楠木正成
「もう怒らないんだ……『お兄ちゃんって言え』って……」
場面は戻って昨日の昼過ぎ。
路地裏でのボクと彼女、加賀お姉ちゃんとの会話に戻る。
先輩後輩、腐れ縁、幼なじみと、様々な関係で繋がったボクらの五年ぶりの再開と会話である。
「逆にあんたはまだ『セイナ』って名乗ってるんだ……。気に入ってるの?」
「捨てる理由がないからだよ。
ボク達みたいに性別を偽る忍にとって、その場面場面での偽名は必要不可欠だ。
その名前を毎回変えるのは、正直、めんどくさい。
それにボクは忍じゃなくて、悪党だから、尚更、変える必要性を感じないんだよ」
「あんたを見てると、名前が何回も変わってるあたしが馬鹿みたいに思ってくるよ」
いや、それは賢い選択だと僕は思う。
あらゆるパスワードを同じく設定すると、自分の個人情報が全て漏えいしてしまう。
だから、パスワードは各々違うように設定するのが大切なのだ。
ボク達の名前もボク達を知るためのパスワードであり、各場面で名前を変えるのは、賢い行動であると思うのだ。
でも、それは「自分」という存在を不安定にさせ、「自我」、「アイデンティティ」を感じられなくなることでもある。
それでも、彼女は選んだ。そんな英断、ボクにはできない。
「じゃあ、ボクはなんて呼べばいいかな? 加賀お姉ちゃんとか?」
「適当にすれば? だけど、昔の名前で呼んだり、『お兄ちゃん』って呼んだら、明日は無いと思ってくれれば、ね」
十三歳のガキ相手に怖いこと言うな、全く。
「あれほどこだわってた『お兄ちゃん』って呼び名を捨てるなんて……。どんなパラダイムシフトがあったの? 伊賀の里から離れてから」
「あんたには関係ないことだよ。今のあたしは、正真正銘の女……もう性別を偽ることはない。そう思うようになっただけ。その結果さえ知れば、キッカケなんてどうでもいいでしょう?」
なるほど、その通りだ。彼女が『男だと偽ること』を止めたことを知れば、ボクは十分だったのだから。
しかし、それは、彼女にとって、鳥が飛ぶことを止めたり、魚が泳ぐことを止めたり、人間が理性を捨てたりするようなものだ。
そうなった原因は興味がある。どうせ、話してくれないと思うけど。
そうか、彼女は自分の特技、生き方を捨てたのか……。
性別を偽る……。その術をボク達は伊賀の里で学んだ。
忍は嘘つきを仕事にする者である。その嘘の中でも、性別についての嘘は、最も難しい。
それを難なくこなしていたのが、ボクと彼女である。
同じ学校で学び、同じく部屋で生活を経験したボク達。
ボクの頭に流れる思い出、過去の彼女。
ボクは回想した。
今の彼女から感じ取れないその面影を。




