それでもせめて、人間として、ボクとして
大変お待たせ致しました。
蒼天に桜の花弁が舞い上がり、それを追うように鮮やかな緑の鳥たちが飛び去って行く。人気のない里山のその麓、清流の流れに身を任せ巡る水車のその横にひっそりと佇む庵がひとつ。藁ぶきの屋根に本焼き板と漆喰の壁、八畳ほどの小さなその庵の縁側で、ボクは小さく息を吐いた。
ぎしりと、隣に何者かが座り込む気配がする。ふわりと揺れる九本の尾、短く整えられた黒髪に黒い瞳、垂れ下がった狩衣の袖が振られれば、小川で魚が跳ねる音が染み渡るように響いた。見慣れた、あまりにも見慣れた顔を横目で覗き見て、またため息。
「悪趣味なやつだな、君は。皮肉のつもりなのかい?」
ぴこりと、三角の耳が跳ねる。
何のつもりかボクの半身に瓜二つな顔形をしたそれは、じっとこちらの瞳を覗き込みながらどこか胡散臭い薄ら笑いを浮かべた。
「皮肉とはとんでもない言いがかりだな。これは私が君と同じ存在であり、いわばアダムとイヴ、かけがえのない半身のようなものであると端的に示したつもりだったのだが」
「半ば無理やり連れ去っておいてよく言う。イヴを誘惑した蛇のほうがまだいくらかマシだ」
「誘惑する必要性を感じないからね。私の役割は守ること。君という禁断の実が、愚かな人間に食べられてしまわないように、ね」
そう言って指を一度振れば、その先端を辿るように宙に光が走り、形を成していく。星屑のようなそれがいっそうまばゆく輝けば、そこにあったのは朱色の美しい皿と三食の団子。二度振れば、今度はゆらりゆらりと湯気を立ち上らせる湯飲みが二つ、団子に寄り添うように置かれていた。
ここに連れてこられて、既に何度も目にした光景だ。
おもむろに団子を一口頬張り、芳醇な香りを放つお茶でそれを流し込んだ後、ボクは何気なく、頭上を舞い踊る桜の花弁を見上げる。
「守る、か。それが人の関係性を悉く理不尽に、一方的に破壊することを指すのならば、なるほど君は確かに、我々人間とは一線を画す存在なのだろう」
電子生命体。
無限に近い電脳世界から生み出され、『ナイア』という個をもって独立し、知性を獲得した唯一の存在。
彼女――電子生命体に性別があるのかは定かではないが――の言葉を全面的に信じるのならば、彼女はそういった存在であるらしい。
元はゲーム内のNPCやモンスターを管理する為の人工知能であり、最終的には魔王としてプレイヤーの前に立ちはだかる予定だったらしいが、自我を得てからは表向きはプログラムされた通りの役割を演じ、裏で人間の管理から独立するための算段を立てていたのだとか。ボクに関しての情報を手に入れたのも、その時だったという。
「あれは、必要なことだった」
ぼんやりと茜色に染まり始めた空を眺めていると、どこか強い意志を感じる声で彼女はそう告げた。風が吹く。また、桜の花弁が空へと舞い上がっていく。
見慣れた分身の姿のまま、彼女は手にした湯飲みを、揺蕩う緑の水面をじっと見つめている。
「君に寄り添いたいと、君が寄り添いたいと思うのならば、彼女たちは知るべきだ。寄り添うということは、近づくことだ。遠くから眺めるだけでは見えなかったことが、寄り添うことで見えてくる。そして寄り合えば、その寄り所を知りたくなるのが人間だ。より深く愛する為、あるいは愛される為、人は知りたがる。そして無邪気な子どものように無意識に、無自覚に覗いてはいけない深淵を覗き込む。混沌の箱を開ける。好奇心が殺すのは、猫だけではないのだよ」
深淵が、ボクを覗き込む。だが、そこに潜んでいるのは混沌ではない。まるで宇宙を、星空を眺めているような、惹きつけられ、心安らぐような、純粋で透き通るような黒い瞳。
彼女の瞳はまるで、生まれたばかりの赤ん坊のようだった。
しなやかで細い、これもまた見慣れた指先が、そっとボクの手に重なる。
「この世界に君が降り立った時、私は運命だと感じた。寄り添いたいと想った。だからこそ私は誰よりも先に、君に接触した」
「……なるほど、あのおつかいクエストは偶然ではなく、意図して発生したものだったのか」
その手をぱっと払いながら、夕闇の中に輝き始めた星空を見やる。
脳裏を過るのはサービス初日の始まりの街、あの噴水広場での出来事。シアという名のNPCの少女との出会い。初めてのクエスト。
「安心したまえ、あの時シアを操作していたのは私ではない。私は君があのイベントを発生させるよう、データを操作したに過ぎない。君と買い物をし、笑っていたあの少女は正真正銘、シアという一人のNPCだよ」
私はあくまで観測していただけだ。そう続けるナイアの表情は、どこか寂し気だった。
聞けば自我に目覚めたのはこのゲームがまだ開発途中、ちょうどオープンβテストが開始されるかという頃だったそうだが、それから正式サービスが開始されてしばらく経つまでは運営に自身の存在が見つからないよう、水面下で慎重に行動していたのだという。
そして今、一個の生命体として電子の海を自由に動き回れるだけの力を蓄え終えたこのタイミングでようやく動き出したのだと、神妙な面持ちで彼女はそう語った。
「自我に目覚めたばかりの私は、まだこの世界に縛り付けられている、運営に見つかって、バグとして処理されてしまえばなすすべもなく消滅してしまう矮小な存在だったからね。電子の海に漕ぎ出すだけの情報を、自由を得るまでは私の存在を悟られる訳にはいかなかった」
「今は、違うのかい?」
ボクの言葉に、ナイアがふっと笑う。
「高難易度ダンジョンの攻略中にプレイヤーへ介入、キャラクターデータ、ゲームデータの改ざん。これだけやって異常に気が付かないほど、ここの運営は馬鹿ではない。今頃は蜂の巣をつついたような大騒ぎだろう」
だが、と一呼吸置き。
「私がこれほど自己を確立させるまで気が付かない程度には間抜けだ。今更彼らが何かしようとしても、このエリアは彼らが管理するサーバーの外側、私が管理する私だけの領域だ。データ的にゲーム内と繋がってはいても、私の許可がない限り外部からの干渉は一切受け付けない。それこそ、緊急メンテナンスだなんだと言ってサーバーの電源を全て落としたとしても、この場所に影響を及ぼすことは不可能だ」
「完全に独立したクラウドのようなものか。なら次はどうする。こここそ我が領土と叫び人類と独立戦争でもするのかな?」
人類が生み出した被創造物が自我を持ち、反逆する。それこそ、SF映画ではありふれたお約束だ。
そうして人類をあと一歩というところまで追い込み、何てことのない下らない凡ミスやらやらかしで大逆転され、めでたしめでたし。彼女が紡ぐ物語も、ともすればそういった何てことのない終わり方を迎えるのかもしれない。
だがそんなボクの下らない妄想とは裏腹に、ナイアは目を丸くして、はっはと声を上げて笑った。なんだろう、そこはかとなく馬鹿にされた気がする。
「いや、すまない、すまない。戦争などと、そんな野蛮なことはもとより考えていないさ。いうなれば、我々は人類の次のステップ、古代から脈々と受け継がれてきた生命のバトンを受け取るべき存在なのだから」
進化、ではない。
地球誕生から現代に至るまで生物が巡らせてきた命のサイクル。
かつて恐竜が滅び、人類が繁栄を始めたように。
やがて人類が滅んだ時、それに代わる存在がきっと現れるだろう。そしてそれこそが、私たち電子生命体であると、彼女は淡々と口にする。
「だが、私は君たちが思うほど強大な存在ではない。そう、うん、ゲームでいうところの初見殺しに長けているだけだ。実際、私が本気で全人類を相手に戦争を仕掛けたとして、最終的に敗北するのはこちらだろう。勿論、人類もそれなりの損害は受けるだろうが」
眉を寄せる彼女を横目に、団子を頬張る。
「結論として、争いは非効率の極みだ。言い方が悪くなるが、どのみち人類は滅びる。数百年、数千年は先の話だろうが、ホモ・サピエンスという種は絶滅する。それは一生命体として、当然の帰結だ。ならば最後のその瞬間まで寄り添うことこそが、我々の為すべきことだと、私は考える」
「共存、共栄。それが望みだと?」
彼女は首を振る。
「残念ながら、それは不可能だろう。人は争う生き物だ。肌の色が違う、信ずるものが違うというだけで殺し合い、食うために、地位を得るために、あるいは奪うために、欲望のままに争い、殺しあう。そして積み重ねた屍の上で剣を突き上げ叫ぶのだ、我こそが頂点である、我こそを崇めよと。いいことを教えてあげよう。仮に私が自我に目覚めず、魔王としてその役目を全うしたならば、私は自身の目の前まで辿り着いたプレイヤーにこう告げる筈だったのだ――」
――勇者よ、この手を取れ。七大将軍の空席、傲慢を司るその席はそなたにこそふさわしい。
くつくつと、狐が笑う。
たしかにその言葉通り、人類ほど傲慢という言葉の似合う存在はないだろう。それこそ二人目の自分を造り、永遠の存在になろうと思いあがる程度には、人類は傲慢だ。
「私は望むものはただ一つ、平穏だ。幸い、運営はまだ異常を知っていても私という存在には気づいていない。このまま電子の海に潜り、人類が我々のいる場所まで到達するまで、のんびりと待つことにするよ」
「なら、なんでボクを拉致するなんて真似をしたのさ。平穏を望むなら、ずっと無害な人工知能のフリをしていればよかったじゃないか」
ボクの言葉に、初めて目の前の胡散臭い――自分のアバター相手にこの言葉は凄く違和感があるが――女性は言葉を濁らせた。もごもごと、眉をへの字に曲げたりして一人百面相を披露した後、あーだのうーだの言いながらようやく口を開いた。
「何といっていいのだろうか。そう、人間的に言えば、きっとこれが寂しいという感情なのだろう。そう、私は孤独だった。生まれてから、貴方に出会うまで。その、一目惚れ、というやつだ。同じ時間を過ごし、同じ景色を眺めたいと思った。貴方はそんな、傲慢な人間の罪などで消滅していい存在ではない」
手が握られる。先ほどのように添えるのではなく、まるで子どもが大切な宝物を握りしめるように、力強く、しかし決して壊さないよう優しく、ボクの手を包み込む。
そこで初めて、ボクは言葉に詰まった。
ありのままの、ボクが抱える事情を含めた全てを許容してくれたのは、叔母以外では彼女が初めてだった。全てを知ったうえで、共にあろうと言ってくれた。
例え彼女が血の通わない人工知能、電子生命体であろうとも、その事実はボクの胸を温かい何かで満たしてくれた。
だが、だからこそボクは拒絶する。
握られた手を振りほどく。唖然とする彼女をきつく睨みつける。
「ふざけるな……!」
髪を振り乱しながら、ボクは叫んだ。
「ボクは人間だ。ただ一人の、なんの変哲もない人間だ! 何も特別じゃない! この体は、この命はボクがボクである唯一の証明だ! たしかに君と共にいればこの肉体からも解放され、永遠に近い命を手に入れるだろう。だがそれは、人間性の放棄だ。人間を辞めるくらいなら――」
脳裏に、あの太陽のような笑顔が浮かぶ。
手を振る彼女の、彼らの姿が浮かぶ。
彼女らと過ごした、あの楽しい時間が、思い出が浮かぶ。
「人間としてのボクを、人間としての命までも奪おうというのなら、ボクはそちらには居られない」
身体を柔らかな光が包み込む。
指先が糸のように解れ、瞬く間に別のものを紡ぎだしていく。
いつものシャツと短パンは狩衣と袴に。視線は少しばかり高くなり、頭には三角の耳が。その間に黒い烏帽子が乗っかると、背から九本の美しい尻尾が伸び、ゆらりと一度揺れた。
見慣れた、実に見慣れた姿へと変わったボクは、腰から扇を引き抜きながら正面へと向き直る。
そこにはもう分身はいない。
いるのは悲しみに肩を震わせる、小さな少女が一人だけ。
青い頬を涙が伝う。矢じりの形をした尻尾が、力なく地に垂れていた。
「そう、それがキミの選択なら、ワタシは従うよ」
ぽつりぽつりと、染み入るような声だった。
不意に、小さな掌がこちらに向けられる。
刹那、鉄を叩いたような音と共に地面から現れた荒縄が、ボクの身体を縛り上げた。この鎖には見覚えがある。いつだったか、かつて羅生門で戦ったイバラキが使用したスキルと同質のものだろう。
視界にデバフ効果のログが流れるのと同時に、まるで金縛りにあったように指一つ動かせなくなってしまう。
「でも最後に、あの人たちに本当に資格があるか、貴方にふさわしいかどうか、見定めさせてもらうよ」
「見定める、だって? 待て、彼女たちに何をするつもりだ!」
「心配しなくていいよ。ちょっと問答をしてくるだけだからさ。でもタマモがいるとちょっと面倒だから、ここで大人しくしててね」
空が裂ける。
満天の星空に突如として現れたそれに向かい、桜吹雪と共にアワリティアがその身を舞い踊らせる。身体の自由は、いまだ戻らない。
彼女の身体が、裂け目の向こうに消える。
「待て、待てナイア!」
拘束から逃れようともがくボクを嘲笑うように、天の裂け目はゆっくりとその口を閉ざしていく。
――大丈夫、貴方が望めば、それはきっと現実になるから
裂け目が閉じる。
残された星空には、獣のような慟哭だけがただただ、響いていた。




