2 奇矯な女大公 クロエセリア
「ねえ先生。副官が税の率を上げましょうっていうの」
回ってきた書類をソラリスの鼻先に突き出す。
相変わらずソラリスはクロエセリアの長椅子で午睡を取るのがお気に入りらしい。一緒に考えるって言ったのに。
ソラリスに相談する為に、自室で仕事をする事が増えた。家臣達からはあからさまな厭味を言われるが、今の彼女にはへっちゃらだ。
愚痴を言う相手がいる。しかも彼は、他の誰にも愚痴を漏らさない。
「はん。これ、既に採決だけの状態じゃねえの。舐められてんなー」
「わかってるわよ! だから相談してるんでしょ」
「そ れ が、相談してる態度か。もっと先生を敬え」
一緒に考えると言ってくれたソラリスは、実際にはクロエセリアよりもずっと博識だった。自ら先生だと言うだけのことはある。特にナリサの特性や土地柄、歴史について詳しい。他国の情勢や風習にも明るかった。
いつしか彼女は心を込めて先生と呼ぶようになった。悔しいので尊敬しはじめてるとは、口が裂けても告白しないけれど。
どうやらソラリスも、先生と呼ばれて頼られることが嬉しいらしい。敬え、崇め奉れとよく言ってくる。ただし報酬は、三食おやつ付きとベッド一つで十分なお安い先生だ。
ぺしっと渡した書類で軽く頭を叩かれる。クロエセリア相手にこんな事をするのは、世界中を探したってこの男くらいだ。
「うう……。私はこんなに税を上げたいとは思っていません。どうやって税務官相手に話を進めたらいいか、相談に乗ってください」
「うむ」
満足そうに頷いて、ソラリスが長椅子からひょいと上半身を起こす。
彼はいつも助けてくれるわけじゃない。決して答えを教えてもらえるわけでもない。けれど、今まで師事したことのあるどの教育係よりも丁寧に話を聞いてくれたし、助言をくれた。彼にもわからない事は、一緒に考えてくれる。
「あれだな。ここらで事務方に強い仲間を見つけたいなぁ」
「事務方に強い仲間?」
眉を寄せると、眉間を指でつつかれた。皺が寄っていたらしい。
「そそ。今のところお前の手駒は騎士とか近衛とかっていう、口より先に手が出るガチ物理ばっかりだからなー。ここらで眼鏡系が欲しい」
たまに意味のわからない言い回しをする。恐らく、今のところクロエセリア自身に忠誠を誓ってくれているのが、髭の立派な騎士団長のマクスールだったり、近衛など武官ばかりという意味だろう。マクスールを筆頭に、泣き落としが良く効いた。
「眼鏡、眼鏡……」
この日は眼鏡の文官リストアップで日が暮れてしまった。
これでは、日がな一日自室でままごとに興じていると陰口をたたかれても仕方がない。
「次の書類はこちらです。ああ、注記事項もしっかり読んでくださいね」
眼鏡文官ことラスティが、銀縁眼鏡をくいと中指で上げて、次の書類を渡してくる。
クロエセリアは無心で書類を処理していた。いや、きちんと読み込んでいるので無心とは違うのだが。
ソラリスの言い方を借りれば、『眼鏡系期待の新人』ラスティの引き抜き成功によって、書類の処理能力と読解力は飛躍的に進歩した。クロエセリアも彼の的確な助言で自分の地力が上がっているのをひしひしと感じる。
しかしいくら地力が上がったとはいえ、外野が呑気に菓子を貪ってる隣では、効率が落ちるというものだ。
「いい加減にしてよ先生。お手伝いしてくれないなら、自分の部屋に帰って!」
インク壺に乱暴に羽ペンを挿して振り向くと、焼き菓子を食べようと大きく口を開けたソラリスと目が合った。
「いやだって、クロエの為にならないし」
「もう十分やっていける実力はついてるの。今は単純に人手が足りないの、処理量が多すぎるのっ」
「ええー。そこの眼鏡に手伝わせればいいだろ。俺はこの焼き菓子の毒見をだな」
「毒見ってそれ最後の一個じゃないっ。私の好きなアンズ入りなのに!」
女大公を務めて早一年。十三歳のクロエセリアはまだまだ甘い菓子が好きだ。きっと何十年経っても、菓子は好きでいる自信がある。
ふと、あまりに静かなので隣に立っているはずのラスティを見やると、必死に眼鏡をチーフで拭いていた。これは彼の緊張している時の癖だ。
彼を勧誘するため、初めて下級文官の事務部屋に訪問した時は、よほど緊張したのか度々眼鏡に伸びてしまう自分の手を押さえていて、面白かった。
「ラスティはまだ先生の存在に慣れないのね。もう随分経つじゃないの」
「いえ、そんなことは御座いませんクロエセリア様。ただ私は中空にひとりでに浮く焼き菓子が、何もない空間に消えていく様子がどうにも受け入れられなくてですね」
「ああ……」
ソラリスの声は人々に聞こえない。姿も見えない。
しかしそこに彼は確かに存在する。
この事実を受け入れるのは、相当に柔軟な発想が必要だ。クロエセリアだって、中々受け入れられなかった。
ソラリスが先生になったあの晩、初めて対面したマクスールがあっさりと受け入れた方が絶対に例外だ。マクスールは多分野生の勘で生きているのだ、きっと。
だからラスティは悪くない。彼が理屈で割り切れず取り乱すのを理解しながら、ワザとここで茶菓子を食べるソラリスが悪いのだ。
尤もこの悪戯を頻繁にしてくれるお蔭で、クロエセリアは自分の正気を信じることが出来たし、真の臣下達にも彼女の行動が理解してもらえた。
元から居た家臣達には白い目で見られながら、それでもクロエセリアは以前のような苦しさを感じる事はなかった。
今はもう、ひとりじゃないのだから。
・・・・・・・・・・
ナリサの女大公は変わった。
ソラリスという名の客人の部屋を用意し、自らの教育係兼相談役として招いたと宣言し、手厚くもてなすように命じた。毎日誰もいない部屋を掃除させ、シーツを替えて食事を運ばせる。冬には暖炉に火も入れる。部屋の灯りも忘れずに。
盛られた薬の影響でおかしくなったのだと、城の家臣たちは囁き合う。けれどメイド達からはこんな噂も聞こえてきた。部屋には誰もいない筈なのに、いつの間にか食事は減りシーツに皺が出来る。掃除をサボると何故かばれる。
国王も先王夫妻もすっかりクロエセリアを腫れもの扱いし、一年も経てば女大公の元には便りもまばらになった。
そうして三年――。
じっくり奇矯な行動を続けたあと、突然家臣の挿げ替えが始まった。
「全てを把握する立場にあったはずなのに、こんなことも知らなかったの?」
朝議の席に乗り込み、新しくなった顔ぶれに下位の者や平民出身のものを多く見つけた元副官は異議を唱えるが、舌戦で女大公に全く歯が立たなくなっていた。
首を傾げ楽しそうに微笑むクロエセリアには、三年前の寄る辺ない少女の面影はない。
反論も質問も出来ずただ唇を噛みしめていただけの少女が、美しく紅をさした唇に涼やかな声音ながらたっぷり毒を含んだ言葉を乗せ、ほんの数日前まで全権を預かっていた男を見下ろす。
三年で人はこんなにも変わるのだろうか。
十五歳の女大公は、少女と女の狭間の危うい美と自信を隠そうともしない。
元副官は思う。
きっと全てが演技だったのだ。一人ままごとに興じているように見せ、その実勉学を修めていたのだろう。しかし、隠してあった筈の不備を見つけ出すなんてどうやって……。
おかしくなったせいだろうと高を括っていた家臣達は青くなった。
勿論王都からの苦言はあったが、何せ距離が遠すぎる。
その上彼女の存在は、領民から驚くほどすんなりと受け入れられている。自分達の生活に影響が無い限り、幾ら領主の少女が城内で相手のいないままごとに興じていようが、彼等にとっては些細なこと。治水と農地の改良に力を注ぎ、加えて、十年以上経っても遅々として進まなかった帝国との補償交渉にも乗り出した。
何と言ってもここは既にクロエセリアの領地。彼女は女大公なのだ。
領民からの支持は高く、税も実りも充実していれば、国王とて表向きの文句は付けようがない。
そしてクロエセリアはあくまでもエルクラルド国に恭順を示す姿勢も忘れなかった。
外面は良い方なのだ。そうやってずっと、家族の顔色を見ながら溶け込んで生きてきたのだから。
今思えば両親も彼女も兄の方ばかりを気にする、窮屈な家族だった。
騒がしかった元副官が連れ出され、朝議の場にほっと安堵の空気が流れる。
隣でごほんと、ワザとらしい咳ばらいが聞こえた。
「なあに、マクスール」
彼女の椅子の右側に控えるマクスールが、ちらちらと発言権を求めるように見るので、話を振る。
相変わらず立派な口髭だ。出会った当初は引退間近などと表してしまったが、とんでもない。あと百年は生きそうな頑強さの持ち主だ。肉体的にも精神的にも。何故なら、三年もの間、外から見れば奇矯と言える行動に付き合ってくれたのだから。
一度の文句も言わずに。彼には本当に感謝している。
「ソラリス殿は今そちらにいらっしゃるのですか?」
そう言って、クロエセリアの椅子の左を伺う。そこはソラリスの定位置だ。
「いいえ。今日はちょっと気分が乗らないんですって」
こう言って、ソラリスは度々朝議を欠席した。あれだけ昼間寝ているのに、朝まで寝坊なんて良い度胸だ。
マクスールはあからさまに顔を顰める。
「いつもではありませんか。ソラリス殿にも困ったものです。私が直接お話し出来るものならば、朝の時間の貴重さについて、じっくりと説いて差し上げるものを」
実際マクスールはソラリスの客室に乗り込んで、ベッドに向かって説教をした事がある。もちろん面倒くさがりのソラリスはさっさと逃げた。誰もいない部屋で滔々と説教をするマクスールは、遂に耄碌かと噂を流され怒り心頭だった。
未だに彼等の、文字通り見えない攻防は続いている。
「今に始まった事じゃないでしょ。その分先生には、私から宿題をいっぱい出してあげるからいいのよ」
にっこりと微笑む。
二人のパワーバランスもこの数年でだいぶ変わった。
クロエセリアはソラリスの弱点を見つけた。彼はスキンシップに弱いのだ。本人が言った通り、見える人間に会ったのは本当に僥倖だったのだろう。そう言えば当初からよく触れて来ていた。子供か犬に対するように、無造作に。
それを逆手にとってこちらから張り付くと、彼は大抵動けなくなる。大人しくなって、クロエセリアの大抵のお願いは、通ってしまうのだ。
最近は、長椅子で横になっているソラリスに気配を消して近づいて、腹の上に座ってやるのがお気に入りだ。ぐえっとか、ぎゃっとか、面白い声を上げてくれる。
楽しくて仕方がない。子供の頃に縁のなかった喧嘩友達というものを、彼で補完しているのかもしれない。
「一体どちらが教師で生徒なのだか、まったく」
そんなマクスールの苦言に出席者が笑い、今日の朝議も和やかに始まった。
・・・・・・・・・・
騒がしく時に難解で、それでも満たされる日々が続いていた。
見えない客人を臣下に加えるおかしな女大公。そんな風に呼ばれても、実力を見せてさえいれば、領地を潤し国に益を生んでさえいれば充実した日々が続くのだと、決めつけていた。
しかしクロエセリアが十八歳の成人を迎え、婿取りも噂され始めた頃から、ソラリスが留守にするようになった。
「……先生どこに行ってたの」
「んー? ちょっくらいつもの野暮用だって。なんだよ、俺がいなくて寂しかったのか」
にやにや笑いながらクロエセリアの鼻を抓もうとしたソラリスの手が止まった。
彼女の唇を噛みしめる姿に、深刻さを悟ったらしい。
「ばかっ。先生の大馬鹿!」
「うえっ打つなよ! なんだなんだ、緊急事態でも起きたのか」
ソラリスがふらりと姿を消して、ひと月近くが経っていた。
「ひと月なんて聞いてないわ。もしかしたら何処かで怪我でもしたのかと、はらはらしてたのよ?」
「ああそっか。そういうのは確かに困るな――伝書鳩とか飼いならすか? でもローブの中で大人しくしてるのか、あれって。会議途中で鳩出したら、それこそ何の手品だってことになるな! マクスールに説教されそう」
などと、さして深刻に受け止めずに笑っている。
それまでも数日姿を消すことはあった。
執務においては、この頃にはじゅうぶん臣下も揃っていたし、いつも一声かけてくれるので滞ることはなかった。
けれど今回は予想よりも期間が長すぎて、本当に消えてしまったのか、はたまた自分も皆と同じように見えなくなってしまったのかと脅えたのだ。
「そうじゃなくって、ちゃんと行き先と日程を……」
そこまで口にして、クロエセリアは自らとソラリスとのかみ合わない温度差に気付いた。
臣下達にはきちんと休日を与えている。
その与えられた中で何をしようと、どう過ごそうと勝手だ。
これまで数年間のソラリスの拘束時間を考えれば、ひと月休みを取っても決して責められる謂われはない。しかもこのひと月は急ぎの案件も無かった。
「おーい。俺が悪かったって、クロエ。ほれ、ちゃんと土産も買って来たんだ機嫌直せ。な?」
クロエセリアの顔を覗き込むようにして、金の満月が二つ輝いている。
振られる手には、黒のリボン。
黒に見えるけれど、光沢によって複雑に色を成すそれは、ソラリスのローブとよく似た色。
どうやって買うのか見当もつかないけれど、そんなことはどうでもいい。
クロエセリアの心はそのリボンに釘づけになった。
「先生が結んでくれるなら、機嫌を直してあげる」
「えーそんなのやったことないぞー」
「私だって、リボンなんて自分で結んだことありませんもの。綺麗に結んでね」
くるりと後ろを向いて目を閉じて、ソラリスが髪に触れる感覚を堪能する。
胸はさっきから早鐘を打っている。
気付いてしまった。
ソラリスが好きだ。
ただの師匠ならば、こんなにも行動を全て知りたいなんて思わない。
他の誰にも、異性に髪を触らせようとはしない。
ずっとずっと意識していた。その想いがようやく花開いたのだ。
生徒と先生でなくなったなら、彼との関係はどうなってしまうのか。
温度差のあるソラリスに悟らせたりなんてしない。
彼の方から請わせ、同じくらい熱く想って貰わねば、彼女のプライドが許さない。
黒猫のように掴みどころがなくて、少し意地悪な先生。
――さあ、どうやって狩りを始めましょうか?