悲しんでいるあなたを愛する
大変お待たせ致しました(生存報告)
気づけば私は元の世界に、いつもの見慣れた自分の部屋に戻ってきていた。
あの訳のわからない場所から、タマモの部屋そっくりにできたあの不気味な場所は何だったのか。それを考えるよりも先に、私の体は動いていた。
スマホだけを引っ掴んで部屋を飛び出し、階段を駆け下り、何事かと飛び起きたお母さんの声にも振り向かず、私は駆け出していた。
息が荒れる。心臓が爆発しそうなほど脈打つ。
インターハイの時でさえ、これほど必死にはならなかった。
交差点の信号が、目の前で点滅から赤に変わる。
足踏み。
「ああもうっ、こんな時に!」
はやる気持ちを抑え、額の汗を拭いながらスマホを操作する。
発信履歴の一番上。最近では幼馴染の二人のものより目にすることが多くなったその番号をタップする。
一、二、三。
「お願い、繋がって……!」
スマホを握る手に力がこもる。
四、五、六。
鳴り続ける呼び出し音。
だがそれが十を超えても電話は繋がる様子もなく、私は胸の中の言いようのない不安が次第に大きくなっていくのを感じていた。
信号はまだ変わらない。
長い。普段ならあっという間の数分が、今は永遠のようにも感じられる。
しだいに大きくなる焦燥感に耐えられず、私が一歩踏み出そうとしたその瞬間、背後から大きなクラクションの音が響いた。
突然のことに目を丸くして振り向けば、そこには重低音を響かせるバイクが一台。車体が低く、大型の座席が取り付けられたビッグスクーターだ。
跨っているのは頭をすっぽりと覆うフルフェイスのヘルメットに、黒いライダースーツを着た誰か。
どこか見覚えのあるその姿に首をひねっていると、そのドライバーはおもむろにヘルメットのバイザーを上げる。あらわになったのは、見間違えることのない幼馴染の男の子の顔。
「こ、小太郎!?」
「もたもたすんな、もう信号変わるぞ!」
そう言って投げ渡されたヘルメットを被り、私はその少し高くなった後部座席へと飛び乗る。それと同時に信号が青に変わり、バイクのエンジンが低い唸り声をあげた。
「なんでわかったの。私があそこにいるって!」
彼の硬い背中にしがみつきながら、足元から響くエンジン音と風の音にかき消されないように叫んだ。返ってきたのはどこか呆れたような、それでいてどこかむっとしたような声。
「あんなことがあった後で、お前みたいな馬鹿がじっとしていられるなんて誰も思っちゃいねぇってことだよ! それと、あとでおばさんに連絡しとけよ!」
おばさん、つまりは私のお母さんのことだ。そういえばと、何も言わずに家を飛び出してきたことを今になって思い出す。ぞっと背中が寒くなった。
話を聞いていると、どうやら私が家を飛び出したあと、心配したお母さんが小太郎に電話をしたらしい。時間が時間だっただけに、電話越しでもその表情が伺えるほどの慌てっぷりだったという。
せめて、うまい言い訳をして出てくればよかったと、本当にお母さんには悪いことをしたと罪悪感に胸を痛めるのと同時に、これは帰ったあとこってり叱られるだろうなと、私はヘルメットの下で引きつった笑みを浮かべた。
「隼人のやつももう向かってる。できれば、全部タチの悪い冗談で済んでほしいけどな」
私たちが乗ったバイクを、後ろから真っ赤なスポーツカーが追い抜いていく。そのテールランプを眺めながら、私の脳裏にあの時の光景が過ぎる。
ナイアと名乗る、見慣れた誰かの姿をした誰か。今にも消えてしまいそうな、タマモの悲痛な表情。
到底信じられない、まるで映画のような非現実的な話。
伸ばされる手。私たちの誰のものでもないその手を、彼女は掴んだ。
まるで、金槌で頭を殴られたような衝撃だった。
だってそれは、ナイアと名乗る彼女が語ったそれまでの話が真実であると認めるようなものだったから。
彼女が、ナイアさんが伸ばしたあの手は、タマモにとって救いだったのだろうか。
余命三年。
ナイアさんの話が真実なら、それはとてつもない、何一つ不自由のない健康な体をもつ私たちでは想像もつかないほど重いものだ。
だからこそ、そう簡単に他人に明かせるものでもないと、頭では理解している。
でも、それでも、少しぐらいは私たちを頼ってほしかった。
胸に広がる言いようのないもやもやとした何か。
まだ名前も知らないその感情を抱えたまま、私たちは目的地へと到着する。
「どうしてですか!」
だが高層マンションの入り口で私たちを迎えたのは、先に到着していたらしい隼人の悲痛な叫び声だった。ドアのすぐ傍に備え付けられたオートロック用のセキュリティ端末の前で、身振り手振りを交えながら必死に何かを訴えかけている。
明らかに尋常ではないその姿に私たちはすぐさま駆けつけると、隼人が睨みつける端末はすでにタマモの部屋に通信が繋がっているようだった。
赤色のLEDが点灯し、時折ノイズのような音がスピーカーから漏れ出ている。
「隼人、どうしたの? タマモは――夜桜は無事なの!?」
「ああ、紅葉も着いたんだね……それが――」
『――なるほど、きみがモミジ君か』
困惑する隼人の声を遮ったのは、聞き覚えのない女性の声だった。凛としていて、しかしどこか憔悴したような、疲れ切った声。
タマモの部屋。見知らぬ女性。思わず、ナイアと名乗ったあの女性の姿が脳裏をよぎる。
ぞわりと背筋に冷たいものを感じながら、私は端末に掴みかかった。
「タマモは、夜桜は無事なんですか!?」
『……先ほどそこの彼にも説明したが、彼女なら無事だ。だから君たちは早々に解散しなさい。親御さんも心配しているだろう』
女性の声がこちらを諭すような、やや柔らかなものへと変わる。
だが私は、その言葉が返ってくるまでの数秒の空白に言い様のない不安を覚えた。
起こっている。確実に、私たちが危惧していた最悪の事態が。
「なら、夜桜に会わせてください! 話をさせてください!」
『それはできない。彼女も疲れているし、そもそも今何時だと思っているのかな。非常識だとは思わないか、こんな時間に押しかけてきて』
「でも――」
『いい加減にしてくれないか。近隣の皆様にも迷惑がかかる。これ以上騒ぎ立てるようなら、警察を呼ばせてもらうよ』
「なっ、友達が無事か心配なだけなのに、どうして――」
「紅葉、少し落ち着こう」
さらに食い下がろうとした私の肩を、隼人が掴んだ。振り向いて見たその表情は暗く、まるで何かを諦めたような、凄く悔しそうな顔をしていた。
その表情を見た瞬間、私は体中からさっと血の気が引いていくのを感じた。
「どうして、なんでそんな顔するの。もうすぐ、夜桜に会えるんだよ? この人がドアを開けてくれたら、すぐに会えるところに居るんだよ?」
「だから落ち着け。今のままじゃ無理だって言ってんだろ。ここで駄々こねて、マジで警察でも呼ばれたらお前のお袋さんたちにも迷惑がかかるんだぞ」
突き放すような小太郎の言葉に、私はぐっと声を詰まらせる。
小太郎の言っていることは正しい。たしかにこのまま警察の人を呼ばれてしまえば、私たちは深夜徘徊、迷惑行為で補導、お母さんたちにも連絡が入って、すごく迷惑をかけてしまうだろう。
でも、それでも私は諦めたくなかった。
ここで諦めてしまえば彼女は、夜桜はもう私たちの手の届かない遠くへ行ってしまう。そんな確信にも似た何かを、私は確かに感じていた。
だから、隼人たちに制止されながらも私は叫んだ。
「私、私……っ!」
それはほとんど無意識に近い、正しく口を突いて出た言葉だった。
そしてそれが、固く閉ざされた岩戸を開く鍵となった。
「私たち、知ってます! 夜桜のことも、お母さんのことも、全部! だからお願いです、話を聞いて! このままじゃあの子、連れていかれちゃう! もう、どこにもいなく、いなくなっちゃうの!」
絞り出すようにそう吐き出して、私はその場に崩れ落ちた。
視界がにじむ。足元にいくつも涙が流れ落ち、私の嗚咽がしんと静まり返ったエントランスに虚しく響く。
返事はない。もう端末との通信を切ってしまったのか、あるいは先ほどの言葉通り、警察に通報しているのかもしれない。
『――なかなかの悪女だな、きみは』
そのまま数秒、いや数分経っただろうか。不意に端末から届いたその声には、どこか呆れたような色が含まれていた。
ため息交じりに、女性は続ける。
『無自覚でやっているなら大したものだが……ともかくそれはそんな場所でおいそれと口にしていい話ではない。どうやらきみたちは私などよりもよほど今回の事態について詳しいようだし、込み入ったことは座って話そうじゃないか』
その言葉と同時に、端末のLEDが赤から緑へと変わる。扉のロックが解除された証だ。
『ただし、首を突っ込むのなら相応の覚悟をしてもらうよ。これは今まで君たちがやってきたお遊びなんかじゃない。一度決めた選択は取り消せないし、その責任は一生背負い続けてもらう。下手をすれば、もうまっとうな人生は送れないかもしれない。それでもあの子のことを大切に思ってくれるなら、先に進みたまえ。ロックはこちらで全て解除する』
それを最後に、端末から女性の声は聞こえなくなった。
涙をぬぐい、立ち上がる。
振り向けば私の頼もしい友人が、仲間が力強く頷き返してくれた。
覚悟なら、もう決まっている。あの時、あの場所でタマモの手を掴めなかった、あの瞬間から。
ぐっと手を握る。まっすぐに前を見据えて、私は彼女が待つ部屋へと歩を進める。
先ほど残した言葉通り、部屋までのオートロックはすべて部屋番号を押しただけですんなりと解除された。
二重の扉をくぐり、エレベーターに乗って最上階へ。
隼人も小太郎も、彼女の部屋に着くまでずっと私を励まし続けてくれた。
そして、そんなかけがえのない友人たちに支えられながら辿り着いたその先に、彼女は立っていた。
「ようこそ、私の愛娘の、大事な大事な友人諸君。ここに来たからには洗いざらい、何もかもを話してもらうよ」
その人は長い白衣の裾を床に引きずりながら現れた。
腰まである綺麗な黒髪に、白い肌。どこか夜桜を彷彿とさせるその姿に、私は言葉を失う。
いや、それ以上に、彼女はとても似ていたのだ。
夜桜を連れ去った、ナイアと名乗った彼女の姿。つまり夜桜のお母さんの姿に、彼女はとてもよく似ていた。
「……ああ、申し遅れたね。私は玉津島竜胆。可愛い可愛いあの子の保護者であり――」
桜色の瑞々しい唇が凛として言葉を紡ぐ。
だけど――。
「あの大馬鹿者の、妹をやっていた者だ」
その大きな瞳は、今にも泣きだしそうなほど、弱弱しいものに見えた。




