お稲荷様と九尾の秘湯②
調子に乗ってたら、ちょっと長めになりました。
「はあ……これは素晴らしいね」
耳に届く潮騒の音。
しかし肌を撫でるのは柔らかく温かな乳白色の湯であり、鼻腔をくすぐるのは潮と硫黄の香り。
思わず沈み込んでしまいそうになる幸福感に包まれながら、ボクの口からあまりにも気の抜けた声が漏れた。
湯船の縁に肘を乗せ、だらりと両足を伸ばしながら立ち上っていく湯気の先を見上げていると、じんわりと染み込んでくるような湯の温かさに身体中の疲れが解きほぐされていく。
ここがゲームの世界だと忘れてしまうような、それほどの心地良さであった。
両手で湯をすくい上げ、もみ込むように顔をすすぐと、気のせいか肌がより瑞々しくなったように感じる。 まあ、ゲーム内のアバターにそんな細かな設定が存在するはずもなく、完全に気のせいであるのだが、そこは気分の問題だ。
温泉といえば、随分と昔に祖母に連れられて入って以来であるが、これはなかなか、現実世界でも少し足を伸ばして浸かりに行ってみようかという気になってしまう。
思い出すのは、優しかった祖母の笑顔。こんな、どうしようもないボクを、あの人は心から愛してくれていた。
こんな、愛される資格すらないボクを――
「ああー、生き返るー」
温かい筈の胸の中に刹那の間生じた凍てつくような感覚は、そんな間の抜けたモミジの声でかき消された。
見ればボクと同じように湯の中で脱力しきったモミジが、すらりとした褐色の脚で湯を混ぜている。その横では縁に腰をかけたカヨウさんが艶めく白銀の九尾に櫛を通していた。
頭のてっぺんから足の先まで伸ばした髪は今は丸く束ねられて頭の上に納められ、初雪のような白い肌が湯に温められてうっすら朱を帯び、そこへ水気を吸って張り付いた湯浴み着が、その細い体の線を鮮明に浮かび上がらせている。その姿は、子どものような身体つきとは反して、香り立つような不思議な色香があった。
湯に浸りながらその様子をぼうっと見続けていると、ふと彼女の紅い瞳と視線がぶつかった。
「なんじゃ、お主も尾の手入れぐらいはするじゃろうに、なにゆえそんな珍しいものを見るような目をする」
彼女にそう言われ、うっと言葉に詰まる。
というのも、このゲームでは基本的に入浴する必要がない。各ギルドや宿屋にそういった施設は備え付けられているが、実際に身を清めたいのならそれこそログアウトして現実世界で入浴すればいい、というよりも、ゲーム内で入浴するとかなり寝汗をかいてしまうので、ログアウト後は結局現実でもお風呂に入る羽目になることが多い。
仮に操作するアバターを清潔にしたとしても特に有益な効果が付与されるわけでもなく、体力の回復やバッドステータスの治癒が精々だ。しかしそういった効果は宿屋や協会で受けることができるので、正直ゲーム内で入浴するメリットは皆無と言っていい。
ちなみにゲーム内で入浴する際は浴室に入った瞬間、強制的に専用の湯浴み着に変更されるらしい。 ボクは実際に利用したことがないので詳細は不明だが。
なお、とある女性アバターを使用するプレイヤーが浴室であれやこれやと試行錯誤を行ったが、結局湯浴み着およびインナーは取り外す事が出来なかった為に運営にクレームを入れた、なんて噂があるが、真偽のほどは定かではない。
長々と話したが、ボクが何を言いたいのかというと、そんな衛生管理がすっぽ抜けたようなプレイヤーの一人であるボクが、特に汚れたりすることのない尻尾にわざわざ櫛を通す訳がないのである。
さてどうしたものかと視線を右往左往させていると、その様子を見てどうやら察したらしく、カヨウさんが呆れたように肩を落とした。
「来訪者の身体はあくまで依り代であるとは聞いておったが、それはお主あんまりじゃぞお」
櫛を通す手を止め、如何にも不機嫌といった風に小さな足で湯をかき回すその姿はまさに子どもそのものであるのだが、口に出せばさらにややこしい事態になるので黙っておく。
すると、カヨウさんはため息を一つ、自分の隣をぽんぽんと叩いた。
「仕方がない、妾が手ずから手入れしてやろう。なに、これでも尾の手入れに関しては姉上も絶賛したほどの腕前でな、あまりの心地良さに蕩けてしまい、湯に溶けてしまぬように気を付けるのじゃぞ?」
「そ、それじゃあお言葉に甘えて……」
恐る恐る立ちあがり、カヨウさんの隣へと向かう。
湯に浸り、いつもより重くなった六本の尾から雫が落ち、湯船に波紋を広げていく。
頭に手ぬぐいを乗せ、極楽極楽と蕩け切ったモミジはそんなボクたちの一挙手一投足を決して見逃すまいと、顔を半分湯に沈め、じとりとした目でこちらを睨みつけている。
「えっと、なにか……?」
「いいなあ。カヨウさんのブラッシング」
そうは言われても、モミジは人間族なのだし、仕方がない気がするのだけれど。
「遅いぞお。 早くせねば湯冷めしてしまうではないかあー」
ぐいと手を引かれ、あっと声を漏らす。気が付いた時には、ボクはカヨウさんの隣にすとんと腰を落としていた。満足気に頷くと、九尾の少女はボクの背後に回り込み、優しい手遣いでボクの六本ある尻尾に櫛を通し始めた。
時折手元の桶で湯をくみ上げ、優しく染み込ませるように尻尾へかけていく。
何といえばいいのか、不思議な感覚である。ああ、勿論不快感はない。
こう、腰の部分を丁寧に揉み解されているような、そんな感覚。 本来人間には備わっていない器官なだけに、尻尾の感覚はその殆どが腰から臀部の辺りに反映されるのだが、それが原因だろうか。
しかし先程の科白に偽りはなく、確かに蕩けてしまいそうな心地良さであった。
正直なところ、思わず声が漏れそうになるのをこらえるのに必死である。
「いいなあ、気持ちよさそうだなあ」
そんな様子が羨ましかったのか、いつの間にか傍で眺めていたモミジが口を尖らせながら言った。
「うん、思わず寝ちゃいそうだよ。流石のお手並みですね」
「ふふん、そうであろうそうであろう。伊達に長生きはしておらんからのう」
背後から、かんらかんらと嬉しそうな笑い声が響く。
カヨウさんは自慢の腕を絶賛されてご満悦、ボクはその手腕にすっかり骨抜きにされてしまっている訳であるが、これで面白くないのがモミジである。
先程までは湯につかって随分とご機嫌であったにも関わらず彼女はぷっくりと頬を膨らませた後、何か思いついたようにはっとすると、今にも飛びかからん勢いでこちらへと身を乗り出した。
「タマモ、私もブラッシングしてあげる!」
「いや、それはちょっと遠慮したいかな」
「ナンデ!?」
いや、モミジも女の子であるので櫛の扱いには慣れているのだろうが、なんというか、余り細やかな仕事が出来るタイプには見えないのだ。失礼かもしれないが。
そういった風な事をかなりオブラートに包んで言ってみると、彼女はふんすと鼻を鳴らし、薄い――といってもボク以上にはあるのだが――胸を張りながら答えた。
「失敬な。これでもうちのわんこで慣れてるから、なかなかのもんなんだよ!」
わんこって。ボクの尻尾はわんこと同等のものらしい。
いや、実際のところたいして変わらないのだろうけれど。
「お主ら、本当に仲が良いのう。ほれ、これで終いじゃ」
最後の一本をそっと撫で、カヨウさんはまたボクの隣で脚を湯に浸した。
彼女に手入れされた尻尾を改めて眺めてみると、毛並みに少し艶が出たように見える。 試しに手櫛を通してみると、さらさらとした毛並みは僅かな抵抗もなく、指の間から滑り落ちていった。手触りは以前の比ではない。あとはしっかりと乾かせば、さぞや柔らかな尻尾になってくれることだろう。
「しかし、それほど羨ましいのであれば、お主にもしてやろうかえ?」
ふむ、と顎に手を添えカヨウさんが言うと、モミジはぱちくりと目を丸くさせた。
「え、でも、私尻尾なんて無いですよ?」
「なに、尻尾も髪も、かける手間は妾にとってそう変わらぬ。見たところ、お主も随分と雑に扱っておるようじゃしのう」
確かに、彼女の髪はまさしく地面に擦りそうな程に伸ばされているし、九本もある尻尾に比べればまだ楽ではあれど、毎日の手入れは大変だろう。
モミジはしばし迷う仕草をしていたが、やがてボクの脚を開放してカヨウさんの方へと向かうと、宜しくお願いしますと彼女の前に座り込んだ。
「やれやれ、ほんに手のかかる子じゃのう」
そんな事を言いながら、どこか嬉しそうな表情でカヨウさんはモミジの髪に手を伸ばす。
そういえば、カヨウさんの屋敷には彼女の使役する式神しかいないようだったし、あそこは麓の里からも少し離れた場所なので、祭りでもない限りは一日に訪れる人の数もしれているだろう。もしかすれば、彼女自身もこういった触れ合いに飢えていたのかもしれない。
「で、出たあー!」
今後はこちらの方にも顔を出すようにしようと考えていると、岩の向こうから叫び声が響いた。 ハヤトの声だが、どうも尋常ではない様子である。この辺りに厄介なモンスターは沸いてこない筈だが、何があったのだろうか。
何事かとモミジは目を丸くし、カヨウさんはすっと目を細めて紅い瞳をぎらりと光らせた。
「ほう、これはまた、面白いモノが湧いて出たようじゃのう」
そう言ってカヨウさんがモミジの髪の手入れを終えた辺りで、どたばたと何やら足音が響き、岩陰から額に汗を浮かべ、顔を真っ青にしたハヤトが飛び出してきた。
モミジの悲鳴が響き、丸い木桶が飛ぶ。
大リーガーもかくやといった速度で投げられた桶は見事、ハヤトの顔面に命中し快音を響かせた。
ご愁傷様。しかし、モミジの気持ちもわかる。一応裸ではないとはいえ入浴している場に突然駆け込まれれば、反射的に桶も投げつけようというものである。幸いボクは湯船に浸かっていたので、肩から下は見られることはなかったが。
「お主らのう、事情は察するが、おなごが湯浴みをしている場にそう気安く立ち入るものではないぞ」
大きなため息を一つ、カヨウさんがモミジを隠すように尻尾を広げる。
そこでようやく正気に戻ったのか、ハヤトは青くしていた顔を今度は真っ赤にしてこちらに背を向け、大岩に打ち付けんばかりの勢いで頭を下げた。
「す、すみません! で、でも本当に緊急事態なんです、あ、あいつが――」
「人の顔見て逃げ出すなんて、ほんと失礼しちゃうわ。あたしはちょおっと温泉に入りに来ただけだって言ってるじゃないのよン」
聞き覚えのある声。
嫌な予感と共にそちらの方を見れば、そこにはいつぞやかボクの前に現れ圧倒的な力と存在感を示した七将軍の一人、色欲のルクスリアが立っていた。
なぜかバスローブ姿で。
手にした桶には、黄色いアヒルの玩具が顔を出していた。
そんなあまりにも緊張感の欠片も感じられない装いに、ふと思う。
ああ、これは相当めんどくさいイベントが発生してしまったな、と。
存外に、長湯になってしまいそうである。
2020/05/13 一部修正