1 エルクラルド王国 ナリサ領
本日同時間投稿の二話目です。
プロローグが前話にございます。お気を付けください。
エルクラルドは決して小国ではない。
大陸西端の海岸に張り付くように面した国は、規模から言えば大きいわけではなかったし、一年中吹きつける潮風のせいで実りも豊かとは言えない。けれど、先々代のカイセル王が積極的な外交を行い大規模な港を構えることで、同盟国の拡大に成功している。外交や交易で益を成し、西地域をまとめる扇の要を担っていた。
西地域は山脈を挟んで東側の帝国から度々侵略行為を受けるものの、次の王であった父王は同盟諸国との関係維持に尽力し、後継者争いで血の嵐が吹き荒れていた帝国とも、十年以上戦もなく付き合ってみせた。
クロエセリアが十二歳の時、兄のフェルディナンドが王に即位する。
二十二歳の兄はちょうど隣国より妃を娶って身を固めたばかり。父王の体調不良もあり、期待を一身に集める彼の引き継ぎは穏当に見えた。
先々代の生き写しと言われるフェルディナンドのもと、国は更に繁栄すると誰もが信じて疑いもしなかった。
クロエセリアには大公位と領地ナリサが与えられた。
夫を迎えるには若すぎ、王宮にそのまま置くには大きすぎる。彼女の年齢は微妙だ。
そもそも父王には子供が四人いたが、長子のフェルディナンドと末子のクロエセリアの間にいた二人の王子は既に亡くなっており、直系はもう彼らだけになってしまっている。
そんな事情で、嫁がせるよりもいずれは婿を取ることが望まれた結果の大公位だった。
エルクラルドから見て、数か国の同盟国を挟み存在する飛び地の領地、ナリサ。
水の資源に恵まれた肥沃な土地を持ち、この地域でのみ採れる染料草という特産品もある豊かな土地だ。ちょうど大陸を分ける山脈の麓に位置し、中継地としても重要な場所になっている。その為、狙われることも多い土地だった。
クロエセリアが生まれる少し前まで、ナリサは独立した国家であり、エルクラルドの同盟国のひとつだった。
しかし一度帝国に占領され、同盟の援軍が到着した時には遅く、ナリサ王家は戦火に露と消えていた。帝国内が後継者争いで揉めている間に何とか復興し、王のいなくなったこの飛び地をエルクラルドの王領へと組み込み、現在に至っている。
与えられた領地は不安定ながら恵まれている。
けれど女大公としての毎日は、決して愉快とは言えない。
起床から就寝まで、全てを管理されるのは王女時代から慣れているものの、政が苦痛の時間になった。
十二歳の少女に、家臣たちは誰も発言権を与えてはくれなかった。勿論勉学とは違い、実際の政治はわからない事柄が多く、彼女には殆どが難しい用語の羅列に聞こえる。それでも言葉の端々から疑問点を質問しようとすると、言葉は丁寧なのに取り合ってくれないのだ。その態度に怒ればそれは子供の、或いは女の癇癪と片付けられる。
たった二人の王位継承者の一人として、いずれは国内のどこかの領地を治める女大公として、政治も経済も学んできたつもりなのに、人形のように座っている自分に嫌気がさしていた。
何より孤独だった。
王都からは遠く離れ、体調の思わしくない先王は、このような僻地まで足を運ぶのは無理だろう。嫁いだばかりの王妃への教育に忙しい先王妃は、王宮から離れるはずもない。国王は家臣を選び彼女の元へと寄こしてはくれたものの、国の舵取りと新婚の王妃を構うことに忙しいようだ。
クロエセリアは日の翳りはじめた廊下を、自らの影を強く踏みつけるようにして歩いている。
何とかしたいのに、取っ掛かりすら掴めなくて苦しい。
自分がちっぽけな存在に思えてきて、悔しくて堪らなくなる。王族としての矜持が邪魔をして、弱い気持ちを上手に吐き出すことも出来ず、この日も唇を噛みしめながら自室へと戻る。日常茶飯事と言える姿だ。
家臣達は何かにつけて輝かしい功績の祖父と、その祖父にそっくりな兄を引き合いに出す。支持と人望を一身に集める兄と比べられて、見返すことも出来ずもどかしい。だから泣かないように、唇を強く噛みしめて心を押し隠す。
部屋に着きましたよと、侍女に声を掛けられて顔を上げる。
クロエセリアのお気に入りの猫足の長椅子には、黒い物体がのんべんだらりと寝そべっていた。
部屋の調度は淡い色で統一されており、その中でもクリーム色の薔薇柄の長椅子は彼女のお気に入りだ。だから黒いそれは部屋の雰囲気から浮いていた。
侍女はいつものように、長椅子の物体をまったく気に留めずに部屋を辞してしまった。
まるでそこには誰も存在していないように。
お茶の用意にいったのだろう。執務を終えて部屋に戻ると、侍女はいつもとびきり甘いお茶を用意する。甘いお菓子は好きだけれど、甘いお茶は好きではなかったりする。しかしこの侍女は王都から連れてきた数少ない一人なので、あまり強く文句を言ったことはない。疲れを取るハーブティーだと言われると、味が好きではないなどと口にするのは苦い薬を嫌がる子供みたいではないか。それはプライドが許さない。
きっと甘いお茶は、侍女なりの励ましなのだろう。
部屋に差し込む夕日の中で、長椅子の上の黒い物体を改めて見やる。
襟足に付くかつかないかの癖のある黒髪に、浅黒い肌。フード付きの全身黒い神官服によく似た衣に身を包み、丸くなる姿はまるで気ままな黒猫のよう。ただし特大。高い背を長椅子には収めきれず、足がはみ出している。
クロエセリアが近づくと、眠たそうに細められた金の目が片方だけ開いた。その目が綺麗で本当に猫みたい、といつも思う。
「ねえちょっと幽霊さん、その椅子は私のお気に入りなのよ」
「んー」
呆れながら腰に手を当て話しかけると、黒い物体は返事とも唸りともつかない声を上げながら脇に少し避ける。そしてまた目を閉じてしまった。
仕方なくクロエセリアは長椅子の端にちょこんと腰かけた。
「あら閣下、そんな端でよろしいのですか?」
「……いいのよ。そんな気分なの」
戻って来た侍女は、それ以上詮索せずに茶の用意を始めた。
出会いは突然だった。
ある日部屋に戻ると全身黒い服の大きな男が長椅子で寝ている。驚いたなんてものではない。もちろんクロエセリアは大声で助けを呼んだ。しかし駆けつけた誰にも黒い男は見えなかった。彼女にだけ見えるらしい。
血塗られた建物にはいわく付きの幽霊が出ると聞くが、この男がそうなのだろうか。
ナリサが帝国に落とされたのは今からほんの十二年かそこらの話。けれどエルクラルドの援軍の奮闘で、城も都も戦火には飲まれなかったはず。
――だとすると、もっとずっと前の幽霊なのかしらね。
それから度々、クロエセリアは男を見かけるようになった。
ある日は庭園の百日紅の木の上で昼寝をしていたり、図書室の端で転寝していたり。一番遭遇率が高いのは、クロエセリアの部屋の長椅子だ。どうやらこの猫脚の長椅子を、彼はとっても気に入っているらしい。いつだって無防備に眠っている。
遭遇の日から黒い男を極力無視して生活している。誰にも信じて貰えないのだからどうしようもない。
誰もが見えないと言うならば、いない振りをした方がいいに決まっている。
視界の端に黒い物体が映るけれど、それはただの置物と思えばいい。実際殆ど置物と同じくらい動かない。たまに彼女のお菓子や盛り籠の果物を勝手につまむけど、どけと言えば一応どくので、まあ許容している。
そんな感じで、黒い幽霊を飼いはじめたくらいの気分でいたのだ。
「なあ。その茶を飲むのはおすすめ出来ないぞ。こんなの毎日飲んだら、本当に幽霊を見るようになっちまうぜ」
「…………」
ぴたりと、お茶のカップを取ろうとしていた手を止める。
クロエセリアの横でいつの間にか目を覚ました男が、胡坐をかいた膝の上に片肘を乗せ、その上さらに掌に顔を乗せ目を眇めてカップを見ている。非常に行儀が悪い。あと猫背だ。
「なあ聞いてるか、ちびっこ」
金の瞳が両目とも開き、クロエセリアを覗き込んでくる。満月が二つあるみたい、と不思議な感想を持つ。
「……ちびっこじゃなくてクロエセリアよ、幽霊さん」
「閣下、何か仰いましたか?」
こちらを訝しむ侍女に首を振り、とびきりの笑顔を見せる。笑顔だけなら兄に似ていなくもないらしいので、評判は良い。
「……ねえ。貴女だって疲れているでしょうから、今日は特別に私のお茶を飲ませてあげるわ。こっちは私が飲んであげる」
「え!? そんないけません!」
どうして黒い幽霊の言葉を聞こうと思ったのかと問われれば、クロエセリア自身もおかしいと思っていたから。この茶を飲むとぼんやりふわふわして、気が付いたら数刻経っていることもあった。いつもではなかったから、疲れているせいだと思い込もうとしていたけれど。
普段は毒見をされた冷めた食べ物ばかり。高位の侍女が淹れてくれる茶は、温かいまま口に出来る唯一に近い飲食物だ。それだけ信頼されているということ。
彼女の前のカップを手に取り、さっさと口を付ける。無邪気さを装って半ば命令のように強く勧めると、侍女の顔は赤くなって、青くなって、最後に白くなる。
観念して一口お茶を口にした彼女は、飲み込んだ振りをしてやり過ごそうとした。
「調べさせるなら、城付きの騎士団長でいいんじゃないか。あのじいさんは、曲がったことが大嫌いな頑固者だからなあ」
また黒い幽霊が語りかけてくる。今日は随分多弁だ。起きているのも珍しい。
城内の警備は第一騎士団の役目で、騎士団長は第一騎士団の長が務めるのだから、確かに妥当な人選だ。彼が頑固者かどうかは知らないが。
大声で騎士団長を呼ばわると、彼は案内の侍従を怯ませてしまう迫力で参上した。立派な髭に白いものが混じる、老年にさしかかりの騎士団長マクスール。真直ぐな眼光はこの場において何よりも鋭い切れ味を放っていた。
クロエセリアはマクスールの迅速な行動と采配を視界におさめながら、これまで彼と言葉を交わしたのは、入城の際に顔合わせをした時くらいだということを思い出した。
騎士団長と言えば、朝議にも参加の義務があったはず。
そこまで考えて漸く、マクスールがきっと誰かによってクロエセリアの傍から遠ざけられた存在であると気付いた。きっとこんな風に勝手に取捨選択が行われているのだろう。
彼女の方もわざわざ自分から家臣を訪ねたり、近づこうとなんてしてこなかった。
茶には、致死性ではないが緩やかに精神を痛めつける粉が入っていた。報告をするマクスールは非常に言葉を選んでいたが、王都辺りでは媚薬の一種とされている毒。
侍女は口に含んでいた液体を吐き、ついでに自らの弁明を吐いた。
要約すると愛する恋人のためらしい。そして、自分と恋人をこんな僻地に同行させたクロエセリアを快く思っていなかった。
侍女に粉入り茶を命じたのは、本国からの家臣の男。
言ってくれれば連れてなんて来なかったのに、というのがクロエセリアの率直な感想だ。
二人の顔をクロエセリアが直接見ることはもうないだろう。
・・・・・・・・・・
「こんな所に縮こまって、逃げてるつもりか? まわりの狸どもの思惑通りだぞ」
シーツの上から問いかけが降ってくる。
「うるさい、うるさい、うるさい! いつもみたいに寝てればいいでしょ。何で急に喋り出すの?! 放って置いてよっ」
幽霊相手に怒鳴り散らす。
誰も寄せ付けず部屋に閉じこもり、ベッドの中に潜り込んで丸くなる。
ナリサに女大公として入った時から、領民や城内の領地出身者達に遠巻きにされるのは想定内だった。そもそも外様なのだから歓迎が薄いのは仕方ないと諦めていたし、家臣も侍女も持ち込んだから不自由はないと思っていた。
しかし王都から連れてきた家臣達からこんな嫌がらせをされるなんて、思ってもみなかったのだ。
「なあ、どうしてこんなことになったのか、分からないのか?」
「…………わからないわよ」
家臣たちの給金は、地元の者たちよりずっとはずんでいる。彼らには本音で言い返したい気持ちだって大分我慢したし、大切に扱ってきたはず。
「じゃあ、あいつら何を基準に雇ったんだ。計算が早いのか、土地に詳しいのか、交渉に優れているのか、……忠義に厚いのか」
「そんなこと知らない。王都を出るときには、家臣たちは決まっていたもの。……だってしょうがないでしょう。いくら机の上で学んでいても、実際の政なんて分からないことだらけだし、慣れている人間に手伝って貰って何が悪いの!」
ついつい声が大きくなる。涙声になりそうになる。
「悪いなんて言ってねえ。適材適所を上手く使うのが統治者ってもんだ。分からないなら専門家に意見を聞けばいい。でもさ、答えまで丸投げするのは違うだろ」
「知ってるわよ! でも周りは誰も私の質問なんか相手にしてくれなかった。子供の癇癪だって、裏で溜息を吐かれるのよっ」
クロエセリアだって分かっていた。任せきりでいいはずはないと。でも、十二歳で本国から切り離されて彼らだけが頼りだった。
この先、誰を信じればいいのか皆目見当もつかない。
それに、領地の人間は味方ではないと思っていたから、今更どんな態度で接すればいいのかわからない。
「……いまさら、助けてなんて言えないわ」
「何で? 言えよ。子供らしく泣いて我儘言って、手を伸ばせ」
「そんなこと出来るわけないでしょ、私は大公なの。この地の領主なのよ!」
プライドと兄への対抗心はいつだって儘ならない。
「領主だって言うなら、ナリサの事を一番に考えてみせろ。子供だってことも、女だってこともあざとく利用して笑ってみせろよ。そんな今にも泣きそうな顔で踏ん張ったって誰も分かっちゃくれないぞ。おまえは傍から見たら、全てに恵まれた苦労知らずの鼻につくお姫様なんだからさ」
「違うっ」
「じゃあ手を伸ばしてみろよ。ほら、素直に助けを呼んでみろ」
出された手は大きく、けれど何の変哲もない人間の手に見える。
どうして今日に限って、この幽霊はこんなに話しかけてくれるのだろうか。どうして彼の声が、逃してはならない最後の助けのように聞こえるのだろうか。
クロエセリアは被ったシーツを引き下ろし、目の前の男に向けて手を伸ばした。
「助けて、くれる?」
「いいぜ」
にんまりと笑う男の目は、今は二つの三日月だ。
その瞳に映る自分のポカンとした顔がやけに鮮明に見えて、部屋に差し込む月明かりの明るさを思い出す。
「俺は政なんて得意じゃないが、一緒に考えてやるよ。とりあえず考える人間が二人なら、単純計算で考える力は倍だろ?」
伸ばした手と延ばされた手が重なって、硬くて温かい掌に包まれる。
「幽霊なのに触れるのね」
「俺は幽霊なんかじゃねぇよ。ちょっと人より見えにくい、ただの人間だ。せっかく見えるやつに会えたのに、幽霊扱いなんて勘弁してくれー」
片手で鼻を抓まれた。
「痛い……」
無表情で訴えると、夢じゃないだろ? と、すぐに手を離された。
クロエセリアの頭は、盛られた毒でおかしくなってしまったのかもしれない。
それでも、彼に本当に存在していて欲しくて、手と抓まれた鼻に残った温もりを信じることにした。
「俺の名前はソラリス。よろしくな」
「ソラリス? 珍しい名前ね」
人に見えにくい珍しい彼にぴったりに思えた。くすりと笑って首を傾げる。
「なあんだ、笑えるんじゃないか。そっちの方が可愛いげがあるぞ」
「その言い方じゃ、まるでいつもは可愛くないみたいじゃない」
「廊下を親の仇みたいに踏みつけながら歩く姿は、世辞にも可愛いとは言えないだろ」
「何でいらないとこをしっかり見てるの……」
クロエセリアは今度から廊下でも気は抜かないと、固く心に誓った。
「よし! んじゃ今日から俺はクロエセリアの先生だ。先生と呼ぶように。客人で先生な俺に礼を尽くすのは当然だよなー」
「何を言ってるの。主従で言えばこの城の主の私が上でしょう」
当然ソラリスは家臣のようなものになってくれるのだと思っていた。
「えーでも俺雇われてないし。自給自足で生活してるし」
「私のお菓子つまみ食いしてただけじゃない」
城内を徘徊するのは自給自足とは言わない気がする。
「いやー。この城暮らしは俺の方が長いんだぞ。何より人生の先輩だし。さっきだって毒の危険から救ってやった。つまり師弟関係なら、助けてやる俺が上」
にまにまと、ソラリスはとっても楽しそうだ。
失礼な男だと思いながらも、助けを求めたのは自分だと結局クロエセリアが折れた。
「……よろしくオネガイシマスせんせい」
「ふむ、よろしい。じゃあ生徒のクロエセリア君、一限目の授業だ。扉の前でハラキリしそうな勢いで佇んでる騎士団長を我々の仲間に引き入れよう。なあに簡単だ、さっき侍女に不信を抱いていたならどうしてもっと早く知らせてくれないのかと、十二歳の幼い少女を自分が強めに諌めたせいで引き籠らせてしまったと思い込んでる、マクスールの良心をぐっさりと攻撃して、陥落させるんだ」
「……ええー」
気分が乗らないながらもソラリスの指示で子供らしく泣き付き、見事マクスールを仲間に引き入れた。実際にやってみると泣くつもりではなかった筈なのに、涙が止まらない。泣きやむのに苦労をした。
クロエセリアはこんな風に泣く子供を、今まで馬鹿にしていた。けれどそれは羨ましかったからなのかもしれない。
子供じゃない振りも、我慢も、もうしたくはないと思った。
真っ暗だったのは自分で暗闇を作り出したから。
シーツを一枚持ち上げれば、外は月灯りでこんなにも明るかった。
他の人には見えないソラリスと、クロエセリアのおかしな師弟生活が始まった。