理想郷
神代聖騎はどうしようもないほどに疲れていた。
「はぁ……」
相変わらずラフトティヴ大宮殿に割り当てられた一室にて夜を迎えようとしている聖騎は、薬物の原料となる植物を栽培する事で大儲けしている貴族との腹の探り合いを終えて、ため息をつく。この国において、彼は奴隷商人やら賭博場の管理者やらと、故郷では決して拘らなかったであろう種類の人間と出会い、話をした。創作物に出てくるような無能な貴族なのならまだ気が楽であったのだが、この大陸最大と呼ばれるこの国でもかなりの地位にいる貴族だけあって頭の回転が速く、相手の手のひらに乗せられている感覚すら聖騎は覚えた。
(ああ、魔術を思いっきり使って、この帝都を吹き飛ばしたい)
物騒な事を考える聖騎。この世界では凄腕の戦士が集まるこの帝都ラフトティヴだが、聖騎が全力を出せば一瞬で消し炭にする事が出来る。だが、それを実行する事によるメリットはほぼ存在せず、デメリットだらけである。
「お疲れのようですね、パラディン様」
ぐったりとソファに腰掛ける聖騎に気遣いの言葉をかけるのは、表向きは彼の世話役として、そして暗黙の了解でるが実際は監視役としてここにいる少女、ミオンである。およそ十歳でありながら利発な少女に、聖騎は思考を断ち切って微笑みかける。
「そうですね。私がこの国に訪れて五十日ほど経ちましたが、未だ慣れないようです」
「お身体をほぐしましょうか」
「いえ、お気遣いは感謝しますが心配はご無用です」
信用していない相手に自分の体を任せるなど、聖騎は決して考えられない。いかにそれが美少女であろうとだ。そもそも彼はミオンを美少女となど思っていない。ただ自分の傍に存在するだけで自分に不快感を与える敵という認識である。殺そうと思った回数も百以降は数えていない。そんな聖騎の返事に、ミオンは残念そうに「そうですか……」と答えるが、それによって彼の感情が揺らぐことは無い。
「では、私はそろそろ床に就きます。ミオン様、本日もご苦労様でした」
「ありがとうございます。では、良い眠りを」
「おやすみなさい」
「どうせ永遠に眠れとか思っているのだろう」と思いながら、聖騎は挨拶をする。ミオンが退室したのを確認し、しかし部屋の外には別の監視役の存在を認知して気が滅入りつつも目を閉じる。
(僕は敵と認識した相手は排除するのではなく、利用するという方向にシフトして生きてきた。結果としていい結果が得られるのなら少しくらい疲れたって我慢は出来ると思っていた。でも、それにも限度があると最近思えてきた)
「はぁ……」
何度目か分からない溜め息。無駄に頭を使う日々を繰り返す中で、彼が楽にいられるのは唯一シュレイナーとの訓練の時間だけだった。元の世界にいた頃は運動が何よりも嫌いで、体育の授業も頑張っている風を装いつつ器用に怠けていた。部活動にも所属しておらず、学校と自宅の間を歩く以外の運動はほぼしていない。
(そう言えば、最近全然勉強出来ていないな)
読書以外に趣味らしい趣味が無かった彼は、取り敢えず勉強に精を出していた。月並みな表現であるが、努力の結果が『点数』として分かりやすく形となるというのは彼にとって気持ちの良いものであり、高得点を取れば「自分は他の人よりも上の存在である」という彼の中での事実を再確認出来るということはモチベーションとなっていた。
この世界に来てからしばらくも、たまたま持ってきていた教科書を読んでは、いつ元の世界に戻っても良いようにと努力を惜しまなかった。だが、シュヌティア大陸でサリエル・レシルーニアと出会い、この世界での目的がハッキリしてからは勉強などしている暇も無く、忙しい日々を送っている。その後メルン・ラクノンの臣下になってからの忙しさは更にきつくなった。そして今は、言わずもがなである。
(もしも明日元の世界に戻ったら、『異世界からの帰還者』としてマスコミのおもちゃになるのかな? この世界で手に入れたスキルはどうなるのか。『普通』の中学生……いや、もう高校生かな? とにかく僕は『普通』の存在として生きていけるのかな?)
自ら呈した疑問に、自ら首を横に振る。
(いや、無理だ。この世界の観察者がいる以上、僕は彼らの観察対象……モルモットとして生きていくことになるかもしれない。『特別』な、『普通』とは違う存在として)
神代聖騎は幼少期から、自分が『普通』とは違う価値観を持つ存在である事を自覚していた。蚊が煩わしければ潰すように、邪魔な人間は殺しても良いのではないか、何故駄目なのだろうか。それが何よりの疑問だった。そして答えが「法律でそう決まっているから」だと知った時に、何故法律によって守られる生物と守られない生物がいるのかが新たな疑問となった。
その疑問を解決する過程で、彼は江戸幕府の五代将軍・徳川綱吉という人物の存在を知る。犬をはじめとした哺乳類の動物のみならず、魚や貝、虫などの命を尊重するべきだ、という内容の生類憐みの令という法令を出したが、これは人間が暮らす上で不便であるという理由で大バッシングを受け、綱吉の死後には撤回された。つまりは『多数派の人間にとって殺してはいけないと判断された動物』のみが人間の法律によって守られている、という事を聖騎は学んだ。この世界は多数派の人間の価値観が絶対であり、それから外れた者は制裁を受ける。体に障害を持って(いると判断されて)生まれた者には厳しい世間の目が突き刺さり、時には特定の国や地域に生まれたというだけで見下される対象になることが有る。元の世界では無かったが、この世界に来てからはそのような境遇の人物を見る機会も多々あった。
ともあれ聖騎は、かつて近衛茉莉に教えられた『頭の良い生き方』を実践すべく、なるべく『自分』を隠して『多数派』になるように努めて生きてきた。それも上手くいかなかったようで、小学生の頃はいじめの対象になることもあったが、『人を殺してはいけない』という『多数派の価値観』に則り、彼なりの報復を行い、気分を晴らした。その後『とある事件』をきっかけに、茉莉からはある程度のちょっかいはスルーするよう厳しく言われたのだが、それはまた別のお話。
(自分を押さえつけて生きるのは、本当に疲れる。だからこそ、僕がありのままで生きられるように、僕が『普通』の存在になれるように……僕は僕のやるべき事をやる)
目を閉じる聖騎の視界は闇に包まれている。その闇の中で、聖騎は例外的に法律によって許される人殺しを思い出す。
(死刑……。『多数派』の人間によって死ぬべきと判断された人間に下される裁き……。僕のやろうとしている事が発覚した時、この世界の人達は恐らく僕に死を求めるだろう。だから僕は、その前に……僕にとっての、僕の為だけの理想郷を創る)
聖騎は己の野望を改めて言葉にしてみて、その荒唐無稽さに乾いた笑いを漏らす。
「あはは……」
それを聞いた見張り役がどのように思うかなど考えていなかった。ただ、自らの笑いにつられたのか、笑い声は大きくなる。
「あはははは……あはははははははは! あははははははははははははは…………!」
透き通るような声による邪悪な高笑いがこの部屋を支配した。