陽気な仮面の下に
ラートティア大陸とヘカティア大陸との間の海域にある小島に兵士達は立ち寄った。冷たい海に足を入れ続け、重い荷物を運んできた巨人達の休憩の為である。巨人の身体は丈夫で、外の温度の影響を比較的受け辛いが、それでも限度はある。巨人達は箱を島の適当な所に下ろし、自分達はそこから離れて、濡れた脚を乾かしたり、横に寝転がったりしている。兵士達も箱から出て休憩しに行く中、フレッド・カーライルは箱に残ってその場に寝転がり、眼を閉じる。移動中も寝転ぶ事が出来るだけのスペースはあったが、揺れの中では体を休める事が出来なかった。休む事が出来る時にしっかりと休み、動くべき時にはすぐにでも動けるのが彼の特技である。眠りに落ちた彼が見たのは、昔の夢だった。
フレッドは幼少期、アメリカ・シカゴのスラム街に住んでいた。親の顔は知らない。しかし何故か、自分の名前がフレッドだという事は知っていた。気が付いたらそこにいて、そしてその場所に順応していった。生きる為にはどんな汚い事だってした。それによって痛い目に遭った事も数え切れない程だった。
「この世界はクソだ」
それが幼い彼の口癖だった。一日を生き延びるのが精一杯で明日の事なんて考えていられない。周りの人間は信用出来ず、幾度の衝突の末に心から信頼しあえる関係になった同年代の友人が翌日に死んだ事すらあった。そんな苦労の果てに、彼は自殺を図った。とある冬の日、腹に震える手でナイフを突き刺して路地裏に倒れた。ドロドロと流れる赤い血は粗末な衣服に染みつき、激痛の中に気持ち悪さを演出する。
(これが……死ぬって事か。痛い……この痛いのをジョンが、リックが、クリスが……みんなが感じたのかな? 俺もアイツらの所に……。俺が行くのは天国か、それとも……)
自分の意識が薄くなっていくのを、何となくフレッドは感じる。だが、徐々に身体が冷たくなっていく感覚に恐怖を覚えた。
(何で……。俺はもう、死ぬ覚悟はできたのに……。これまでだって何回も迷って、やっとの思いで決意したのに…………。俺は……死にたくない……イヤだ…………)
フレッドは本能的に両手で流れる血を止めようとする。それも虚しく、血はドクドクと止まらない。
(死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない……………………)
死をひたすら恐怖する彼の意識は、やがて途絶えた。
◇
しばらくして、フレッドは自分に意識がある事を分かった。身体が重く、腹部に激痛を感じる。
「痛……」
思わず呻き、右手を患部に当てようとする。すると抵抗があった。その時、寝転がっている自分の上に、何か重いものが乗っている事に気付く。
「クソッ、何だこれ!」
それは掛け布団と呼ばれるものだった。だが彼はそれを知識として知らない。寝る時に使う布と言えば、道端で拾ったボロ切れしか知らない彼にとって未知の存在であるそれは戸惑いを生んだ。何が何だか分からず、フレッドは焦燥感に駆られて暴れようとする。すると腹部に激痛が走る。
「うっ……」
その衝撃に呻いていると、ぼやけていた視界が徐々に鮮明になってくる。窓から射す白光は、日が昇っている時間帯である事を表している。そして自分はどこかの建物の中にいて、謎の台――ベッド――の上に乗せられている事が分かった。腕には何か違和感が有り、
「どこだよ、ここは……?」
フレッドが疑問を呟くと、ギギィ……という何かが軋む音が聞こえた。
「あら、お目覚め?」
ゆったりとした若い女の声が耳に届く。それを警戒したフレッドは何とかその場を動こうとする。しかし身体は言う事を聞かない。
「お前は誰だ……うっ」
「ああ、ダメよ。まだ動いちゃ。一通り治療はしたけど、まだ治りきってないんだから。内臓なんかもすごかったのよ? ああ、お腹すいてる? まだお口で食べるのは無理だから点滴になっちゃうけど」
「うるさい……」
「ゴメンね。っていうか質問に答えていなかったわね。私はエスター・カーライル、医者よ。ここは私の家を兼ねた診療所。三日前に倒れてた君を拾ってきたのも私よ」
エスターと名乗った女にフレッドは警戒心を剥き出しにする。
「何で俺は生きている! 俺はあの時死んだはずなのに!」
「何でと言われても……君の『生きたい』という強い意志が奇跡を起こしたのよ」
「ふざけるな!」
「……冗談よ。いや、あながち冗談でも無いのかしら? 君が死にたくないって顔で泣いてて、それを見て助けなくちゃって思ったんだから。君は並の医者では絶対に助けられない状態だった。でも、天才美人医師である私の神の如きメス捌きが君を何とか生き永らえさせる事に成功したの」
「俺に何をさせようとするつもりだ! 何を考えている!?」
「何もしないわよ。でも、強いて言うなら、君を養ってあげるわ。おうち、無いんでしょ?」
エスターはにこやかな笑みを向けてフレッドに話す。だがフレッドはそれを信用できないと思った。人の、特に大人の笑顔ほど信用できない物は無い、というのが、幼い彼の中の常識だった。
「大体、俺を助けるくらいなら、ジョンもリックもクリスも助けられたはずだ! 何で俺だけを助けた! ……うっ」
喉が張り裂けそうなくらいフレッドは叫ぶ。彼の腹は痛みを訴える。
「大丈夫!?」
「うるせぇ!」
エスターが心配して掛けようとした手ははね除けられる。眼に涙を浮かべ、かなりの剣幕で睨んでくる少年に、彼女はいたたまれないものを感じる。
「ごめんなさいね。君のお友達を助ける事が出来なくて。えっと、じゃあ私は少し出ていってるね。今日は外に出る予定は無いから、何か有ったら何でも言ってね」
しばらくは一人にさせてあげた方が良いだろうと判断したエスターは部屋を出る。なお、この部屋には監視カメラが設置されており、ほぼリアルタイムで室内の様子を把握する事が出来る。画質にはあまり期待出来ないが。
モニタに映る少年は落ち着かなさそうに辺りを見回している。それはさながら、悪の組織に拉致されたかのようだった。表情こそ険しいが、エスターには彼が怯えているように見えた。
「私って偽善者なのかな……?」
溜め息をつきつつ、エスターは呟く。元々シカゴの中流階級の家に生まれた彼女は日本の大学で医学を学び、帰国後に世界をもっと知りたいと思うようになり、その一環としてスラム街を訪れた。元々自分本意で他人に興味を示さなかった彼女だが、大学時代によく世話になった先輩が人を人とも思わない外道だった事の反動で、人を見たら出来る限りでの善行をしたいと思うようになった。その先輩の名は神代怜悧という。
「死にかけのあの子を助けて、私はいい人なんだって自分に酔ってた。でも、あそこでは毎日のように子供が死んでるし、病気で苦しんでる子供達がいる。そして私には、彼らみんなを助けられるだけの余裕がない。それが分かっているから、本当ならあそこでは誰も助けるつもりは無かった。でも、あの子の声につい、体が動いちゃった」
彼女は自分がしたことが本当に正しかったのか、判断に迷う。恵まれた自分には想像も及ばないような地獄の日々に絶望し、自ら命を絶とうとした少年。彼を助ける事により、無駄に苦しみを長くしただけなのではないか。彼がのたれ死ぬ子供を見た時、助かった彼に罪悪感を覚えさせてしまうのではないか。そんな考えが彼女の頭を渦巻く。
「でも、助けた以上は責任を持たなくちゃいけない。このまま私が育てるにしても、親代わりになってくれる人や施設に預けるにしても」
この後、エスターはしばらくフレッドを育てる事となる。当初はフレッドは反抗的な態度であったが、後に彼女の誠意に感謝の念を懐き、人を信じる事を覚えた。しかし、今の仕事が少ない診療所生活のままではフレッドを養う事が困難だと判断したエスターは、新たな職を探す事となる。その過程で彼女は、彼女の幼馴染みで、同じ大学に留学した過去を持つ男が関わっているというFBIの下部組織である武装組織KMMの専属医師という仕事を見付けた。破格の報酬が貰えるとは言え、家にいられる時間が少ないという欠点があったが、彼女はその仕事を選んだ。敵を作りやすくデリケートな仕事である故に、仕事の内容は家族にすら秘密であると言うのがKMMの条件だった。
だが、彼女には誤算が有った。フレッドはある日、エスターの職場を突き止めた。それを見たKMMのボスはフレッドの手腕を気に入り、組織に入らないかと、半ば冗談で尋ねた。当然エスターは断固として反対したが、フレッドは力強く首肯した。エスターの引き止めを拒否してKMMの一員となったフレッドは厳しい訓練を受け、やがて危険な任務にも参加しては目覚ましい成果を次々と上げる事となる。
その後、彼には前代未聞のミッションが与えられる事となる。日本が独自のルートで大量の資源を独占しようとしている。それが実現するとならば、世界経済のバランスを大きく崩す危険性がある。だから、その資源を世界中で共有させる為の工作をして欲しい、と。そして驚くべき事に、その独自のルートは異世界だという。冗談だろうとエスターは思った。だがそれには神代怜悧、そして近衛茉莉が関わっていると聞いた途端に、何とも言い難い納得感を得た。エスターにとって彼女達は化け物と言っても過言では無い程に優秀で、しかし人としてどこかおかしい先輩達であり、いずれろくでもない事をしでかすだろうという漠然とした予感が有った。そして彼女は思う。怜悧達がしている事はたとえ何だろうと、絶対に阻止しなければならないと。
だが、そんな彼女でもフレッドに出された指令は反対した。これまで幾度となく彼への危険な指令には反対してきたが、今回ばかりは事情が違った。フレッドには異世界に行って欲しいと。そして、その異世界からこの世界に戻ってくる方法は無いらしいと。だが、フレッドはそれに快く頷いた。そして、前もって教師として学園に潜入させていた人物の工作により神代聖騎と同じクラスになり、コロニー・ワールドへと向かった。
◇
そして現在、フレッドの意識は覚醒する。いつの間にか巨人は移動を再開していて、彼の体も箱ごと運ばれていた。
「うぅ……」
立ち上がったフレッドは軽くストレッチする。すると、近くにいた緑野星羅が言ってくる。
「おはよう、フレッド君。よく寝てたね」
「オー、セラ。今日は決戦だからネ。ちょっと緊張していたヨ」
フレッドと親しい者は主に彼の事を『フレディ』と呼ぶ。星羅も彼とは元の世界の頃から親交があったが、愛称ではなく名前で呼んでいる。それは彼女が元々インターネットで『腐淑女』というハンドルネームをよく使用していたから、というどうでもいい理由がある。
「それにしても、寝言がすごかったよ。英語だったから何を言っているか分からなかったけどね」
「これは恥ずかしい所を見せたね」
「そう言えばさ、フレッド君って中等部に入った時から日本語ペラペラだったじゃん。やっぱり、ものすごく勉強したの?」
「イエス。ボクのママが日本の大学に留学してたからネ。ママからはボクが小さい頃から一所懸命日本語を教わったヨ」
フレッドは血の繋がっていないエスターを実の母のように慕っている。彼はエスターから日本語を、そして組織の人間からはドイツ語やフランス語、イタリア語を習い、ほぼマスターしている。
「やっぱりすごいなぁー、フレッド君は。そんなフレッド君はさ、『異世界言語理解』っていうスキルについてどう思う? 本来母国語以外の言語を喋れるようになるためにはメチャクチャ頑張んなきゃじゃん。でも私達は当たり前のようにこの世界の言葉が分かるし、日本語を喋る感覚で話したら勝手に翻訳されるでしょ?」
「ボクは良いことだと思うヨ。人と人とが分かりあう為にはやっぱり言葉が通じる事が一番だしね。スマイルさえあれば人は分かりあえる、とかはよく聞くケド、限界はあるしネ」
「でもさ、これがこの世界の言葉じゃなくて日本語だったらどう? せっかく自分が苦労して日本語を覚えたのに、昨日まで何も勉強してこなかった人が急に日本語ペラペラになってたらさ、ムカつかない?」
「ウーン……確かにそういう気分にはなるかもしれないネ。でも、感情論を抜きにすれば、あのスキルが有る事によるデメリットは無いと思うカナ。それに、同じ事は言葉以外にも言えるよネ? 勇者として召喚されたボク達は何もしていないのに、この世界で魔王軍と戦う為に努力してきた人達よりもずっと強い。彼らにとってボク達は努力を踏みにじる理不尽な存在かもしれないけど、結局事実として、この戦いにはなくてはならないものになってしまっている。確かに努力は大切だけど、努力なんて『日本語を覚える』や『強くなる』のような目的を果たすための方法の一つに過ぎないと思うんダ。努力とは別の方法で目的を果たしたとしても、責める事じゃないと思うヨ」
フレッドは自分なりに思っている事を伝えた。星羅はそれになるほどと頷いた上で質問を重ねる。
「でもさでもさ、思うんだ。スキルとかステータスって簡単に手に入れられた物じゃん。ということは、いつかあっさり失う可能性もあるよね。だけど、努力は違う。『努力は裏切らない』っていう言葉もあるけれど、経験の積み重ねは記憶喪失にでもならない限り消えない」
「セラ? さっきから一体何が言いたいのかな? 話が見えないヨ」
星羅の思わせ振りな態度に、フレッドは困惑を隠さない。
「ああ、ゴメンね。前から思ってた事なんだけど、なかなか誰にも言う機会が見付からなくてね。……ただね、フレッド君? 君はステータスとは別の強さを持ってるんじゃないかな?」
「……」
「だんまりなんて珍しいね。君がピストルをこの世界に持ち込んでいる事は調べがついているんだよ。それは君がアメリカ人っていうだけじゃ説明がつかない。日本には銃刀法違反っていう法律があってね、当然外国人にも適用される。ねぇ、フレッド君。君はどうして学校にそんなもの持ってきていたの?」
星羅の口調は穏やかなままである。だが、その表情には批難の色があるようにフレッドは思った。そして確信する。目の前の少女は自分が意図的にこの世界に来たことを知っているということを。
「ボクに、それに答える義務はあるかい?」
「義務は無いよ。でも、もしもあの日教室にいた私達がこの世界に来させられる事を知っていた上で、黙ってるんだったら、私にも考えがあるよって事は伝えたい」
「勝手な思い込みでそんなことを言われても困るナ」
「確かにそれが全部私の思い込みなのかもしれない。本当にそうなら謝るよ。でもね、知ってる? 私達のクラスメイトの中には、毎晩泣いてた子だっていたの。流石に最近はあまり泣いていないけどね。それに嫌々魔王軍に従ってる人だっているし、死んじゃった人もいる。もしもこうなることを分かってた人がいて、それをみんなに教えていたら、こんなことにはならなかったんだよ」
星羅は涙を堪え、真剣な眼差しをフレッドに向ける。フレッドはそこから目を逸らさない。
(そろそろ……潮時か?)
自分の事情を隠す事にフレッドは限界を感じる。似たような境遇である司東煉や御堂小雪とは話を共有した。互いに互いの組織が、コロニー・ワールド計画を利用しようとしている。それを知った彼らは協力者となった。そしていずれはクラスメイト達に自分達の事を話そうと約束した。約束した以上、フレッドの一存で話す訳にはいかない。
(でも、ここでひたすら隠し通すのも下策か。下手に嫌われるようなことをして、余計な事をされたら元も子もない。この事は後で報告すればいい)
そう判断し、フレッドはゆっくりと口を開く。
「……キミの言う通りだヨ。ボクはとある理由で意図的にこの世界に来タ。でも、今は詳しい事を話す訳にはいかナイ。いつかきちんと話すから、その時に色々と謝らせて欲しいんだけど、良いカナ?」
「ふーん、まあいいよ。でも、事情によっては君達の事を絶対に許さないから」
そう言う星羅の眼は鋭く細められていた。