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夏の日  作者: 柳岸カモ
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第二話


 夏休みも後半。山積みの宿題など、気にもかけない素振りで淡々と生活している。


今日は、父の三回忌である。

朝早くから慣れない喪服に袖を通した。太った所為だろうか、ウエストがきついようだ。

気持ちを落ち着かせようと少し庭を歩いた。トイレに何度も行って、でも同じくらいに水も飲んだ。無性に喉が渇く。

やがて客が来た。二階の窓から駐車場を覗く。まるで吸い寄せられるように親戚の車が集まってくる。中からは一様に黒い服の大人達が、さも物憂げに出てくる。

それを見て、ふん、と鼻を鳴らした。〈…どうせ心の内じゃあ笑っているくせに〉

そんな浮ついた気持ちを掻き消すべく、地上めがけて唾をはいた。乾いたアスファルトに、テンテンと黒い斑点ができた。一瞬、しまったと思ったが、すぐ乾くかと思い直した。今日は風がある。


気持ちは昂ぶるばかりだった。なんのために唾を吐いたんだかわからない。弔問客を追い返すためだったか? なんて無駄なことだ。無意味なことだ。できないことだ。笑えることだ。

右足のつま先でもう一方の足のつま先を撫でる。ストッキングがさらさらする。涼しい。午前中が涼しいのは午後から暑くなるからだろうか。暑いのは嫌だ。

…くそ。だめだ。

背を丸めてそそくさと奥の間へ入った。人目を避けるにはここが一番だ。奥の間に入って正座する。することも別段無くぼんやりとしていると、ふと視界に黒いハンドバッグが目に入った。母のか、姉のか…もしかして私のだろうか、祖母が用意してくれたようである。腰を浮かせて手を伸ばせば、届く位置にあった。手元へ寄せる。膝の上に乗せる。

軽い。

ポチッとボタンを外して中を見る。白い、薄手のハンカチが入っていた。取り出してみる。衝動的に口元に当ててみる。箪笥のにおいがした。

鞄の中には他に、これまた祖母が入れたらしい硬貨が一枚入っていた。奥でキラリと光っている。銀色だ。百円だろうか。焼香の時に回ってきた盆に乗せるやつだろう。しばらくその光をみていたが、やがて無意識に小さく舌打ちをしていた。


客はみな、居間に集まって談話している。

自分は一人何をやっているのかと、やりきれなくなる。


膝に乗せた鞄を、勢いをつけてさかさまにした。開いた鞄の口から、銀色の硬貨が大きな弧を描いて畳を転がり、のろのろ戻ってきて膝の手前でパタリと倒れた。静かな座敷でただ独り、硬貨を見つめ息を潜めた。

指先で触れて、向こうへ押し遣ってみる。畳のへりに届いたので、寝た恰好の硬貨を立たせ、隙間に押しこむようにしてみるが、古い畳のくせして隙間がほとんどない。簡単には入りそうもない。         


仕方なしに、硬貨を畳のへりに載せたままにして居間へ出た。


出ると、大勢の視線を一ぺんに感じた。かっちりスーツを着込んだ男達がちらっとこちらを見て、ふっと視線をそらす。私も同じようにした。しかし、挨拶とは名ばかりの声かけをせねばならない。それが私の唯一の仕事だと祖母から言われていた。


小声で「こんにちは」と呟く。

「どうも…大変だったね。もう三年かあ。」

同情心が作る、不恰好な言葉を聞いた。

「はあ」

「早いもんだ。いろいろ大変だろうけど、頑張ってね」

頷くように頭を垂れた。じゅうぶんに持ち上げずに、そのまま歩いていく。

頑張れって、そんなこと、私が一番分かっている。


もやもやしていた気持ちの正体が、判然と姿を見せはじめた。どうしても消せないのは、きっとあたしの脳の所為だ。そして人間の所為だ。人間になんて生まれてくるんじゃなかったな。


ああ、疲れる。馬鹿馬鹿しい。退屈だ。恥ずかしい。


それでも、何度も何度も頭を下げねばならない。その度に苛立ちがつのった。男達の広い背を見る。自分以外の不幸なぞ、屁でもないと思っているに違いない、と思う。しかし、彼らに私の気持ちを理解せよというのも無理な話だ、とも思う。

彼らには彼らの、私には量れない荷物がそれぞれあって、それを守るための運動としてここにやってくるのだから、仕方ないのである。でも、それが憎いのだから、私だって仕方がない、とも思う。

でも・・・でもなぜ。なぜ酒など手に提げてここに来られるのだ。


唇を噛んだ。でも、すぐにまた挨拶をせねばならなかった。唇が潤う暇もないくらい、ただ挨拶を繰り返した。そして何度も何度も、悲しいと思った。悲しい連鎖で、ぼんやりと父の葬式のことを思い出し始めていた。






納棺の時。父の記憶は必ずここから始まる。


長らく顔に乗せられていた布を取ると、腫れた父の顔があった。死化粧を施される。髭を落とし、紅を差し、まるで生きているような顔になる。


父が電話口に立って、誰かと電話している光景がよぎった。どうしてこんな時に思い出すのだろう? 

父の姿や声を思い出すけれど、なんだかはっきりしない。もやもやした姿。色がわからない。


やがて棺桶が運ばれてきた。中には布が敷いてある。坊さんと祖父、それから親戚の男達が、せいの、の掛け声で父を持ち上げ、中へ入れる。

持ち上げられる父。抱えられる父。なんだかひどく、薄っぺらに見える。

「花を、入れてあげて下さい。全部」

盆に乗せられた花を指して坊さんが言った。家族がそれをすこしずつ、躊躇いがちに棺桶に入れていく。

私も菊を取って、そっと投げ入れた。手からすべるように落ちていく。花は、右頬にかすかに触れる位置に入った。青白い頬のその人は、ただ長い睫で影を作って、花に囲まれ眠っている。いつのまにかその手に、胡桃でできた数珠がかけられている。そっと触れてゆっくりと指を離した。冷気に満ちた顔と手、そして体。硬くなっていた。弾力がない。

真夏だというのに。

腐敗を防ぐためにと抱えさせられている保冷剤が、ここを必要以上に涼しくさせている。


どうして、涙がとまらないのだろう――。

音もなく涙が流れて服に落ちた。その度また涙が流れた。客のほうからも、はじめのうちは嗚咽が聞こえていた。同情でもない、悲しみでもない、その嗚咽は、一体誰に向けられたものだったのか。私は疑問に顔を歪め、泣いた。



夏の暑い日に、父は死んだ。それは、昨日だったか、一昨日だったか、それとももっと前のことだったか?

本当は憶えている、はっきりと。でも、思い出したくない気持ちがわからなくさせる。父が最後に言った言葉が、耳の奥で何度も何度も繰り返し、私を呼んでいる。それが、昨日のようで、でももっともっと前のようで、でもほんの一時間前くらいにも思えて、私を混乱させるのだ。


「ちょっと、行ってくるから。」

父はいつものように出かけて、生きて帰ってはこなかった。


病院に運ばれる途中で父は死んだ。私は、病院のベッドで横たわった父の傍で泣いた。死亡が確認されるとすぐに、そのまま黒い車に乗せられた。私は、前の座席に座った。父は車の後ろに、荷物のように載せられていたのだろうか。わからない。何が起きているかわからないまま家についた。そこらへんは記憶が曖昧だ。断片的で、映像がところどころで切れている。


やがて親戚がきた。近所の人がきた。葬儀業者がきた。坊さんがきた。憶えているのは人の流れだけだ。お金のことや、葬儀の支度のこと、それらを仕切るのに集まった男達の背を見た。祖母が客人に茶を出しているのを眺めながら、自分の無力さを感じた。自分はただ、何も知らずにいたかった。でも目の前に繰り広げられているのが現実なのだと、無理やりにでも理解した。理解すると今度はどっと疲れた。まるで何もかも嘘に思えた。時間を巻き戻せないのが、歯がゆかった。

数日間、そんな気持ちでいた。


やがて父の遺影が届いた。母が父の枕元で泣き崩れるのを、呆然とみていた。

通夜があって、葬式になって、そのころはただただ泣いて過ごしていた。やがて火葬場に向かう車に乗っていた。道の途中、自分の姓が書かれた札を三枚見た。見るたび嘘に思えて、また疲れた。


出棺の時が近付いていた。

参列者が、閉じられた蓋の上に一輪ずつ花を添えていく。

人が動く。ぼんやりとその流れを追った。親戚のおじさん、おばさん。老人。近所の若い夫婦。名も知らぬ子供。子供の手にある大きな花が揺れている。神経がざらざらと撫でられ、その後捻り潰されるような気がした。


「出棺します。」

しんとした雰囲気の中、私は最後にもう一度父の顔を見たいと思った。 

棺桶にすがりついた私は、必死に蓋を開けようとしている。

中に父がいる…

まさに今、灼熱に焼かれ消えようとする体を、私はもう一度だけ見たいと願っていた。

「もういいから。見送ってあげよ」

母の言葉が、私から力を奪った。

私はただ、見送るのを拒むために緊張していたかった。でも今それさえ許されず、私は崩れるように蹲った。このまま泥にでもなれればいいのに。そして消えてしまえたらいいのに。そう思った。

 頭の上で、棺が動く音がする。勢いをつけて、暗い通路の中に入っていく。見送ることができずに、私は唇をかんだ。千切れるほどかんだ。口の中に、錆びた鉄の味がぱっと広がった。


バタンと音がすると同時に、棺に火が着けられた。






うつむいたまま、また奥の間に戻った。人に会うのがひどく怖い。天井を睨んで、泣かないようにと目を見開いた。 


がらっと襖が開いて、姉が顔を出した。

「あぁ、ここにいたの」

 呆れたという顔で私を見下ろし、姉が溜息をつく。そして手をひっぱり、ゆっくりと立たせる。小さく、行くよ、お参り始まるから、と言い、なだめるような声でまた、小さく何かをつぶやいた。

私は、うん、と答えて奥の間をあとにした。


ぼんやりとしている間に、三回忌は滞りなく終わった。私は目の前に並んだご馳走を残らずたいらげた。運ばれるごとに少しばかり喜んでみせ、パクパクと口に運んでほころんだ。男達の謡の中でも笑顔でいられたし、大人にも愛想を振りまいていられた。

そうしてさえいれば、自分が現実の中で、ちゃんと根をはって生きているように思えたし、もう駄目だという気持ちは、畳のへりに隠せたと思っていた。


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