捕食者
変型・巨大化して異形の怪物となったマスターウォートは異臭を放つ。嗅覚が強化されているノアにとってその臭いはもはや暴力だった。しかしノアは逃げない。敵に向かって走り、跳び、飛び、空中から爪の一撃を食らわせる。爪はマスターウォートの肉体に刺さるが、それほど奥まで行かずに止まる。そんな彼の腹部を衝撃が襲う。
「がぁっ……!」
その攻撃の正体は腕だった。今のマスターウォートには様々な死体の腕や脚が付いている。その内の何本かが動き、身体に貼り付いているノアに迎撃したのだ。異形の怪物の無数の手足はうねうねと動き、逆にノアの足首を掴んで捕まえる。
「くっ……」
『私の肉体の一部となった時点で、これらのパーツは私のステータスの恩恵を受ける。そうそう抜けられはしないだろう』
バタバタと脚を動かして逃れようとするノアに、幾本の腕はしつこくまとわりつく。やっとの思いで振りほどいても、別の腕が新たに絡み付くのだから始末に負えない。
「はぁぁぁぁぁぁあ!」
叫びと共に全力で蹴り、なんとか逃れられた。ノアは一旦距離を取る。
「はぁ、はぁ……」
思った以上の体力を使ったノアの呼吸は荒くなる。
『ほう、随分とお疲れのようだな』
「ほざけ。お前などに下らん言葉を掛けられる覚えはない」
『私相手にここまで手こずるようでは、ヴァーグリッド様と戦うなど夢のまた夢だぞ』
余裕が有ることをアピールしているのか、マスターウォートは無駄に手足を動かしながら話す。だが慢心はしていないであろうという事をノアは感じる。
「チッ」
『さて、休憩は終わりだ。死ぬ気で来い』
舌打ちするノアの目の前でマスターウォートは身体を薄く大きく形状を変えていく。そしてドームのようになってノアを覆った。
「ごほっ……臭いを充満させたか」
『この密閉された空間はお前の感覚を狂わせる』
「ふん、鼻など必要ない。お前はそこにいるのだから」
言葉を吐きながらノアは翔び、自慢の爪で天井を突き破らんとする。するとそれを待ち構えていたかのように、人間の胴体が伸びてきて彼を襲う。
「ふん」
ノアはすぐに右へと軌道を修正する。だがその方向からも胴体が伸びてきた。ノアは下へと軌道をずらすが、迎撃はまたもや来る。
(コイツ……まるで俺の動きが見えているかのように……いや、見えているのか)
この場にマスターウォートの顔は無い。しかし、死体の持っていた数千数万の目がこのドーム内の至る所に付いていた。この事からノアは敵に死角は無いと判断する。そして下にも敵の身体が広がっていてマスターウォートは半球から球となり、ノアを完全に包んだ。あらゆる方向からの攻撃が可能だ。
(しかも心なしか、徐々に小さくなっている。俺を完全に動けなくするつもりか……ならば)
ノアはひたすらに球の中を飛び回る。それをうねうね動く胴体が何本も追いかける。複雑な軌道を描くノアを追いかける胴体は絡み合うが、すぐに切り離された。そして別の胴体が伸びてくる。
「チッ」
『くだらん事を思い付くものだな。だが、無意味だ。この中にいる限りお前はただの被食者だ。どうだ、そろそろ息も苦しいだろう?』
マスターウォートの煽りの言葉にノアは歯噛みする。彼の指摘通り、悪臭漂うこの空間の酸素は、空間そのものが縮小しているのもあいまって少なくなってきている。
「ふぅぅぅぅぅぅ……!」
気合いを入れる意味も含め、思いきり息を吐くノア。それに向けて胴体は合理的な動きで襲い掛かる。
(逃げるのはもはや無意味。ならば……)
ノアは翼を動かし続け、腕を組んで空中にたたずむ。胴体は容赦なく彼に巻き付く。
(受けた上で、壊すしかあるまい)
触手のような胴体に巻き付かれるノアは力一杯、組んでいた腕を開く。爪は胴体に食い込み、そして切り刻んだ。解放された彼はその胴体に噛み付く。彼を満足させる味では無かった。
(奴の本体から切り離された事で、ただの死体になったか。逆に言えば、繋がっている限りはアイツの一部。攻撃は効いているはずだ)
そう考え、再び暴れまわるノア。その一方で彼の身体は悲鳴を上げていた。
(クソが……思い通りに動け)
そうは思っても、短時間で受けた傷や酸素濃度の希薄化による影響は地味に大きい。フラフラになる感覚をどうにか抑える。
(ふざけるな……俺はもう二度と負けない。負ける訳にはいかない……!)
彼の脳裏に浮かぶのは、自分を負かせてきた相手達の姿だ。先程の秀馬達や、ヘカティア大陸での真弥達、そして何よりヴァーグリッド。彼の短い獣人生の中で、それらの敗北は彼の誇りに大きな傷を負わせた。
(相手が何者だろうと複数だろうと異形だろうと関係ない。俺は絶対に負けない。俺の目の前の敵は全て、胃袋の中に収めてやる。こんな奴にいいようにやられていては、世界など相手に出来ない)
聖騎の「世界を敵に回す」という言葉はノアの心を大きく震わせた。その話に乗っておきながら、魔王の側近程度の相手に苦戦などしていられない。
「大人しく……俺に喰われてろ、クソ野郎」
かなり狭くなった球体の中で、ノアは何故か急に全快したかのように全力の叫びを上げる。その彼の様子にマスターウォートが戸惑う。
『何だ……何が起きている?』
その声にノアは何も言わない。口ではなく爪、それが彼の返事だ。彼の体に力がみなぎる。その事にノア自身は気付かない。だが、関係ない。力の全てを右手に注ぎ、全身全霊を込めた一撃を、迫る天井に突き付ける。
「俺はあらゆる生物に対する捕食者だ」
『何を言っている……!?』
本能で直感的に危機感を覚えたマスターウォートは数百の胴体を伸ばす。一瞬にしてノアを覆ったそれは瞬時に切り裂かれる。そしてノアは大口を開けてそれらを喰らう。
『ふざけるな……その力は一体何処から……どうして急に……!?』
狼狽しながらもマスターウォートは攻撃の手を止めない。触手のように伸ばすだけではなく、死体を弾丸のように飛ばして攻撃する。それらを食らってもなおノアは倒れない。彼はただ迫りくる攻撃の全てを食物としか見ていない。掴み、千切り、食す。ただそれだけである。
『何故だ……何故だ何故だ何故だ…………! 何故なんだぁぁぁぁぁ!』
突然のノアの覚醒に得体の知れなさを感じたマスターウォートは理性をかなぐり捨てて、ただひたすらに攻撃をする。戦略も何も無いそれはもはや、ノアの脅威では無かった。いつしか弾も尽きかけ、球体を構成する死体は少なくなっていた。ここで退けばまだ救いはあった。だが狂乱状態に陥った彼にそれを判断するだけの理性は無く、ノアも目の前の敵を逃がすような性格ではない。鋼の胃袋という比喩すら生温い強靭なノアの胃袋は、自分の数百倍の質量の物体を収めた。そしてマスターウォート本体の姿も露になる。
「ひぃ……」
そこに戦意は無かった。武器もほぼ全て使い尽くし、自分の一部であった死体が食らったダメージによる疲弊があった彼に、いつもの紳士らしさなど欠片も無かった。
「ぐちゃ……ふん。くだらん男だ……ぺちゃぺちゃ。いっそのこと丸ごと喰って目の前から消したい所だが……ぐちょぐちょ、そういう訳にもいかないのが面倒だ……くちゃ。腕と脚だけ喰うぞ」
やがてそこには達磨のようになった老人だけが残された。