人の可能性
——そこには、何もなかった。
暗闇の中、緑色の線が縦と横、規則正しく一定の間隔で伸びていて、そのおかげで今いるこの場所が三次元だと理解できる。そんな、不思議な場所だった。
手を見る。何もない。
青い線が引かれた真っ白な手に、まるで紙を張り付けるように色がついていく。
もう随分と見慣れた、私の手になっていく。
そうして手が、足が、身体が、頭が私になっていく中で、それでも世界は色づかなかった。
「なんだ、ここは」
隣から、気の抜けた友人の声が聞こえた。
目をやれば、そこには私と同じようにして組みあがっていく狼男の姿があった。さらにその向こうでは、もうすっかりいつも通りの姿になったハヤトが、目を丸くしたまま辺りを見回している。
無理もない。
あの後、突然竜胆さんにログイン用の端末——どこからか人数分のフルダイブ用デバイスが届けられた——を渡され、言われるがままログインしてみたらこれなのだ。
アバターの姿に変わっているからゲームの中なのだろうけど、こんなエリアは見たことも聞いたこともなかった。
「一応ゲームの中やで。厳密に言うたら、一部の人間しか入られへん、管理用サーバーの一角なんやけど」
唖然とする私たちの間を見知った声が、しかし誰も予想だにしなかった姿ですり抜けていく。
ぐるぐる渦巻く大きな金の瞳。三日月のように歪んだ、ギザギザの歯が並ぶ口元。鍵のように折れ曲がった尻尾をメトロノームのように揺らしながら、彼女はこちらへ振り返る。
その姿に、私たちはあっと声を上げた。たぶん、この光景を見た時よりも、その驚き具合は大きかったと思う。
このゲームのプレイヤーならば誰もが一度はその名を目にしたことがある、巨大攻略サイトの管理人。自称、凄腕の情報屋。
素性不明、ビルド不明。わかっているのはプレイヤー名と、種族名だけ。
どこからともなく現れて、どこからともなく情報を持ってくることから、一時は中の人は運営スタッフの一人なのでは、なんて噂も流れるほどだった。
「えっ、え、竜胆さん、なんでそのアバター!?」
「なんでって、そら見たまんまや」
肩を竦めながら竜胆さん——プレイヤー名KittvGuvは語る。タマモがこのゲームをやり始めた、βテストの頃から情報屋を名乗り、あちこちで活動する傍らで彼女を見守っていたこと。
公にはされていない彼女の存在が暴かれることがないよう、暴こうとする者が現れないよう、この世界の全てを暴いたこと。
そしてこのゲームの運営、開発会社にも、竜胆さんの息がかかっている、ということも。
「このゲーム、というよりはフルダイブ式VRMMOの部分でちょっとなあ。まあ今回はその伝手やら何やらごちゃごちゃっと使って、サーバーの端っこだけちょろちょろっと借りてきたっちゅう訳や」
さて、と言葉を区切り、竜胆さん——Guvさんが周囲にHUDを展開して手早く操作していく。キーボードに指を走らせれば、幾つも展開された画面の中を難解な文字列が滝のように流れ落ちていった。
「えっ、それって大丈夫なんですか?」
困惑気味にそう漏らしたのはハヤトだった。
「表向きは問題ない。今頃は緊急メンテナンスっちゅうことで、サーバーも全部封鎖されとるやろうしな。ま、ここで奴さんが暴れまわってデータが無茶苦茶になってもたら話は変わってくるけどな」
Guvさんはこちらに目を向けることもなく、尻尾を揺らしながらそう答えると、軽快な音とともにエンターキーを押し込んだ。
直後、堰を切ったように、ペンキ入りのバケツをひっくり返したように、世界が一斉に色づき始める。
私たちの後ろから、殺風景な空間の奥へと。流れるように、世界が上書きされていく。
無機質な床は青々とした草原に。晴れ渡る青空が頭上に広がり、優しい微風が頬を撫でる。
舞い散る桜吹雪が辺りを鮮やかに染め上げ、小鳥たちが緑の翼を広げながら、晴天へと飛び上がっていく。
その圧倒的な光景を前に私は、私たちは、ただただ目を奪われ立ち尽くすばかりだった。
「そら、奴さんのお出ましや」
そのまま全てを塗り替えてしまうんじゃないかと思われたその矢先、ある一定のラインで、まるで何かに堰き止められるかのように色の氾濫はその動きを止める。
そして時折四角いポリゴン片を零しながら、せめぎ合うように身を震わせるその境界から、ソレはやってきた。
——やれやれ、随分と乱暴なお客様だ
世界が裂ける。
何もない空間にナイフで切れ目を入れたように、人ひとり分の大きさの裂け目が突如として現れ、そしてその裂け目を押し広げるように、あるいは滲み出すように、青い肌の少女がこちら側へと身を乗り出してその姿を現した。
燃えるような赤い髪。側頭部から延びる角。矢じり型のしっぽが揺れ、コウモリに似た大きな翼が左右に広がる。
ずるりと境目に降り立った少女はやがて、ゆっくりとその両目を開いた。
髪と同じ、いや、それよりも濃い赤。
血の色にも似た、宝石のような瞳が私たちを射抜く。
知っている。このゲームをプレイしていて何度も見た、恐らくはこのゲームのプレイヤーみんなが知っている顔。
しかしその奥にはまだ見たことのない、不気味な、それでいてしっかりとした意思の光があった。
「アワリティア……ティアちゃん?」
「いや、違うぜモミジ。同じガワ被っちゃいるが、中身は別もんだ」
低く唸りながら、コタロウが前に出る。こちらを制止するように掲げたその左手には、獅子の頭を模したナックルガードが装着されていた。コタロウが普段使っている、最上位の格闘武器だ。
剣呑な雰囲気で睨みを利かせる彼を見て、ティアちゃんがからかうように微笑む。
「あんたか、ナイアとかいう人工知能は。なんやらうちの娘が、随分と世話になっとるみたいやな」
「プレイヤー名KittvGuv、玉津嶋竜胆か。流石はかの怪物の実姉といったところか。手段はどうあれ、こうも容易くワタシの領域まで踏み込んでくるとは」
「阿保か。こっちが見つけやすい様にわざと足跡残しとったくせに」
「足跡……? 一体何の話をしている」
「なんやて……?」
「そんなことより、タマモは無事なの!?」
コタロウの腕を押しのけて、私は二人の間に割って入った。
はじめこそ、その姿に驚いた。でも、今はもうどうだっていい。
どうしてナイアさんが、色々な姿になれるはずの彼女があえてティアちゃんの姿で現れたのかも、Guvさんがどんな手段でナイアさんを見つけたのかも。
そんなことは、どうだっていい。
今はただあの人が、タマモが無事であるかどうか、それだけを聞きたかった。
「失礼な。その言い方では、まるでワタシが危険な存在みたいじゃないか。勿論、無事だよ。彼女は大切なワタシの片翼だ。傷つけるなどと、あろうはずがない」
肩をすくめるナイアさんの言葉に、私はほっと胸を撫でおろす。
とはいえ、ここにタマモの姿がないということは、まだ彼女に解放する意思はないのだろう。Guvさんが一歩前に出て、彼女をきつく睨みつけた。
「何いけしゃあしゃあと人畜無害装っとるねん、人の娘を問答無用で拉致っといて。人工知能やろうが宇宙的存在やろうが知ったこっちゃないけどな、やっとることは性質悪いストーカーと同じやでアンタ」
威嚇するようにぎらつく鋭い牙。部屋ではそっけない態度を見せていたけれど、その表情はまさしく我が子を想う母親のそれだった。
それに対し、対峙する少女はさも意外といった風に片方の眉を吊り上げ、やがて訝し気に目を細めた。
「なるほど、てっきり貴女は賛同してくれると思っていたが……残念だ」
「あの子がそれを望んどるなら、なんぼでも賛同したるわ。せやけど、どうにもウチにはあの子が、アンタの話にほいほい乗るようには思われへんのや。そんでこの場にあの子が来てへんってことは、十中八九、フラれたんやろアンタ」
「それは違う。最優先されるべきは玉津嶋夜桜の命だ。そこに個々人の感情、都合などは考慮されない。貴女は彼女が死を望めば、それを受け入れるのか」
「それがあの子の、本物の望みならな」
ナイアさんの顔に、明らかな失望の色が浮かぶ。
溜息交じりに伏せられた目が、ついとこちらへ流れる。
紅い瞳が、じっとこちらを見つめた。
「君も同じ考えか、有栖川紅葉」
その瞳はまるでぽっかりと空いた暗い穴のようで、まるで心が吸い込まれていくような不気味な感覚に、私は思わず目を逸らした。
「君が彼女に抱くその想いは本物か?」
ナイアさんの周りに、いくつもの画像が浮かび上がる。そこに映っているのは現実の私の姿だった。
額に汗を浮かばせながら、ゴールテープを切る笑顔の私。
友達に囲まれながら、学校までの道を歩く楽しそうな私。
授業中に居眠りをして、先生に怒られて困ったような顔の私。
「色々と調べさせてもらった。有栖川紅葉、君は彼女とは対極の位置に立っている」
健康で何不自由なく暮らし、多くの友人に恵まれ、当たり前の日常を、当たり前に過ごす。
「このゲームにしてもそうだ。彼女は平凡を望み、君は特別を望んでこの世界へやってきた」
周囲に浮かぶ画像が変化する。現実の世界から、幻想の世界へと。
「この世界は平等だ。ある程度の差はあれど、同じ工程を経れば全員が同じ結果へと行きつく」
例え格闘技のチャンピオンだろうと、何の特技も持たない平凡な学生だろうと、この世界にでは平等だ。全てがステータスで管理され、それが同じ数値であれば等しく同じ結果をもたらす。
ボクシングのヘビー級チャンピオンだろうが、死にかけの病人だろうが、ステータスが同じなら同じ結果が算出される。
両者が同じ距離を走れば、同じ地点でスタミナが切れる。
逆に言えば、この世界ではステータスさえ勝っていれば、凡人が天才を超えることだって容易いことなのだ。
だからこそ、プレイヤーはこの世界に没頭した。
いくらあがいてもうだつが上がらない現実世界と違い、ここでは誰もが勇者になれる。英雄になれる。賢者になれる。特別になれる。
現実逃避と笑われようが、その魅力は人々の魂を惹きつけるに十分なものだった。
特別とは、人々を容易く魅了し得るのだ。
そしてその特別にこそ、否、特別が当たり前になる世界にこそ彼女は夢中になった。
「――君は彼女の特別を知って、それを近くで感じたいだけなのではないかね。あるいは脆弱な彼女への同情。特別な彼女を気遣うことで、守っているつもりになることで自分も特別なのだと思い込んでいる」
「違うっ!」
思わず声が出た。
「夜桜は何も特別なんかじゃない! どこにでもいる、ただの平凡な女の子なんだ! それを周りの人たちが難しく考えて、突き放して、彼女を縛り付けてるんじゃないか!」
この世界でも、現実の世界でも、出会ったときの彼女は凄く悲しそうな顔をしていた。
まるで世界から切り離されてしまったような、別の世界で独りぼっちで生きているような。
そんな表情をさせたのは、彼女自身の生まれだとか、体質とかじゃない。
周りの大人が、彼女としっかりと向き合っていなかっただけだ。
私は、ナイアさんの瞳をきつく睨みつける。
深い深い穴の底を見つめる。
もう、目は逸らさない。
「浅はかだな。その特別性も含め、彼女は玉津嶋夜桜という存在なのだ。それを否定することは、彼女自身を否定することになる。そしてその特別性を彼女から切り離す方法をこそ、ワタシは君たちに提示している」
即ち、魂の肉体からの解放。電子化。
「でもそれは、夜桜が望んだことじゃない。ううん、もしかすると、夜桜もそれを望んでいるのかもしれない」
現実世界で、孤独だった彼女。
友達も誰もいない。満足に外で遊ぶことだってできやしない。
そんな生活、私だったらとっくの昔に逃げ出してしまっているだろう。
だから彼女がそれを望んだとしても、私にそれを引き留める権利なんてない。
でも。
「私は夜桜と一緒に居たい。解決しないといけない問題があるなら、少しでも力になりたい。だから――」
勢いよく、頭を下げた。
私には、難しいことはわからない。頭だって夜桜の半分以下もない出来の悪さだし、いつも考えるよりも先に体が動いてしまう。
だから、私にはこんなことしか思いつかない。
お願いして、話し合って、互いのことを知り合って、力を合わせて解決策を模索していく。
私には、夜桜が抱えた問題を解決できるほどの力はない。どこにでもいる、平凡な女子高生だ。
だけどここにいるのは、私だけじゃない。
頼れる親友だっている。私なんか比にもならない、頭の良いお姉さんだっている。人類以上の力を持った電子生命体だっている。
そして何より、そのナイアさんが特別だといった、夜桜がいる。
皆で協力すれば、きっと何か手は見つかるはずだ。
そんな風なことを、私は感情に任せて吐き出した。
それを聞いていたGuvさんは面白そうにくつくつと笑い、ハヤトとコタロウはあきれ顔。
ナイアさんも困惑したように、目を白黒させていた。
「驚いたな。己の無力に対し開き直るばかりか、ここに来てなお、私にさえ協力を仰ぐとは。さらには、それによって事態が改善されると固く信じているように見える」
「上手くいくよ、きっと。だって、ここにいる皆、夜桜のことが大好きなんだもん!」
私は顔を上げて、目いっぱいの笑顔でそう言ってやる。
そう、みんな彼女のことが大好きで、幸せにしてあげたくて、自分の思う一番良い方法を実行していただけ。
だからこそ、皆でしっかりと話し合って、夜桜の気持ちも尊重して方法を模索していけば、きっと皆が幸せになれる結果を掴めるはずだ。
目を丸くしたナイアさんが、ふっと笑う。
自然な、見とれるような微笑みだった。
「その無鉄砲さには、もはや呆れを通り越して尊敬すら覚えるよ。だが、まあ、確かにワタシも彼女の気持ちを無視し、独り善がりな方法に頼っていたように思える。なるほど、対話は確かに必要だ。ワタシたちにとっても、彼女にとっても」
「協力してくれるの!?」
「ああ、一時休戦といこうじゃないか。陳腐な言葉になるが、少しだけ賭けてみたくなったよ、君たち人間の可能性というもの――」
とん、と。
はじめはそんな、軽い音だった。
傘の先端で地面を突いた時のような、そんな音。
気が付けば、ナイアさんの胸から、真っ黒な杭が飛び出していた。
胸を押さえ、ナイアさんが悲痛な声をあげる。
「ナイアさんっ!」
「危ないモミジ、下がっとけ!」
駆け寄ろうとする私を、Guvさんが押し退ける。
二本、三本、四本。
苦痛の声が響く中、ナイアさんの体から次々と杭が生えてくる。
対峙したGuvさんが幾つものHUDを展開して、先ほどとは比にならない速度でキーボードを叩いていく。
「やりおったなアイツら。ウチらを囮に使って、ここで全部無かったことにする気か!」
「何なの竜胆さん。何がどうなって——」
「どうもこうもない、さっさと構えんかい!」
ぴたりと、悲鳴が途切れる。
ナイアさんはぐったりと項垂れ、その体の下半分は無数の杭で完全に覆い隠されてしまっている。背骨に沿うように幾つもの杭が乱立し、額から伸びたものはまるで鬼の角のようにも見えた。
ぼこぼこと、彼女の下半身を覆った杭が泡立つ。それは次第に体積を広げ、ナイアさんの上半身を飲み込み、見上げるほど大きな卵になった。
どす黒い、ヘドロを固めて作ったようなそれの先端に、ひびが入る。
ハヤトが、コタロウが各々武器を構えながら、最前線に躍り出た。
卵の内側からまず飛び出したのは、真っ黒な翼。
ナイアさんの背中にあったものをそのまま大きくしたような、片方だけでも大型トラックぐらいなら包み込んでしまえそうな、巨大な翼が殻を突き破って伸びてくる。
「ナイアさん、もしかしなくてもこれ、やばくないですか?」
引きつった表情のまま、ハヤトが言う。
「やばいなんてもんやない。くっそ、早々安易な手は打ってこおへん思ってた十分前の自分をどつきたいわ!」
卵が砕かれる。
現れたのは、歪な形をした竜だった。
鱗の表面は爛れ、翼は腐り、眼があった場所でヘドロの泡を吹く、醜悪な竜。
その竜の額から、ナイアさんの上半身だけがだらりと下がっていた。
竜が吠える。
身が竦むような、おおよそ生物とは思えない悍ましい声が響く。
「あいつら、ウチらに性質の悪いウイルス仕込んでたんや! 気張りい、正真正銘、ここが最後の踏ん張りどころや!」
山のような体躯の竜が、ぶるりと身を震わせる。
大きく開かれた顎のその奥、腐り爛れた牙の奥から、混沌の色をした吐息が吐き出された。
たいっへんお待たせしました。
別作品に手をかけたりモンスターをハントしたり牧場経営したりしてました。
相変わらずのダメ作者ですが、どうか最後までお付き合い頂けると幸いです。




