楠木正成④
そのときは意味が分からなかった。
ボクは既に八年間男として生きてきた。
それなのに、性別を否定された。それは、今までの人生の否定でもあった。
でも、今なら、その理由が分かる。
忍というのは、人を欺く職業であると言った。
それは見た目も欺かなければいけないのだ。
例えば、主君の命令で、他国の長を暗殺するとき、何も変装せずに実行すれば、犯人がボクだとバレてしまう。
誰かに見られたとしても、女性の姿をしていれば、「女性が殺害した」となり、ボクが元の男の格好をすれば、ボクが犯人だということが分かりづらくなる。
しかし、男性と女性は基本的に骨格、言動が違う。
だからこそ、性別を偽るために、「女性らしさ」を意識して生活して、癖をつけろと担任は言ったのだ。
しかし……そんなことを八歳の少年が分かるはずもなく、察するわけもなく、ボクは、「先生がやれって言ったから」という理由で、その日から女性として振舞ったのだ。
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「やはり、お前も性別をを偽れと言われたか……」
お兄ちゃんに伝えたときの感想は、こんなものだった。
お兄ちゃんは勉強机に向かっていて、ボクは洗濯物を回収していた。
「なんで……ですか?」
「お前は、目もくりくりとしていて、愛嬌のある顔立ち……格好によっては女として見えるからな」
「そうですかね?」
「どう見ても男のやつに、『女として生きろ』と言っても、見た目が追いついてこないだろ?」
そう言われればそうかもしれない……。
しかし、男のボクにとっては、『可愛い』と言われるより『かっこいい』と言われるほうが嬉しいのだが……。
「そういえば、学校の誰かに自分の名前を言ったか?」
名前? なんでそんなこと聞くんだろう?
「言って……ないです。人見知りですので……」
覚えたばかりの敬語で答える。
「ならいい。これからは本名を名乗るな」
「え? なんでですか?」
「オレたちは、忍。誰であっても偽らなきゃいけない。名前であっても、だ。まあ、オレはお前の面倒を見るようにこの里のお偉いさんに言われたから、お前には、あまり偽らないつもりだが……」
「じゃあ、ボクはなんて名乗れば……?」
お兄ちゃんは、しばし考えこんだが、思いつかなかったようで、ボクにこう聞いてきた。
「お前、将来何になりたいんだ?」
何に……? それは楠木家を継ぐことが決まっているボクにとって、難解な質問だった。
なぜなら、それ以外の職業になることなど考えたことがないのだから。
「何……ですか?」
「別に職業じゃなくてもいい。こうありたいという心構えとかでもいい」
「心構え……」
ボクは少し頭を使ってから、言った。
「正しい人間になりたいです」
それを聞いて「正しくね……」とお兄ちゃんはつぶやいた。
正義の味方になりたいのは、少年の夢である。
「今のボクは、正しいが分からないです。でも、いつかは正しいを理解して、その正しさを守り抜く人間になりたいです!」
お兄ちゃんは、紙に何かを書き、書き終わるとそれをボクに見せてきた。
「これでどうだ! 『正しく成る』で、正成っていうのは!」
「正成……いいですね! ありがとうございます!」
彼女は、その紙に食いついていたボクの頭を撫でた。
「お前なら、そんな人間になれるよ。将来が楽しみだな」
今でもそのときの決意を忘れてはいない。
今でもその名前が『正成』としてのボクの始まりであったことを忘れてはいない。
何より……今でもお兄ちゃんの笑顔をボクは忘れてはいない。




