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3 そして現在

 


「お断りします」


 ゆるりと微笑めば、フェルディナンドの柳眉が寄る。妹からこんな回答が返ってくるとは思ってもみなかったらしい。

 確かに今までクロエセリアは、面と向かって兄に逆らってはこなかった。

 しかし、もう我慢する必要はない。


「遠慮することはない。先方は第三皇妃として扱ってくださるそうだ。贅沢な暮らしが出来る」

(わたくし)、今でも不自由のない暮らしを送っております」

「大公でなくなれば、そうも言っていられないだろう?」

 話の通じない、困った妹だというように首を振るフェルディナンド。


 ――現実はそんなに甘くはないと教えてあげるわ。



 二週間前、エルクラルドでクーデターが起きた。

 首謀者は王妃、フェルディナンドの妻だ。旗印には二人の子である幼い王太子が立てられている。

 飛び地のナリサにだって、もちろん彼の醜聞は伝わって来ていた。


 きっかけはフェルディナンドが愛人に愛の証しと称して領地を与えようとしたこと。

 フェルディナンドは見目が良い。だからと言って愛人を持つ免罪符になどならないが、それこそ姿と声だけで国民を魅了してしまうような男だ。即位してからの八年間、彼に愛人が途絶えたことはなかった。内心では歓迎せずとも、表面上王妃は沈黙を守っていた。これ自体は貴族社会ではよくあること。


 しかし今回は相手がまず過ぎた。

 フェルディナンドの新しい愛人は、王妃の母違いの妹だったのだ。


 彼の致命的な欠点は、他人の気持ちを推し量ることが出来ないこと。幼い頃からその必要がなかった。

 いくら義父である隣国の王に勧められたからといって、若い義妹に安易に溺れるなど。妾腹の妹と閨を分けあう王妃の気持ちは、彼には想像出来なかったのだろう。ただの女一人のこと、と甘く見てしまったのか。

 隣国の王の魂胆など、保たれた同盟を乱す抜け駆けでしかない。あからさまな権の拡大を望む隣国の王と、それに乗って領地まで与えようとしたフェルディナンドは、近隣諸国からの評価を等しく下げている。


 王妃は離縁ではなく、彼を引きずり下ろすという手に出た。


 フェルディナンドの政治手腕自体は、決して愚かではなかった。

 平和な国を治めるには十分だ。

 しかし、先々代のような図抜けた人物でもなかったし、父王のような周りを立てて裏方に徹することの出来る性格でもなかった。

 つまり彼は、平和な時代の平凡な王の一人なのだ。

 それは、同盟国をまとめる扇の要としては、明らかに力不足だった。


 体調不良の先王とその妃――つまり両親は静観を決め込んでいるようだ。

 同盟国も当然判断を引き延ばし、推移を見守っている。誰だって夫婦喧嘩に口出しして、火傷なんて負いたくない。

 姉妹を渦中に放り込んだ隣国の王さえフェルディナンドと愛人()を何だかんだと受け入れずに、追い出した。どちらに転んでも良いように判断をしなかったのだろう。残念ながら隣国は、このまま行くと政治的に弱体する道しかないが。

 即位の華々しさとその後の治世の平凡さ、そして今回の醜聞は、想像以上に周囲に落胆を与えている。


 国を追われたフェルディナンドはほうほうの体で逃れ、あろうことか帝国の接触を許してしまった。クロエセリアを追い出し彼がナリサの主に納まれば、復権を後押しするとでも言われたのかもしれない。

 フェルディナンドが仮の王都を開いた途端、攻め込まれてナリサが落とされるのは火を見るより明らかなのに。

 クーデターから後の彼の行動は、まるで坂道を転がるよう。

 一気に全てが瓦解して、取り繕おうとすればするほど、取り返しのつかない所まで来てしまった。



 たくさんの人々の助言と力を借りて、ここまでナリサを維持してきた。

 味方も増えて手駒も増えた。領内に他国との流通や、目新しい技術も根付いている。

 八年かかってやっとここまで辿り着いたのだ。


 ――それにここは、私と先生にとっての家なのに。


 姿が見えずとも皆に認められたソラリスと、エルクラルドの大公としてではなく、領主として受け入れられたクロエセリア。二人にとって手放すなど想像出来ない居場所と人々なのだ。


 兄は当然のようにここを仮の王都として、王太子派に対抗するつもりだ。

 でも譲る気はない。

 ナリサはもう、フェルディナンドのものではないのだから。


「嫌ですわ、兄上。私のような頭のおかしい女を嫁がせたとあっては、エルクラルドの名に傷が付きます」

 クロエセリアの奇矯な行動は、逐一報告されていたはず。


「よく言う。最近のおまえの行動は、私の所にまで届いていた。近隣の貴族だけでは飽き足らず、隣国の大商人にまで秋波を送っているそうではないか。この縁談だって、そんなに飢えているならばと、おまえの為に見つけてきたのだぞ?」


 王宮式の厭味は、兄の息のかかった副官たちを思い出させ、苦い記憶が一瞬よみがえる。

 心の中だけで盛大に舌打ちをした。

 流石に隣国や近隣領地を巻きこんで、染織物の共同事業を立ち上げようとしている事はばれていたらしい。隣国の上質な毛織物と、ナリサの染料草と染色技術を合わせれば、質の高い二次生産品が完成するだろう。国に報告してからでは何年かかるかわからないと、報告を後回しにして話を進めたのが、フェルディナンドの危機感を煽ってしまったらしい。

 だからクロエセリアを領地に残して手伝わせようとするのではなく、追い出そうとするのだ。


「私を嫁がせることを、父上は望んでいらっしゃらないはずですが」

「それは私に世継ぎができる前の話だ。子ならもういる」

 クロエセリアはなるほど、と納得してしまった。フェルディナンドの言葉には、もちろんクーデターの旗印になった王太子は含まれない。とすると、今回の醜聞の中心人物との間に既に子がいるのだ。

 王妃の復讐劇の始まりの原因はこれだ。


「領地を離れるつもりはございません。兄上、ここはもう私の治める土地なのです。領民一人、染料草の一本まで、私の育てた血肉そのもの。邪魔ならば、力ずくで排除なされば良いではありませんか。――十二歳の私に『娼婦の粉』を盛った時のように」

『娼婦の粉』は、クロエセリアが盛られた毒の俗称。王都では媚薬として今でも流通しているらしいが、ナリサでは取り扱いを全面的に禁止している。

 一転真顔で告げると、フェルディナンドの態度が変わった。明らかに嫌悪の色が乗る。


「いったい何の話だ」

「あらあら、毒を盛られたことを私が忘れたとお思い? まさか許して水に流すとでも? 兄上の妹が、そんなに性格が良いわけないではありませんか」

 死ぬわけではないが、性質の悪い毒。

 ただの一家臣が、これからずっと仕えるはずの領地の大公に、そんなものを嫌がらせ程度の理由で使うだろうか。

 別の仕官先のあてがあるなら別だが。

 証拠はない。しかし、王都に送り返した家臣と侍女が道中で山賊に襲われたと知り、クロエセリアは確信していた。

 ころころと笑ってみせると、フェルディナンドの顔が更に歪む。奥歯を噛みしめる音さえ聞こえそうだ。


「それが王より領地を預かる者の態度か。妹だからと甘い顔をすると、すぐにつけ上がって。クロエセリア、これだからお前のような不出来な妹に領地を任せることなど、私は最初から反対だったのだ。さっさと臣下の礼をとれ」

「ご冗談をお兄様(・・・)。これでもエルクラルド王家の端くれ。大公として先王陛下より賜った領地を治める身で、容易に膝など折れるわけがございません」

 謁見の間はかつてナリサが王国であった名残で、堂々とした歴史を感じさせる造りになっている。

 壇上の椅子は領主の席ではあるが、玉座なのだ。

 その玉座に勝手に腰掛けるフェルディナンドに、彼女は一度も敬意を示していない。それの意味する所に、男は漸く気が付いた。


 クロエセリアは、フェルディナンドを王とは認めていない。


「まさかお前は、あの度し難い毒婦に付くというのか? 実の兄よりあの裏切り者の女の支持に回るのではあるまいな」

「まあ、どなたのことかしら? 姉の夫に手を出して、恥知らずにも開口一番最上級の染生地と仕立屋を用意しろという女ことかしら」


 彼の愛人の城に入って最初の発言に、クロエセリアは仰け反った。曰く、大事なドレスをみんな城に置いてきてしまったから、と。

 馬鹿にするように目を細めると、ついにフェルディナンドの手綱が切れた。

 衝動的に腰の剣に手をやり、玉座から立ち上がろうとする。

 しかし柱の影から現れた近衛達に剣を向けられ、浮かせた腰をゆっくりと戻した。手は柄に置かれたままだが。


「まだ出てこいとは言ってないじゃない」

 目線を近衛騎士副団長のロンダールに向けると、呆れかえった声が返ってくる。


「閣下は戦闘の専門家じゃないんだから、判断なんてつかないでしょう。そもそも丸腰の妹に、ちょいと厭味を言われただけで剣を抜こうとする危険人物、さっさと押さえなきゃ怖くてかないません」

 こんな事を返されているようでは、その危険人物に舐められてしまうではないか。


「ロンダール? ロンダール・バルトロじゃないかっ」

「ああはい。お久しぶりですねーフェルディナンド様。一応登城の際に騎士団長(上司)と一緒に挨拶させて頂いたんですけどね、お気づきではなかったみたいで」

 ロンダールとの会話に、フェルディナンドが割って入る。フェルディナンドの勢いに対し、ロンダールの受け答えはおざなりだ。


「どういう事だ、君はエルクラルド貴族のバルトロ伯爵家出身ではないか。だからこそ八年前選ばれて、クロエセリアに同行したはず。私がこの地を仮の王都とすれば、君もそれなりの地位に就けるのだぞ」

「王都の頃はお声掛け頂きありがとうございます。懐かしい思い出ってやつですねぇ。フェルディナンド様と先王陛下にナリサに飛ばして(・・・・)頂いて感謝してるんですよ。こんな俺でも忠誠を誓う真の主君に出会えたんですから。いやあ、王都じゃこうはいかなかったなぁ」


 今日のロンダールは、井戸端で世間話をする婦人のように愛想がいい。その実、目が笑っていない。

 王都におけるフェルディナンドとの過去は、彼にとって楽しいものではなかったらしい。

 クロエセリアは、王都から連れてきた全ての家臣を排除したわけではない。中には彼女に賛同し、忠誠を誓い、王都との緩衝役を買って出てくれた者もいる。王都とナリサの板挟みで、彼らにもここまで随分我慢をさせた。


 その鬱憤は相当なものだったらしい。

 いつもクロエセリアに対して忌憚なく意見を述べるロンダールの猫撫で声に、怖すぎて思わず一歩後ろに引いた。

 と、壁にぶつかった。いや、壁ではなく男の硬い胸だった。

 上質な肌触りの黒いローブから、熱と彼の匂いを感じる。


「先生」

「おう。遅くなって悪いな」


 ソラリスはいつものように瞳を三日月にして笑う。その胡散臭い笑みに鼻を鳴らしそうになった。

 登場は計ったように絶妙のタイミング。実際機会を窺っていたのだろう。彼はそういうことに長けている。

(悪いなんて思ってないくせに)

 声にならない吐息でそう告げると、ソラリスの笑みが深くなる。


「ほれ、とっとと引導渡してこい。みんな今か今かと待ってるんだ」


 ソラリスに強い力で背を押され、追い風を受けるように玉座への壇を登る。

 後ろをちらりと振り返ると、ソラリスの両横にはマクスールとラスティがいる。見えずともちゃんとソラリスの位置を空けるのは、流石の初期仲間コンビだ。その後ろには朝議の参加者たち。この城の大事な臣下で、クロエセリアにとっての家族たちが揃っていた。


 フェルディナンドの前に立つ。

 剣を持ち柄に手をかけ、クロエセリアに対して圧倒的な武力を有しているというのに、妹を見上げる彼の瞳は落ち着きなく動いている。シャンデリアの灯りを背に、彼女の影に暗くなったフェルディナンドの姿はちっぽけで滑稽だった。


 クロエセリアは自らの持つ最も極上な笑みを浮かべる。笑みの仮面は彼女の武器。

 虫をいたぶる子供のように無邪気に、下僕を蔑む女王のように無慈悲に。


 玉座に腰かける(フェルディナンド)を思いきり蹴りあげた。


 ドカッと結構いい音がする。ヒールが折れなくて良かった。


「フェルディナンド・ハノーファー、観念なさい。二週間も逃げ回っている間に、政情は決しています。それに(わたくし)、ナリサの独立と引き換えに兄上を渡すって、お義姉様に約束してしまったのですもの」

 ぎりぎりまで折衝が続いたが、本人を確保できたのは大きかった。


「独立って、何を……誰が……」

「もちろんこの私、クロエセリア・ハノーファーが新しい王となるのです。ナリサは以前のように、エルクラルドの同盟国のひとつとして、独立国家に戻るだけですわ」


 謁見の間に、勝ち鬨のような歓声が広がる。

 二十年前帝国に攻め入られその後エルクラルドの王領となったことを、心の底で望んでいる者なんているはずがない。ここは、ナリサの民たちの国なのだ。


 エルクラルドの直系であるクロエセリアが継ぐなんて、皮肉もいいところ。

 本当に継ぐべき人物は別にいる。

 けれどクロエセリアは女王になると決めた。

 それを、ここにいる誰もが認めてくれたのだ。


「売国奴めっ!」

 フェルディナンドは怒りに震える手で剣を抜こうとする。けれど、剣は横から鞘ごと奪われ放り投げられる。

 彼はその異様な光景に固まってしまった。

 クロエセリア以外には王剣がひとりでに中空を舞ったように見えただろう。

 この場の人々は慣れているので、ロンダール近衛副騎士団長が見せ場を奪われて、溜息を吐いたくらいの薄い反応で終わっている。


 あの国宝の剣の回収も条件に入っていた事を思い出して、傷でも拵えたらどうしてくれるのと、傍に居る男を軽く睨みつける。剣を奪い放り投げた張本人のソラリスは、至極ご機嫌に片眉を上げて見せる。


陛下(・・)は戦闘の専門家じゃないんだから、剣なんて近くにあったら危ないだろ」


 ――ああ、やっぱりもう居たんじゃない。

 聞いていなかったはずのロンダールの台詞をそらんじて、クロエセリアを陛下と呼び茶化す。

 ソラリスの出会った頃と変わらない悪戯心と、少しの意地悪。そして得体のしれない所がほんの少し怖く、それ以上に魅力的でぞくぞくする。


「兄上、売国奴はあなたにぴったりの名ね」

 そう言って、未だ足を乗せたままにしていたフェルディナンドの太腿をぐりりと踏みつける。


「良くない粉を盛ることは出来ても、暗殺者を差し向けるほどの覚悟は無い。権威をちらつかせて釘を刺すことは出来ても、兵を取り上げるほどの強権は振るえない。気に入りの愛人を囲うことは出来ても、正式に義姉上と離縁して責任をとる気は無い。全てが中途半端。全部あなたの招いた結果よ」


 先々代の生き写しなどとおこがましい。

 クロエセリアに言わせれば、彼は臆病者の腰抜けだ。


「おまえに私の苦悩の何がわかるっ」

「わかりません。でも、王の苦悩や努力に意味なんてありませんのよ。結果が全てです。あなたが今、軽率に腰掛けている玉座はそういう場所でしょう」


 妹に怯える愚かな兄。

 フェルディナンドがナリサを取り上げようとしたことは、ある意味渡りに船だった。良心の呵責なく、実の兄で取引が出来る。

 もう十分とばかりに足を退けると、危なげない腕に身体を支えられる。

 いつも寝てばかりなのに。ソラリスの腕は、やはり男性の力強さを持っている。


「さあクロエ、おまえの場所だ」

 ソラリスに手を取られ、空の玉座へと導かれる。

 近衛に両脇を固められ連行されるフェルディナンドの最後の姿は、両手を取り玉座を囲うようにして彼女を座らせた黒い男にちょうど隠れて見えなかった。まるで、見る価値すらないというように。


 玉座から見渡す謁見の間には、臣下の礼をとる近臣たち。


「私の玉座、私の国ね」

「ああ」

 独り言のように呟くと、ソラリスも独り言のように返してきた。

 玉座に腰かけ、隣で肘かけに凭れかかるソラリスと共に、暫しその眺めを堪能する。



「そしてここは先生の国で、居場所でもあるわ。――ね? レイモンド・ソラリス・ナリサ王子」



 レイモンド・ナリサ。

 ナリサで他の王子と一緒に戦死した、第三王子の名。

 その名は王家の墓所名簿に載っている。

 当時も騎士だったマクスールから聞き及んだのだ。ある時マクスールは真剣な様子で居住まいを正し、教えてくれた。

 十五歳で行われる国王への臣下の誓い。それを終え男子は大人として王族の正式な仲間入りとなる。領地や地位も正式に発生する。

『ソラリス』は三年後に控えた誓いの儀式で、彼に正式に与えられる筈のもうひとつの名前だった。

 王家の特徴である黒髪に金の瞳の、当時十二歳の少年。

 大公になったクロエセリアと、同じ歳で国と命を失った王子。


 生きているならばとっくに成人しているはずだと、目を赤くしながら語るマクスールに、ソラリスを直に見せてやりたかった。

 どうしてソラリスが他の人には見えないのか、見えなくなってしまったのか。歳をとり続ける彼はやはり幽霊なのか、違うのか、クロエセリアには分からない。

 けれど、協力してくれる理由は分かった気がした。


 ナリサを取り戻そう。

 そう明確な意志を持って、自らの進む道を決めた。



「……気付かれるとはなあ」

「当然よ。私を欺けると思った? ソラリスなんて、珍しい名前ですもの」

 さも簡単そうに言う。そんなことはないのだが、それこそ苦労なんて何の価値も無い。


「まいったなぁ。もっと適当な名前を名乗っときゃ良かったー」

 いつも通り茶化したように言いながら、ソラリスが凭れた身体を起こそうとする。そのまま永遠に離れてしまう気がして、咄嗟に彼の手を掴んだ。

 このしっかりと(さわ)れる男が、ナリサを取り戻す願いが叶った途端、霞のようにクロエセリアの瞳からも消えてしまうのではないかと焦って。


「今更遅いわ。最初に手を差し伸べたのは先生ですもの。この国と私に、一生付き合って貰いますからね」

「いいぞ? その代わり一生三食菓子付きだし、クロエの長椅子は俺の物だけどな」

 握った手が一瞬離れて、慌てて掴もうとする。けれど離されたわけじゃなかった。指と指を絡めて繋ぎ直される。絶対に離さないと、意思を感じるほどの強さで。

 彼が欲したのは玉座ではなく、クロエセリアお気に入りの長椅子。


「お願い、消えないで」

「消えてたまるか! 俺は幽霊なんかじゃねぇよ。ちょっと人より見えにくい、ただの人間だって何回言えば覚えるんだ。ほら」

 二十歳にもなって、子供扱いをされて片手で鼻を抓まれる。


「痛い……」

 無表情で訴えると、三日月をしたいつものにんまり笑顔が返ってくる。

 この八年で、笑うと彼の目じりには皺が寄るようになった。成人していたソラリスの姿はほとんど変わらないけれど、彼が生きて歳を重ねている証拠のようで、目じりの皺が愛しい。

 彼が歳をとったように、クロエセリアも大人になった。

 ソラリスは思い違いをしている。クロエセリアはもう、じゃれあいで彼に何とか出来るような子供ではないのだ。


 鼻を抓んでいた手をとり、優しく引く。

 こちらに顔を寄せたソラリスに微笑み、鼻にがぶりと強めに噛みついてやる。


「確認するなら、こっちの方がいいわ。たまには先生も痛い思いをすればいいのよ」


 にんまりと、ソラリスを真似た笑みを浮かべれば、彼はよろめき後ずさる。

 けれど鼻を片手で覆ったその顔は真っ赤で、繋いだ左手は痛いほど握られたまま。




 正面からごほんと、ワザとらしい咳ばらいが聞こえた。

 顔を向けると、バツの悪そうな顔をしたマクスールが視線を逸らしながら口を開いた。


「その、クロエセリア様。ソラリス殿との続きを始められる前に、解散の声を頂きたく……」

「あ、俺はこのままでも構いませんが。最近要求厳しすぎる閣下の困った顔なんてレア……ごふっ!?」

 ロンダールの脳天にソラリスの拳が入った。気配も無く急所を突かれ、流石の近衛騎士副団長も頭を押さえている。しかし殴ったソラリスも拳を押さえている。

 ロンダールの石頭は、硬い岩盤並みらしいという噂を思い出した。


「ロンダール、前々から思ってたんだけどさ。お前いっちいち見方が俺と似通っていて許せないんだが。レアって何だ、レアって! クロエの困り顔を愛でるのは俺だけの趣味だぞ」

 ソラリスが啖呵を切っているのだが、もちろんロンダールには伝わらない。クロエセリアも意訳を伝えてやるつもりはない。

 というか、困り顔を見るのが趣味だと知って、色々と物を申したい。


 しかし今は恥ずかしさで死にそうでそれどころではない。

 見えないこの場の全員にとっては、クロエセリアの一人告白大会だ。

 小声だからやり取りは聞き取れなかったとしても、自分の込めた甘い雰囲気は伝わってしまったはず。


 ――死にたい。いえ、聞いた者見た者全員消し去りたい!



 当然ながらこの希望は叶わなかったので、見えない臣下を持つ奇矯な女大公は、見えない恋人を持つ奇矯な女王へと、噂を斜め上に修正されるに留まった。




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