青春の始まり
「あっ」
僕に気づいた彼女は、恥ずかしそうに、人見知りするようにこちらをちらちらと見ている。
それを見て、僕は、彼女の演奏を止めてしまったことに申し訳なく思った。
「ごめなさいッ! 邪魔するつもりはなかったんですッ! なんか……! なんというか……! とても素敵な演奏で! その……! 惹かれちゃって……!」
素敵などと誰でも使える言葉を選んでしまった自分が恥であると感じるほど、最も適切な言葉が浮かばない自分の語彙力が残念に思うほど、僕はその演奏の虜になっていた。
焦りながら、言い訳をしている僕から、逃げるように、彼女は、電子ピアノ(拳ほどの大きさの機器から、長机に映されたピアノの画像に触れると音が出るのだ)を片付け始めた。
きっと、彼女にとって、僕に演奏を聞かれたことは恥ずかしいことなのだろう。
恥ずかしいところを見てしまったということは、彼女を傷つけてしまった、ということである。
女の子を傷つけてしまった、と僕は後悔してしまった。
それより、もう二度と彼女の演奏が聞けないのではないかということに、残念に思った。
その教室から出ようと、僕の隣をすり抜けようとするとき……。
「あ……ありがとう……」
と、本当に小さな声で言った。
そして、彼女はそのまま、昇降口に向かって走り出した。
僕は、彼女が見えなくなるまで、ただじっと見つめていた。
見失ったあとも、僕は、ボッーと立ち尽くした。
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「どうした? 高氏? そんなボッーとして?」
ソファーでボッーとしてたら、兄さんが話しかけてきた。
「べっ……別に……」
そう答えると、兄さんはニヤつき始め、「好きな人か! 好きな人が出来たんだろ? なあ? なあ?」と、僕のほっぺたをつつきだした。
「そっ! そんなんじゃないよ! ……ただ、素敵な演奏をしている女の子がいてね……」
「あれ? お前って、音楽、好きだっけ? 」
「別にそれほど好きじゃないけど……」
今までは、勉強としてしか、音楽を聞いてこなかった。
だけど、彼女の演奏だけには、心の底から楽しんで聞くことができた。
僕にとって、それは初めての経験だった。
音楽は未だに嫌いだと思う。
だけど……。
「彼女の音楽は、好きなんだ」
それを聞いた兄さんは、「フッ」と鼻で笑ったあと、笑顔で僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「なっ、なんだよ」
「やっと、お前に好きなことができて嬉しいんだよ」
そういえばそうだ。「好き」という感情をあまり感じたことない、僕が初めて、はっきりと「好き」だと思えたんだ。
それを兄さんは、まるで自分のことのように喜んでくれる。
兄さんのそういうところが僕は好きだった。
「ところで……」
と兄さん。
「お前、その娘の名前とか、クラスとか知ってるの?」
「あっ……」
そういえば全く知らなかった……。