第一章プロローグ・いつもと少しだけ違う日常
神代聖騎は友達がいない。
中学三年生である彼は朝学校に行けばすぐに自分の席につき、授業は普通に受け、体育のサッカーの時間は適当にボールを追いかけるふりをしつつも絶対にパスが来ない位置をキープしつづけ、昼食は黙々と食べ、授業が終わればすぐに帰宅する。そんな生活を送っていた。
少女のようにも見える中性的な表情と、前髪を揃えた黒いおかっぱ頭が特徴的な彼は苛められている訳ではない。誰からも興味を持たれないし、誰にも興味を持っていない。故に誰かと話すことは殆ど無い、というのが聖騎の認識である。しかし、いつものように教室に入った彼を出迎えたのは、いつもと違う光景だった。
『神代聖騎』
教室の黒板には自分の名前が大々的に書かれていた。黒板いっぱいに書かれた白い文字を、赤と青と黄色の絵が彩る。それを見る聖騎を彼のクラスメート達はニヤニヤと笑いながら眺めていた。
(へぇ、こういうの久しぶりだなぁ)
聖騎の感想はそれだけだった。席に着いた彼は鞄から英語の教科書を取りだし、読み始める。黒板の文字は彼の興味の外だった、クラスメート達はリアクションをウズウズと期待している。しかし聖騎は動かない。痺れを切らした二人の男子生徒は舌打ちをし、いそいそと黒板の文字を消す。彼らも教師に見つかって怒られるのは嫌なのだ。そんな彼らの姿は聖騎の視界に入らない。そこにあるのは教科書の英文だけだ。
「やっぱ神代はつまんねーわ」
「だから言ったでしょ。アイツには心なんて無いんだから無駄だって」
「その点古木は良いよな。何やっても面白いリアクションとってくれるし」
クラスメートの話し声は聖騎を煩わせる。内容ではなく、声その物が彼にとって鬱陶しい。すると、彼らの中の一人は立ち上がり、自分の席で読書をしている男子生徒の頭を叩く。
「ばーか」
「いっ……」
叩かれた男子生徒は自分の頭をさする。すると、ボロボロとフケが落ちる。それを見た叩いた生徒が自分の手を見ると、同じものが付いていた。
「うわ、きたね!」
「どっちがバカよ」
「うるせぇ!」
悲鳴を上げた男子生徒は教室の隅にある水道で手を洗う。叩かれた方の男子生徒――古木卓也――は読書を再開する。背が低い上に太っていて、眼鏡を曇らせるその少年は、やたら露出が多い美少女が表紙に描かれているライトノベルをカバーもかけずに読んでいる。
「うわっ、キモッ!」
「いつものことだろ?」
「それでもキモいものはキモいのよ」
「まあ、キモいな」
「しかもクサい」
卓也は自分に対する罵詈雑言を無視しようと努めていた。しかし、我慢の限界だった。
「うるさぁぁぁぁい!」
叫びながら立ち上がる卓也。その目には涙があった。そんな彼をクラスメート達は嘲笑う。
(あー、うっとうしいなぁ)
聖騎は不快感を覚える。わめく卓也も、笑うその他の生徒も、彼にとっては平等に邪魔な存在だった。ちなみに卓也は聖騎の右斜め前の席にいる。彼は他人に興味を持たない聖騎が唯一嫌悪感を抱く人物である。
「うう……」
卓也の体は倒れる。クラスメートの一人が蹴り飛ばしたからだ。呻く卓也を無視して、彼のクラスメート達は楽しげに彼を踏みまくる。そして卓也は、助けを求める様な視線を聖騎に向けるのだった。
神代聖騎が古木卓也を嫌う理由はここにある。友達と呼べる人間が殆どいない卓也は友達のいない聖騎に親近感を覚えている。そして、まるで友達であるかの様な態度を聖騎に取るのだ。
不意に聖騎は手を叩く。鳴り響いた音を聞いた生徒達は聖騎に視線を集める。
「何だ? お友達を苛めるなってか?」
クラスメートの言葉を受けて聖騎は内心で舌打ちをする。彼のクラスメート達は友達のいない聖騎と卓也を同一視しているのだ。それが聖騎にとって何よりの屈辱だった。だがその内心を押し殺し、聖騎はシニカルな笑みを浮かべる。
「僕にはそこの豚がどうなろうと関係無いよ。僕はただ、飛んでいた虫を潰しただけだから」
聖騎は掌の中で潰れている蚊をつまみ、転がっている卓也の頭に乗せる。教室中からはどっと笑い声が上がる。
「あっはっはっはっは! 古木、お前神代に虫ケラ以下だと思われてるぜ」
「虫……フフッ、虫……アハハハハハ!」
「ねぇねぇ、今どんな気持ち? 仲間だと思ってた神代にバカにされて今どんな気持ち? ねぇ、どんな気持ち?」
「ハハハハハッ、やっぱ俺神代の事好きかも」
「お前ホモかよ」
「ちげーよ」
卓也への直接的な暴力は止まった。笑いが止まらないためそれどころでは無いのだ。その代わり、言葉の暴力が卓也を襲う。しかしそれらもピシャリと止まる。
「あなた達、また卓也を苛めたのね!」
教室にいる聖騎以外の全員の視線の先には二人の人物がいた。
一人は藤川秀馬。このクラスの委員長である男子生徒だ。成績優秀で端整な顔立ちの上に運動神経も良く、数ヶ月前までバスケットボール部では部長を務めていた。
もう一人は永井真弥 。このクラスの副委員長で、誰にでも平等に接する優等生である。その可憐な容姿を好む男子生徒も多い。古木卓也の幼馴染みでもある。先程の発言は彼女の物だ。彼女に指摘され、クラスメート達はたじろぐ。
「いや、あたし達は何も」
「ああ、何もしてない」
「神代が古木のこと虫ケラ以下だって言ってたぜ」
「あ、それウチも聞いた」
「しかも、古木の頭に蚊を乗せたんだぜ。死んでるやつ」
「マジかよ神代最低だな」
クラスメート達の言葉を真弥は信用しない。彼らの笑い声はしっかりと聞いていた。彼女は倒れている卓也の元へ駆け寄る。卓也の顔は惨めなものだった。蚊の死骸を除けて、真弥は声をかける。
「卓也、大丈夫!?」
「大丈夫だよ、真弥」
「そんな訳無いでしょ!」
強がる卓也を叱る真弥。そんなやり取りを聞きながら未だ英語の教科書を読んでいた聖騎の元に近付いた秀馬が質問する。
「なあ、神代君。彼らの言ったことは本当かい? 君が……その、古木君を虫以下とか言ったというのは」
秀馬は戸惑うような表情だ。人に興味を持つ様子がない聖騎がその様なことをする訳がないと考えていたからだ。だが聖騎は、彼の予想を裏切る。
「僕は『虫以下』なんて一言も言っていないよ。虫を乗せたのは本当だけれどね」
淡々と告げる聖騎。教室中からは歓声が上がる。
「黙って!」
真弥の言葉によって歓声は止む。そして、彼女の燃えるような眼光が聖騎に注がれる。
「神代君、何でそんな事をしたの?」
「存在が気に食わなかった、という理由じゃダメかな?」
「あなたって人は! 卓也がどれだけ優しいのかも知らないのに!」
真弥は吠える。しかし聖騎には馬耳東風だ。口喧嘩をするつもりの無い彼は英語の勉強を再開する。
「分からないの? いつも一人でいるあなたを卓也は可哀想だと思って……」
怒りに任せて話す真弥。その言葉に、聖騎は目の色を変える。
「可哀想……?」
そこには得体の知れない気迫があった。思わず真弥はたじろぐ。
「君のような存在が僕を憐れむと言うのかな? …………身の程をわきまえなよ」
卓也に冷たい視線を浴びせる聖騎。その雰囲気に卓也は怯む。それを無視して、聖騎は教科書を鞄にしまい、立ち上がる。
「ど、どこに行くつもり?」
真弥は怯えを誤魔化しながら問う。聖騎は答えずに教室を出ようとする。その右肩に秀馬が手を置く。
「悪いけど、そういう訳にはいかないんだよ。先生に言われててね」
秀馬の言葉の意味が分からず、聖騎は質問する。
「先生に何を言われたと言うのかな? そもそも、この時間になって先生が来ていないのはおかしいと思うけれど」
秀馬は困惑したような表情を見せる。
「知らないよ。先生には今日、教室にクラスの全員が集まるように言われているんだ。誰一人欠けずにね」
「それは無理じゃないかな?」
聖騎は指摘する。彼らのクラスには不登校の生徒がいる。以前クラスメート達の度重なる苛めによって引きこもるようになった少女、舞島水姫である。聖騎も彼女の名前は覚えていないが、毎日学校に行っていれば『クラスに不登校の生徒がいる』という情報は嫌でも耳に入る。
「昨日、先生達が数人がかりで説得しに行ったみたいなんだよ。明日だけは何がなんでも来るようにってね」
「何がなんでも……。今日は何が有ると言うのかな?」
「さあ、ぼくも知らない」
秀馬は不思議そうに呟く。しかし聖騎はそれを無視して彼の手を振りほどき、教室の扉をスライドさせる。
「あっ……」
そこには件の少女、舞島水姫がいた。手入れのされていない長い黒髪に真っ白な肌、不健康そうな痩せ細った体を持つ彼女は何処か妖怪めいた雰囲気を身に纏わせていた。そんな彼女は、突然扉が開いたことに驚いていた。教室に入るか入らないか――そんな葛藤をしていた彼女は思わず倒れ込むように教室に足を踏み入れる。
その瞬間、教室の床に記号が浮き上がる。大きな円の中に六芒星が描かれ、円の周りには聖騎にとって見たことの無い文字が並んでいた。
(これは……魔法陣かな? 随分と手の込んだ悪戯だな。これを見せたくて、不登校の子を連れてこさせた? そんな馬鹿な)
その直後、彼らの目の前には見知らぬ世界が広がっていた。
◇
とある場所のとある部屋。男と女、2つの声がここには響く。
「――――どうやら、うまくいったようだ」
「そのようですね。ここまで私達は多くの試練を乗り越えてきました。ですが、本題はここからです」
男の言葉に女が感慨深そうに答える。すると男は問う。
「しかし、本当に良かったのかね? 『彼』を向こうに行かせてしまって」
「あの子の運命は最初から決められていました。むしろ、たまたま『彼』と同じクラスだったというだけで巻き込まれた子供たちの事を考えると胸が痛みます」
「フフッ、よく言う。そんなこと微塵も思っていない癖にな」
「そう仰らないでください。……とにかく、今から実験開始です」
「そうだな。私達が求めるものがこの世界にはある。それを確かめようじゃないか」
2人は楽しげに笑い、揃ってある一点を見つめるのだった。