り合いに
なっていた。ヨハンは慌てて二人の中に
割って入る。
「頭にお花が咲いてる連中が多いだけだろ。
はぁーあ、なんでも良いから、
おもしれーこと起きねっかなぁ!」
そこに面白いものが見つかる
というわけでもないのに、マルクは空を見上げる。
いつもの癖だ。本人は気がついていないようだが、
彼は退屈になるとすぐ空を見上げる。
ヨハンもつられてそれを見上げた。
ハシバミ色の瞳に映るのは、
雲が多い空。先程までは晴れていたのに。
不思議に思っている間にも、灰色の雲に
追いやられ、太陽がみるみる呑み込まれていく。
その光景が、妙に印象に残ったのを覚えている。
老いた村人がその存在に気がついたのは、
暗雲が完全に空を覆ってからであった。
村のすぐ近くに立っている人影。
老眼のせいで、その姿はおぼろげだった。
やれやれ、寄る年波には勝てない。
年老いた村人は目を細めて凝視する。
目を細めることで、その人影の特徴が知れた。
二メートルはありそうな長身。
深い紺のマントの上からでも窺える、がっしりと
した肉体。墨を落としたような真っ黒な髪。
しっかりとした顎に、長い直線を描く口。
そして不思議な存在感を放つ青い瞳。
相手はその目で村をじっと見つめていた。
しかし、変だな。老いた村人は不審に思う。
旅人のはずが、荷物を一つも持ってないのだ。
「よぉ、すっかり曇っちまったな」
軽快な口調で、老いた村人は相手に話しかける。
「ああ、そうだな」
低く、深みのある声が返ってきた。
相手は村の建造物から、
声をかけた人物に視線を移す。
目を合わせると、その瞳がいかに惹かれるかを
知った。どこまでも広がる空を
彷彿させる、澄んだ青を湛えた瞳。
思わず、老いた村人ははっと息を呑む。
まるで特別なものでも秘めている
ような、そんな気がしたのだ。
「旅人にしちゃあ荷物がねぇな。
近くの村の者か?」
老いた村人はその目に釘づけに
なりながら尋ねた。
「いや…ここの地方の者ではない。
ここに来るまで随分歩いた」
相手は静かな声で答える。
荷物もなにもないのに、随分歩いたって?
老いた村人は質問を重ねた。
「へえそりゃあ…この村に用が?」
相手は軽く首を横に振る。
「違う、あてもなく歩いていたら、
偶然ここに辿り着いたんだ」
「はぁ…」
話せば話すほどこの相手が妙に思えた。
相手は無表情を崩し、かすかに微笑む。
「…まあ、ちょうどいい」
相手は老いた村人にゆっくりと歩み寄る。
「どうした?」
老いた村人は首を傾げた。その時だった。
マントの中から、相手の手が現れる。
手のひらが眼前に迫り、
老いた村人の視界は黒に染まった。
「ここで暇を潰そう」
音と共に、血が弾けた。老いた村人の頭が
握りつぶされたのだ。
大量の血が跳ね飛び、真正面からそれを浴びるが、
来訪者は顔色ひとつ変えなかった。
頭を失った胴体は膝からぐらりと崩れ、
地面の上に倒れる。
慣れた手つきで血を払い、
来訪者は村へと足を踏み入れる。
胸のなかに巣食う悪意を連れて。
「この、ブース!」
「言ってくれたわね!」
白い指先で、花びらをそっと撫でる。ヨハンは
一人寂しく、民家の裏の花を見つめていた。
二人の喧嘩が終わるのを待っているのだ。
喧嘩のきっかけは先程の牛の逃げた件。
流れ弾に当たったところがまだひりひりする。
ヨハンはため息をついた。
本当はお互い仲良くしたい癖に…
「大体お前はいつも…!なんだ?お前」
マルクの声から怒りが失せる。
どうしたのだろう。ヨハンは民家の裏から
二人を見ようと覗く。
そこには、血まみれのマントの相手が、
マルクとカミラを見下ろしていた。
その、空を閉じ込めたような
青い瞳が、マルクを見つめたその時だった。
あまりにも突然だったために、
悲鳴すら出なかった。
胸を貫くのは、相手の手。
「え?」
マルクはそれが信じられなくて、
自身の胸を貫く手を、震える瞳で見つめた。
相手は勢いよく指を引き抜く。
親友がきょとんとした表情のまま、
硬い地面に倒れゆく様を、ヨハンは見た。
「…マルク?」
カミラは倒れる金髪の少年の名を呼ぶ。
返事は返ってこない。
赤い血が、地面を這って広がっていく。
「うそ、うそ…いやあああ!」
叫びが絶たれたと同時に、カミラの体が
吹き飛んだ。相手に殴られたのだ。小さな体は
地面を転がり、井戸に受け止められる。
顔は可愛らしい面影を残しつつ大きくひしゃげ、
首が不自然な方向を向いた。投げ出された腕は、
金髪の少年の方へ手を伸ばしたかのように見えた。
栗毛の少女は動かなくなった。
血の絨毯の中に倒れる金髪の少年。
井戸の下の首をねじった栗毛の少女。
平和に慣れきった少年には、
この非日常を瞬時に理解することができなかった。
こうして、目の前で起こったというのに、
少年の頭はそれを受け入れるのを、必死に拒む。
「きゃああああ!人殺し!」
「子供を…なんてことだ」
栗毛の少女の声に駆けつけた村人たちの間に
たちまちざわめきが立った。
鮮やかな青い瞳がぎょろりと動き、
村人たちを捉える。
少年は見逃さなかった。
やつの、愉悦に歪む口。
薄く弧を描くそれが、これから起きる
惨劇の内容を、物語っていた。
暗雲が不吉に渦巻く空の下。
一人の来訪者による殺戮が繰り広げられていた。
平和な村、アインマールは今や、
悲鳴や断末魔の叫びで溢れていた。
血が雨のように降り注ぎ、地面は赤一色に染まる。
次々と人がものを言わぬ肉塊に化していく
そのさまは、まさに、地獄絵図の一言に尽きた。
村の日常が、あの平和が、一人の
来訪者の手によって、音をたてて崩れてゆく。
込み上げる悲鳴を噛み殺し、心臓が肋骨を
打ちつけるのを抑えながら、ヨハンは
その地獄の光景を民家の裏から見つめていた。
「ひ、ひぃ!」
村人たちは足を動かせるものから逃げていく。
置いてきぼりを食らったのは、
カミラよりもずっと小さな黒髪の少女。
この村の一番最年少の少女、ニーナだ。
あまりの恐怖で動けずにいるのか、
黒髪の少女は細い足を震わせながら、
涙をたっぷりと含んだ黒い瞳で、
相手を見上げていた。
相手はゆっくりとニーナに歩み寄る。
逃げろ。たった三文字の言葉が、喉から
出てこない。声を出せない程の恐怖からか、
あるいはやつに気づかれるのを恐れてか。
その両方だ。ヨハンは自分の臆病さに
唇を噛み締める。
「あ…あ」
ニーナは後ずさり、自分を置いてきぼりに
した村人たちと同じく逃げようとする。
しかし、それは叶わなかった。相手の血に
濡れた手が、少女の華奢な腕を捕らえたのだ。
「い、いたい!はなしてよぉ!」
ニーナは相手の手を剥がそうともがく。しかし、
力の差は絶望的なまでに歴然としている。
少女の白く細い腕に対して、相手の浅黒い腕は、
大人の太ももほどの太さだった。
やつが少女と目線を合わせるため膝をつくと、
マントの中から、左手が現れる。そして、
それは少女の肩をがしりと掴んだ。
腕と肩が掴まれた状態。恐ろしい予感が
少年の脳裏を掠める。ヨハンはこれ以上
もうなにも見たくないと、目を伏せた。
予感は見事に的中する。細い何かが
千切れる音が聞こえてきた。
「ぎゃああああああああ!」
少女のものとは思えない悲鳴が耳をつんざく。
目をつぶっていても、何が起きたのかが分かって
しまったのが辛い。少年は耳を塞いでしゃがむ
ことしかできなかった。
再び不快な音が耳を襲う。少女の叫びは
増すばかりだ。
ああ、誰でもいい。誰か、誰かこの
悪夢を終わらせて。
まだ幼い少年のすがるような願いが、
そこにあった。
待て。誰がこれを終わらせることができる?
大人も、老人も…そして、おそらく自分の両親も、
みんなやつが恐ろしいあまりに、とっくの昔に
逃げたと言うのに。
ヨハンはおそるおそる薄く目を開けた。
切れ目から見えたのは、やつの後ろ姿。消えゆく
悲鳴と、少女の姿が見えないことは救いだった。
そして、花の横にならぶ、少年のこぶし程の
大きさの石ころ。
ヨハンは、自分の胸の内に、
怒りと勇気が湧いているのに気がついた。
やるしかない。
思い立った少年は石に手を伸ばし、それを
しっかりと握る。そして、やつの背に
向かって走り出した。
死体を横切り、血溜まりに荒々しい波を立たせる。
何かが駆け寄ってくるのに気がついたのか、
相手は膝をついたままこちらを振り向く。
その青い瞳に映ったのは、長い前髪の間から覗く、
怒りに満ちた自分の目。
相手の目にめがけ、ヨハンは渾身の力を込めて、
石を振り落とす。相手の目は潰れ、あたりに血が
飛び散った。
相手は不思議なことに悲鳴をあげなかった。
だが、目の前の悪夢を打ち砕くことに心を燃やす
ヨハンは、それに気づかない。
多少血を被ろうが、構うものか。ヨハンは
腕を振り上げ、何度も何度も石で相手の
眼窩を抉った。みんなの、二人の、少女の仇を
討つために。
しかし、相手の手に掴まれ少年の猛攻は
封じられてしまう。
相手は破裂した眼球から血涙をだらだらと
流し、まるで復活するさまを
見せつけるかのように、ゆっくりと立ち上がる。
しまった。攻撃を止められた。少年が腕に力を
入れ、振りほどこうとしても、たくましい腕は
びくともしない。
しかし、それ以上に。ある現象が少年の目を奪う。
ヨハンは、気がついてしまったのだ。
相手の傷が、みるみる再生しつつあることに。
ヨハンは手から石をこぼす。地面に落ちた
石がごとりと、鈍い音をたてた。こうして
見ている間にも、相手の目はどんどん治ってゆく。
血の涙はやがて止み、相手は顔をずいっと
無遠慮に近づけ、再生したばかりの青い瞳で
少年を見つめる。
「赤毛の人間か。これは珍しい」
重低音の声が鳴り響く。ヨハンはその二つの
真円から、目を逸らすことができなかった。
「こんな小さな村で赤毛を見るとは…」
瞳を覗かれヨハンは身震いをする。
相手は人間ではなかった。傷を負ってもすぐに
再生させてしまう化け物だったのだ。
「目を潰されたのは久し振りだな。
さて、どうしてくれようか」
「ひっ…!」
喉から情けない声が出る。相手は掴んだ手に、
じわじわと力を入れていった。
「いっ、いたいいたい!や、やめろお!」
ヨハンは痛みに叫んだ。腕も同じく悲鳴を
あげている。そして抵抗も虚しく、強い圧迫感の
末にぼきんと、右腕からいやな音が鳴った。
「ぐわああああああ!」
腕を折られた。骨折した場所が燃えるように
熱くなり、視界が涙にじわりと滲む。
相手は満足げに微笑んで、掴んでいた手をやっと放した。
体から汗が吹き出る。ヨハンはその場に
うずくまって、腕を庇いたかった。だが、
それこそ相手の思うつぼ。ヨハンはぐっと足腰に
力をいれ、よろよろと走り出す。
折られた腕をだらりと垂れ下げながら、
命惜しさに逃げるその姿は、相当みじめ
だったに違いない。相手は余裕を含んだ笑みで
ゆっくりとその後を追う。
逃げなくては。でも、どこに?
村の外?それとも身を隠せる場所?
窓の向こうから、見られている気配がする。
向こうはただ眺めることしかできないようだ。
無理もない。自分はどうだって話になる。
マルクとカミラが殺されたとき、
自分は何をしていた?ニーナが泣き叫んで
いたときに、耳を塞いでいたのはいったい誰だ?
逃げながら自責の念に駆られるヨハン。
その時、ずきりと激痛の波が腕を襲った。
ヨハンは足がもつれて転んでしまう。
「う、うっ…ぐ…!」
後ろから、死が迫るのを感じる。ヨハンは急いで
立ち上がろうとしたが、遅かった。巨大な手に
頭を鷲掴みにされ、顔を地面に押しつけられる。
「駄目だろう?闘いを途中で投げ出すのは。
久々に勇気のある人間に会えたと思ったのに」
相手は冷たい声で言った。
「ひっ、うわああ!はなせ!はなせ!」
ヨハンは無駄だとわかっていながらも、
頭から相手の手を引き剥がそうとする。
死にたくない。その思いを原動力に、
ヨハンは腕の痛みが増そうが必死に抵抗した。
「…その様子ではもう闘えそうにないな」
相手が見限るようにそう言うと、
ごきりという音と同時に、足に激痛が走る。
「ぎゃあああああああ!」
ヨハンは痛みに悲鳴をあげた。
相手が足にこぶしを振り落としたのだ。
涙が溢れて止まらない。それは、
堪えがたい激痛と絶望の涙だった。
足を折られた。もう、逃げられない。
少年は人生最初の、そしておそらく最後の
絶望を目の当たりにしていた。
「だが、なかなか楽しめた。ありがとう」
死にゆく少年の表情を見るために、
相手はヨハンを転がし仰向けにさせ、
腕を振りかぶった。
駄目だ。ここで死ぬんだ。
ヨハンは灰色の空を見て、しゃくり
あげながら覚悟に目をつぶる。
…しかし、いつまで経ってもこぶしが
来る気配はない。ヨハンは片目を開けて、
前髪の間から相手の様子をうかがう。
「…ひらめいた」
相手はゆっくりとこぶしを下ろす。
「お前を生かそう」
それは、なんの前触れもなく相手の口から
放たれる。なんて言った?生かすだって?
ヨハンは信じられないといった目で相手を見る。
「殺さずに見逃すんだ。お前をな」
相手は少年に言い聞かせた。
「み…見逃す?な、なんで…」
ヨハンは震える声で言う。わけがわからない。
なぜ。どうして。なんでいまさら。痛みと突然の
情けで混乱する頭でごちゃごちゃ考えながら、
ヨハンは相手の答えを欲した。
「殺すには少し惜しいと思ってだ。
それに、いつか見たいんだ」
相手は立ち上がり、少年を見下ろして言い放つ。
「お前の人生の狂ったさまを」
全身の血が凍てつくような寒気を感じた。
それを言った相手の表情が狂気ではなく、
優しささえ感じられる、穏やかな笑みだと
いうことに、かつてないほどの恐怖を覚えたのだ。
「今日起きた出来事はお前にとって、
けっして癒えることのない傷となる。
大きく、深く、いつまでも血を流す傷…
そんな致命傷を負った人間が、
この先まともな人生を歩めるだろうか?」
相手は更に続けた。耳を塞ぎたくても、
この場から逃げ出したくても、どちらも
できなかった。少年に現実から目を背けるという
選択肢は残されてなかった。
「今日の日を思い出すたびに、お前はこう思うんだ。
あの時に、死んでおけばよかったと」
笑顔になっても涙を流しても、何をしても、
この日の出来事がつきまとう。先程の命の
危機に感じたものとはまた違う、深い絶望が、
まだ幼く無垢な少年の心に触れる。
「人間の顔を覚えるのは苦手だが、
お前なら覚えられる自信がある」
相手はマントをひるがえし、ヨハンに背を向ける。
「では、またいつか会おう。赤毛の人間」
それだけを残して、相手は立ち去った。
日常を壊した相手の背が、どんどん遠ざかってゆく。
たった一人の来訪者が、無実の人々の命を奪ったと
同時に、少年の人生の一ページを黒に塗り替えた。
紺のマントの端がはためくのを目にしてから、
ヨハンの意識はそこで途切れる。