序章
広大な緑に茂る恵みの大地
西から南へと尊大に広がる母なる大海を臨み
高く済んだ大空は陰ること無し。
メルンデールは今日、平和の象徴たる蠢きの声を聞く。
その遥か高みから注がれる竜の息吹こそ
我が民の生命を雄々しく包み込む加護である。
北に広がる厳格たる山々の遥か先に
その竜達は住まうとされ、何人たりとも人間は踏み込んではならない。
山々の麓に鬱蒼と広がる巨大なる森には
その姿を見せぬ神聖な民がおり、限られた資格を持つ選ばれた魂が宿る。この広大なメルンデールは
彼らと猛々しい竜達によって、尽きることのない再生の土地であるのだ。
国境から東に二十日ほどの辺境の地に、名も無い村があった。北西を臨めば、僅かに神の山たる加護が見渡せるその村で、一人の男の子が産まれた。
父は分からぬが、母は見目麗しくこの世の誰よりも艶やかで長い髪を持つ若い女だった。
何よりも驚くべきは、長く鋭い爪を持ちこの世界を静かに見渡す深緑の瞳と、どんな音にも敏感な長く尖った耳を持っていたことだ。
いつからかその村に身を寄せた女は、瞬く間に注目を浴びることとなった。その美しさに誰もが惹かれた。
しかし、女が身ごもっている事が公になると次第に誰も近付くことは無くなった。
産まれた男の子と母は、名も無き小さな村で
ひっそりと息を潜めて平穏に暮らした。
母は時折神々の山をその瞳で見渡した。
そうすると、男の子は分からずに母を見上げるのだ。
母は酷く嘆いていたように思えた。
北西の果てを一心に見つめる母は、とても儚げで美しかった。
恵みの雨が大地を寒々と打ち濡らす日は
母と共にひっそりと温めあった。
冷たい雪で手が悴む夜もまた、抱きしめあって朝を待った。
そうして、いつしか男の子は立派な青年の歳に差し掛かった。
逞しく歳よりもひと回りほど大きな身体を持ち
心は優しく、清く正しい人であった。
母は青年の幼い頃より、その美しさを保ったまま
青年を慈しみ深く愛していた。
たった二人の親子は、助け合い励まし合い
慎ましく暮らしていた。
しかし、そんな日々も終わりを迎える時が来る。