お稲荷様と赤い海
お待たせしました。
それは地獄の底から響くような呻き声を発し、淡く光る振り子を手にした人の形をしていた。
顔はなく、全身を覆う漆黒のローブの奥に広がるのはぞっとするほどの深い闇。
しゃらり、しゃらりと振り子が踊り、その動きに合わせるようにソレは身体を揺らめかせる。
その異形が眠るのは地下深くに鎮座する六角形の台座――地下ピラミッドの頂点。
物言わず、松明に照らされながら静かに振り子運動を続ける異形を前にして、男が背負った大剣を引き抜いた。
「まずは、今回集まってくれたプレイヤーたちに感謝を。ボスの攻撃パターンやギミックは事前に説明した通りだが、打ち合わせ通りまずは何度か確認を兼ねた練習を行い、その後クリアを目指していくことになる」
この場に集う六十四名のプレイヤーたち。その戦闘に立つのは攻略クラン暁の騎士団を率いる美丈夫、バルムンク。
全身を覆う重厚な鎧を軋ませながら、兜の奥で赤い瞳が鋭く光る。
彼は引き抜いた大剣を足元に突き刺して辺りを睥睨すると、おもむろにインベントリからアイテムを取り出し、全員に見えるよう頭上高く掲げてみせた。
それは瑞々しく実った赤いリンゴであった。
一見すれば何の変哲もないただのリンゴであるが、奇妙なのはその表面。
そこにあるのは五芒星にも似た、捩じり曲がった星の紋様。そしてその星の中心には、燃えるような瞳のマークが刻まれている。
そのアイテムの名は【眠りの果実】。
ジパングの東に実装された新エリア、アケボノ島嶼に存在する地下ダンジョンにて入手できるアイテムであり、使用したプレイヤーに【昏睡】のデバフを付与する事が出来る。
しかしこのゲームにおいてデバフはあくまでもデバフであり、一定時間身動きが取れなくなるというその効果も相まって、つい最近まで有効な使用方法が見つからず外れアイテムとまで呼ばれていた代物である。
「ピラミッドの最上段、今我々が立っているエリアでこのアイテムを使えば、レイドコンテンツ用のインスタンスエリアに入る事が出来る。その際、レイドパーティに加入していなければ同じエリアに侵入できないので注意するように。では、順次突入を開始してくれ」
言うが早いか、バルムンクは手にしたアイテムを頭上に掲げ、自身に昏睡状態を付与する。
それと同時に彼の身体は足元から綻ぶように崩れ、僅かなポリゴン片を残して掻き消えてしまった。件の特殊エリアに入ったのだろう。
彼に続き、次々とエリアチェンジを行うプレイヤーたちの最後尾で、ボクはゆらりと尻尾を揺らした。
「やれやれ、これはまた思っていた以上に仰々しくなったね」
「あはは、さすがは攻略クランのマスターだね。凄みがあるというか、カリスマっていうのかな?」
「ただの廃人だろ? いけ好かない野郎だ」
ボクが溜息交じりに漏らした言葉に、前に立つ二人がそれぞれ異なる表情を浮かべながら答えた。
ハヤトに、コタロウ。
レイドコンテンツの攻略。それに参加するにあたってボクが提示した条件は、こちらが選出したメンバー五名の参加を認める事だった。
つまりはボクを含めて全六名。これできっかり一パーティ分の人数となる。
「大丈夫だって。いざとなったらタマモだっているし」
「そ、そうは言ってもぉ……って、やっぱりそういうイベントなんじゃないですかぁ!」
「うっひょー、ついに例のエリアにいけるのかにゃー! テンション上がってきたー!」
ちなみに残りの三名は、ボクの後ろで姦しく話す女子――モミジ、イナバ、ムギの三名。
こういった大規模なイベントでパーティを組むのは久しぶりだが、気心が知れた面子と言えば彼女たちしかいなかったので仕方がない。ボクはそこまで社交的ではないし。
「見てなさい貴方たち! このタマ様のすっごくカッコいい姿を!」
「はいはいマスター、後ろがつかえてますから早くエリチェンしてください」
そして遥か前方、ピラミッドの頂上ではタマ率いる百狐繚乱のメンバーたちが次々とアイテムを使用し、エリアチェンジを行っていた。その中には先日フレンド登録を済ませた忍者、ヤエさんの姿もあった。
こちらに気づき、見事なオジギを披露する彼女に礼を返しながら、ボクは少しばかり歩みを遅らせて後ろの三人に合流する。
その際、モミジとムギの間に割り込む形になってしまったが、他意はない。うん。
ないったらないのだ。
「皆、突然誘ったりして申し訳ない。そのうえレイドコンテンツだなんて、正直非常識だと言われても仕方がないと腹を括っていたのだけれど」
「とんでもにゃーですよ! SAN値減るところに我あり。こんなビッグイベントに飛びつかにゃいのは、それこそモグリだにゃー!」
「わ、私も、その、お役に立てるかはわかりませんが、頑張りますっ!」
しなやかな猫の尻尾と、真っ白な兎の耳が跳ねる。
TRPG好きなムギはともかく、イナバさんはこういった大人数のコンテンツは苦手だと思っていたのだが、意外にも真っ先に快諾してくれたのが彼女であった。
どうやら装備のファーミングもしっかりと行っていたようで、今は黒を基調としたゴスロリ系のドレスを身に着けている。腹部を大きく露出し、肩口と股下がふわりと膨らんだチェック柄のそれは、見ようによっては道化師が着る衣装のようにも見える。
頭には黒のカチューシャ。そして背には巨大な木箱を背負っており、どうやらそれが彼女の武器であるようだった。
魔法使いから一転、人形使いへ。
レベリングの際はボクも参加したが、新職業という目新しさ、そして身内贔屓を勘定に入れても彼女は立派な戦力となり得るだろう。
視線を移せば、そこにはスキップをしながら軽やかにピラミッドの階段を上る猫耳少女が。
彼女もまた、新職業へと鞍替えを果たした一人だ。
以前から軽装だった装備も一新。フリルをふんだんにあしらった真っ赤なビキニにパレオ、腰には尻尾より長いリボンが巻かれ、彼女の軽やかなステップに合わせるようにして華やかに宙を舞い踊っていた。
踊り子。
当初の予想を大きく裏切り、まさかのヒーラー職として実装された新職業である。
パーティ構成的にはタンクが一、ヒーラーが二、近接アタッカーが二人に遠隔アタッカー兼補助が一人なので、なかなか良いバランスに収まったのではないだろうか。
ちなみにハヤトも転職組で、今は聖騎士に転職している。
装備も金の装飾が施された白銀の鎧と盾に変わっており、それがまた何というか、嫌味なほどハヤトの爽やかな雰囲気に合っているせいで一部のプレイヤーたちからは黄色い声をあげられたり、あるいは舌打ちされたりしているようだが、ボクには関係の無いことである。
イケメン爆発しろ。
「よし、ようやく俺たちの番だな」
「説明によると次のエリアはロビーのようなものでエネミーは沸かないそうだけど、油断はしないでね」
そんな下らないことを考えているうちにピラミッドの頂上へと辿り着いたボク達は、それぞれがインベントリから眠りの果実を取り出すと力強く頷き合い、握ったそれを天高く掲げた。
安全が確認されているとはいえ、ここから先はボクらにとって未踏の地だ。
ある者は期待に胸を膨らませながら、またある者は拭えない不安に肩を強張らせながらその身を光の粒子へと変え、新たな地へと旅立っていく。
そんな彼らを見守りながら、ボクの視界もまた眩い光に包まれる。
高い場所から雫が落ちるような、透き通った水音。
残響。
ふわりと、鼻先を薔薇の香りがくすぐる。
ゆっくりと目を開ければ、そこはもうあの薄暗い地下墳墓ではなかった。
まるで血で染まったような、赤い海。
薔薇の花弁が揺蕩う水面にくるぶしまでつかりながら、真っ赤な浅瀬にボクは立っていた。
前方にはすでに集合して何やら話し合っている暁の騎士団と、百狐繚乱のメンバーたちの姿が見える。
「うえーっ、なにこれー!」
「キター! 薔薇の香りのする海キター! これで勝つる!」
モミジの悲鳴と、ムギの歓声が背中を打つ。
その声に振り向いてみれば、顔を青くして立ち尽くすイナバさんと目が合った。
「大丈夫かい? 無理そうならボクからタマに話してみるけど」
「い、いえ、大丈夫です! 聞いていたより壮絶な光景だったので、ちょっと驚いてしまっただけで……」
たしかに、ゲームの世界とはいえこの光景は中々お目にかかれないだろう。
満天の星と月明かりに照らされる赤い海と夜空のコントラストは、どこか廃退的な美しささえ感じさせる。正しく神々の領域と呼ぶにふさわしい、神秘と魔性を孕んだ光景だった。
「あっ、タマモさんのパーティも到着ですね。ボス戦の攻略はメンバー全員が到着したあと開始しますので、少しの間だけ待機をお願いします」
こちらを見つけて駆け寄ってきたのは、暁の騎士団の副団長であるチャーハンさんだった。その後ろには随分と懐かしい筋骨隆々な強面ヒーラー、テッシンさんの姿もある。
「テッシンさん、お久しぶりっス。まだそのスタイルなんすね……」
「ははは! これは俺のポリシーだからな!」
相も変わらず上半身裸に腰布一枚という、仁王もかくやという風貌に呆れながらもコタロウが頭を下げれば、テッシンさんは白い歯を光らせながら爽やかな笑みを浮かべた。
自身の欲に全力なその姿勢はもはや、見事としか言いようがない。
「よし、全員揃ったな! ではこれより、ボス戦の攻略を始める! ただし、はじめは練習だ。どんなコンテンツであれ、その基本はトライアンドエラーであり、失敗を恐れる必要はない。これはゲームだ。そして、ゲームとは楽しむものだ! 皆、今日も全力で遊んでいくぞ!」
どっと沸き上がる歓声。赤い水面を震わせる程の熱が爆発する。
大剣を掲げるその姿はほんの数分前に目にしたものとは少しばかり違って見えて、その兜の奥に光る瞳はとても優しく笑っているように思えた。
「もしかして、実は凄く良い人なのかな?」
「もしかしたら、そうなのかもしれないね」
微笑むモミジに、ボクはそう返す。
圧倒的なカリスマだけではない、人を、人の心を惹き付ける何か。
彼の正体はどうであれ、これだけは断言できる。
彼の元に集ったプレイヤーたちはきっと、心からこのゲームを楽しめているのだろう、と。
「では、開始!」
バルムンクが大きく踏み込み、剣を振り下ろす。
爆弾が炸裂したような轟音が響き、彼の前方に天を突く程の水柱が立ち昇った。
そしてそれが引き金となり、状況は一変する。
「わ、わ、なになになに!?」
まずは地響き。
重苦しい音と共に水面が――否、地面そのものがせり上がっていく。
姿を現したそれは、円形の舞台であった。それはボクたちプレイヤーを乗せたまま上昇し、上昇し、星が掴めそうなほど高くまで昇って静止する。
舞台の下は霞み、赤い霧が揺らめくばかり。
落ちたらどうなるかなど、聞くまでもないだろう。
「来るぞ、総員構えろ!」
バルムンクが吼える。
そして星の彼方から、漆黒の空よりそれは舞い降りた。
まるで月が落ちてきたのかと思うほどのその巨体は虹色に輝き、回転し、脈動するように明滅を繰り返している。
無機質な冷たさと生物的な温かさを併せ持ったその姿は言葉を失うほど美しく、しかし身の毛もよだつような悍ましい姿であった。
異形の名が、視界に浮かぶ。
――ヨグ=ソトース=アバター
神との戦いが、始まった。




