復活
部屋いっぱいに広がるプールがバーバリー・シーボルディ。その事実を二葉が受け止められないまま、ヴァーグリッドは言う。
「そなたの気持ちはよく分かる。余も初めてこれを見た時は驚愕以外の感情を抱けなかった。何せある朝目覚めれば城内が水浸しであったのだからな」
「その、何故これが……こちらがバーバリーさんだと分かったのです?」
「余の配下にアルストロエメリアという者がいる。その者は『生物の状態、詳細を知る』という能力を持っていてな。その能力をもってしてこれをバーバリーだと判断した」
サンパギータに睨まれて言葉を一部訂正しつつの二葉の質問に、ヴァーグリッドは答える。普通に部下の能力を明かしてしまって良いのかと思ったが、手の内を知られた程度の事で負けることは無いと判断してるのだろうということに思い至った彼女は、ヴァーグリッドに目を向ける。
(部下からの忠誠は天井知らず、そして同時にこの人も部下を信頼しているというわけね。これが、あの人の理想の男性像を忠実に再現したという人工知能を擬人化したもの……だったかしら。そう言えばこの人達は自分が造られた存在だという事を知っているのかしら)
「どうかしたか?」
二葉の視線に気付いたヴァーグリッドが聞く。二葉は首を横に振る。
「いえ……何も」
「そうか」
ヴァーグリッドはそれだけ答える。二葉の内心を知っているサンパギータも特に反応を示さない。ヴァーグリッドは二葉が持ってきた小瓶を改めて眺める。
「早速、試すとしようか。ここに垂らせば良いのだろうか」
その疑問に二葉は困る。バーバリーが人型であると思い込んでいた彼女は、薬は飲ませるものだと思っていた。だが、相手が液体であるのならヴァーグリッドの言った通り、垂らす以外に方法は無いと思う。
「詳しい指示は受けていませんが、おそらくは」
「そうか」
「もしもこの薬が無意味、あるいは有害なものだとしたら、いかがなされますか?」
サンパギータの質問に、ヴァーグリッドは顎に右手を当ててしばし思考した後、仮面の中の口を開く。
「そうだな……余を欺く者には罰を与えるのも当然であるな。それが故意でも過失でも。そなたの薬でバーバリーが命を落とすのであれば、余は余の感情を制御する事など不可能であろう。その際に余が覚えるであろう絶望と同じだけの、死すら生温いと思えるほどの罰を、そなたに与える。覚悟せよ」
仮面を通していても、ヴァーグリッドが自分を射竦めているのを二葉は分かる。背筋が凍るのを感じる。本当に薬の服用を実行させてしまっていいのかと不安感が内心をよぎり、体が震える。
(大丈夫……よね? 私別に神代さんに嫌われてないし、ハメられる理由は無いわよね? それ以前に興味を持たれてないというか、そもそもバーバリーさんをあの人が殺す理由が見つからない。でも、これを私に渡させた理由は、あの世界の薬品を電子化して、そのままこの世界の中でも使えるのかの実験がしたいってところのはず。実験には失敗が付き物。あの人に悪意がなくとも失敗は有り得る)
戦慄に震える自分がサンパギータ達に表情も無く見られている事に二葉は気づかない。ヴァーグリッドが放つ威圧感は、それほどまでに強大だった。
「どうした? そなたがサンパギータを欺いていたと申すのなら大したものだが」
「私にはそのようなつもりは……。ただ、ソレが本当にバーバリーさんを治せるのか……少々、不安が有りまして。サンパギータさんから聞いていると思いますが、その薬はバーバリーさん以外の方にとっては毒薬で、試す事が出来ないとの話ですので」
「ふむ。案外小心であるのだな。だが、安心せよ。バーバリーが無事であれば、何も心配する事はないのだからな。それに、保険は掛けておく」
「保険……ですか?」
二葉が訝しむように呟くと、階段からは新たな人影が現れた。ふんわりとウェーブがかった茶髪と、おっとりとした優しげで包容力が有りそうな女だと二葉は思った。
「ただいま参上しましたぁ、魔王様。バリちゃんを治せる薬を人族の子が持ってきてくれたとお聞きしましたがぁ」
「ああ、その通りだ。だが、それが本当に効くものなのかという確証が無い。そこで、そなたの時間遡行魔法により、薬が無効だった場合には戻して貰いたい」
「了解しましたぁ。……あぁ、わたくしはパッシフローラ。四乱狂華の一人よぉ」
「どうも、私は振旗二葉。あなた達に協力したいと考えている者です」
パッシフローラの挨拶に二葉は返しつつ疑問を覚える。
(時間遡行……時間が戻せるという事は、ある日突然この姿になったバーバリーさんも戻せないのかしら……? いや、恐らくは戻しても戻してもまた水に戻っちゃうってところかしらね)
彼女の憶測は正解である。パッシフローラの能力は、死んだ生物以外の物体の状態を巻き戻すというものであるが、どれだけ戻してもバーバリーが水のような姿になるという運命は変えられず、イタチごっことなった。だが、万が一薬が毒物でその影響により死亡する前に、薬を服用する前の状態に戻せばバーバリーを救う事ができる。そして、バーバリーに異変が起きているのかを見極める為には、彼女のステータスを把握できる者が必要である。
「遅れ馳せながら参上致しました」
ステータスを把握できる者――緑色の長いポニーテールの女である四乱狂華・アルストロエメリアもそこに現れ、ヴァーグリッドに挨拶をする。彼女は二葉にはまったく見向きもせず、その双眸は敬愛する主だけを捉えている。
「アルストロエメリア、急に呼び出して悪かったな。そなたの力が必要だ」
「はっ、魔王様のご命令とあらば、命を尽くしてでも全う致します」
「頼りにしているぞ。……役者は揃った。始めるぞ」
跪くアルストロエメリアを一瞥し、ヴァーグリッドは小瓶の蓋を開ける。そして、青色の液体を慎重に、一滴垂らす。しかし、バーバリーの体に変化が起きる様子は無い。
「アルストロエメリア」
「はっ、今の所変化は見られません」
「ふむ、そうか」
名を呼んだだけで状態の観察結果を報告したアルストロエメリアに、軽く頷いて更に薬を注ぐ。慎重にゆっくりと、結果的に薬は全て流し込まれた。しかし、状況が変化する様子は見られない。その場に訪れたしばしの沈黙を、アルストロエメリアが破る。
「貴様、まさか本当に魔王様を欺いた訳ではないだろうな」
「というかぁ、量が少なかったんじゃないかっていう疑いも持てるわねぇ。ねぇ、あなたが持ってきたお薬はこれで全部なのかしらぁ?」
アルストロエメリアに被せるようにパッシフローラが質問をする。口調こそやわらかいものの、雰囲気はアルストロエメリアに負けず劣らず厳しいものが有った。四乱狂華二人に問い詰められ、薬はこれだけだと言おうとした瞬間、異変が起きる。
「何だ?」
「これは……バーバリーの質量が急激に上昇……うっ」
報告の途中でアルストロエメリアが呻き声を出す。否、彼女のみならずパッシフローラやサンパギータ、そして二葉も苦悶の表情を浮かべる。彼女達は自分の体に異変が起きているのを感じた。そして、体が干上がっていっている事に気付く。
「……」
ヴァーグリッドは無言で、ここにいる全員を覆うドーム状のバリアを展開する。
「パッシフローラ、余以外の者の時を戻せ」
「……ぁぃ」
か細い声で答えたパッシフローラはアルストロエメリア、サンパギータ四人、そしてわずかな逡巡の後に二葉を体の水分が減る前の状態に戻し、そして最後に自身にも時間遡行を適用させた。
「うっ……、これは、魔王様の完全結界?」
「突然そなたらの体から水分が奪われたとの事なのでな。パッシフローラに戻して貰った」
「水分……」
二葉がバリアから透けて見える外の様子を見ると、先程まであったプールに溜まっていた水が凝縮されて、人型を形作っていた。水らしく無色透明だったそれは着色され、肌が水色、髪が濃い青色の女の姿になった。その顔は二葉も顔見知りの神代怜悧のものに類似していた。そしてそれはこの場の魔族達にとっても見覚えのある顔だった。
「バーバリー……なのか?」
ヴァーグリッドは驚きと戸惑いの混じった声を漏らす。パッシフローラやアルストロエメリアも同様に動揺していた。彼女達の視線の先で床に倒れている一糸纏わぬ女こそ、まさにバーバリー・シーボルディそのものだったのだ。ヴァーグリッドがバリアを解除しても、水分を吸い取られる感覚は無かった。ヴァーグリッド達はバーバリーのもとへと近付いていく。
「バーバリー」
ヴァーグリッドは声をかけるも、バーバリーは反応を示さない。
「バーバリーが生きている事は間違いありません、ヴァーグリッド様」
「そうか」
脈を取るより早いアルストロエメリアの生死確認に、ヴァーグリッドは安堵の溜め息を漏らす。そして、生きた心地の無かった二葉に顔を向ける。
「そなたの薬は間違いなく本物だったようだ。心より感謝する」
ヴァーグリッドは深々と頭を下げる。それにアルストロエメリアが慌てる。
「魔王様……魔王様ともあられるお方が頭を下げるなど……」
「ほう、そなたは余を恩人に感謝も出来ない狭量な小物と申すか」
「い、いえ……決してそのようなことは……!」
弁明するアルストロエメリアを尻目に、ヴァーグリッドは頭を下げ続ける。それにサンパギータ達も続き、パッシフローラも同じ姿勢をとる。そしてアルストロエメリアも、古くからの友人の恩人である二葉に感謝の意を示した。それに二葉はたじろぐ
「頭をお上げください」
「余の感謝はこれだけでは伝えきれぬ。そうだな、そなたには望むものを何でも与えよう」
頭を上げたヴァーグリッドは、二葉を見詰めてそう言う。二葉は、この世界に来たときから求めていたそれを口にする。
「ならば私に、力を下さい」
その表情は、狂気に歪んでいた。