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最終的にプロットの話になりました


 前回の流れや顛末は滅茶苦茶です。ですが、『あえて、そうした』と断言しましょう。実のところは別に『あえて、そうした』わけではないのですが。




 さて、前回は先祖代々伝わる世界に知られていない田舎の古文書に書かれていた『桃太郎』を作品化してたら、途中からおかしくなったというお話でした。


 それは所謂、『作品』からの『派生作品』の創作。別バージョンの制作です。

 担当編集者の意見を無視して、原典通りに話を進めることも可能だったわけです。

 原典が和製漢語だったか、万葉仮名だったか知りませんが、それを現代訳するだけのこともできるわけです。




 で、話は飛んでプロットのお話。

 プロットとは、元々は点を打つなどという意味。

 転じて、物語の構成だとか枠組みだとかを表すようになりましたとさ。


 以上おしまい。いえ、おしまいにはできません。


 プロットには、あらすじ、登場人物の設定、その相関図、起こる事件、小道具、世界観などが含まれるそうです。

 いわば設計図ですね。


 そんなことは出来っこないのですが、完璧なプロットがあったとしましょう。

 それをAさんとBさんに与えます。

 AさんとBさんはそれぞれ別の作品を作り上げます。

 プロットが完璧であればあるほど、Aさんの作品とBさんの作品は似たものになります。


 プロットが適当であればあるほど、Aさんの作品とBさんの作品は異なったものになります。


 どっちがいいのか? というのは本題と関係ありません。


 同じ関係が『作品』(原作と置き換えてもいい)と『派生作品』にも言えるよなってことです。


 そもそも小説って映像化を前提に書きませんよね? いやまあ、最近はドラマ化やアニメ化を狙って書いてる人も多そうですけど。


 映像化を前提にして、なおかつ時代のニーズに合った小説っていうのがあったとしたら、よほどの変わり者の監督をはじめとするスタッフが結集しない限り、誰が作っても似たような作品ができあがるでしょう。

 ライトノベルなんかは挿絵が付いてたりして、キャラクターのイメージが出来上がってるので、よほどのことが無い限り、挿絵を尊重したキャラクターデザインをするでしょう。



 たいていの小説(に限らず漫画でも)は、映像化を前提にしてなかったり、原作と映像化された作品のターゲット層が違うために変更を余儀なくされたり、映像化にあたったスタッフが自己主張を始めたりして独り歩きするもんです。


 サザエさんとかルパン三世なんて、アニメ見てから原作を読んだらその違いに驚くことでしょう。




 作品は、ある意味で生きています。

 たとえどんなしっかりしたプロットを立ててようが、誰が見ても面白い原作を元にしていようが、二度と同じ形を取ることはありえません。

 ええ、ありえません。


 とある作者がプロットを立てました。さあ、書くぞ! と書き始めました。

 そして出来上がる作品。


 とある作者がプロットを立てました。さあ、明日から書くぞ! と翌日から書き始めました。

 そして出来上がる作品。


 二つの作品はほとんど同じものでしょう。ですが少しは違うでしょう。ええ違うでしょう。


 何が書きたいのかわからなくなってきました。

 どうしてかというと、プロットというか、着地点すら決めずに書いてるからなんですね。

 エッセイだからそれでもいいっちゃいいんですけど。


 かの有名なスティーヴン・キングも言ってたようです。

 構想を練っちゃいけないと。


 それを原作、派生作に置き換えたら、


 原作なんて尊重すんな! アニメ(ドラマ)にはアニメ(ドラマ)のやり方があるんだよ! 


 ってなるでしょうし、プロット(構想その他)なんて、作品の可能性を狭めてしまうものだ。無きゃ無かったで、作品は勝手に着地点を見つけて進んでいく。


 ってことが言えるんでしょうね。


 良く聞く言葉。


 キャラが勝手に動く。

 書いているうちにこいつはここで死ぬんだなと感じた。

 当初のストーリーと違った展開に進んでいった。




 天才(あるいは優れた作家)は、設計図プロット無しで作品を作れると言います。

 凡才は、それじゃあ良い作品は作れないから、設計図プロットを用意すると言います。


 天才にとってプロットは、可能性を狭めるための足かせでしかないと言います。

 凡才にとって、プロットとは何にも代えがたい大事なものだと言います。



 バクマン。という漫画の設定がまさにそうでした。


 主人公は設定からなにから考えに考えて面白くするタイプ。一方ライバルは、アイデアがどんどんわき出て来るからネーム(漫画でいうところのプロット)をじゃんじゃん量産できる。




 では、プロットは不要なのか? という話。


 究極の天才が居れば、プロットは不要なのかも知れません。

 原作なしで成功しているドラマやアニメがあるように。


 究極の凡才にとってプロットは絶対不可欠なものなのでしょう。

 映像化を前提に置いた魅力ある原作でないと、ドラマ化やアニメ化で失敗するように。




 久しぶりにタイトルを思い出せる展開になってきました。

 フラットときどきホット。


 設計図を用意して、着々と無難に進めるのがフラット。

 設計図無し、あるいは雑な設計図で、あるいは時には設計図を無視して勢いで書くのがホット。



 あなた(わたし)は究極の天才ですか? 究極の凡才ですか?

 いいえ、どちらでもないでしょう。


 あなた(わたし)は時にフラットに、時にホットに書き綴るのです。


 モチベーションが続くのであれば、プロット無しで勢いで書くこともできるでしょう。 人によってその距離(書ける文字数や、物語全体における割合)は異なります。


 いかに天才といえども、設計図無しで作品を作ることは不可能だと思います。

 ぼんやりと頭の中に登場人物や事件が思い描かれていると思うのです。

 時には同時進行でしょう。

 何かの着想を得て書き始めた。書きながら次の展開が浮かぶ。

 無から有は作りだせません。なにかきっかけが必要です。それが言葉にできるものなのか、単にイメージなのかは別問題としておいておくとして。


 如何に凡才といえども、時には勢いに任せて書くこともあるでしょう。

 逆に、いくらでも設計図に忠実に、その場で浮かんだ着想を無視して書くこともできます。

 ですが、所詮はプロットはプロット。どんなに細かく、詳細に練り込まれたプロットがあったとしても、多少の勢いは必要です。だってプロットを作品に変換するのにもエネルギーは必要でしょ? それがいらないのなら、その設計図は設計図ではなしにひとつの完成された作品だと言えると思うんです。



 フラット時々ホットでも、ホット時々フラットでもいいんですけどっ!




 ももクロちゃんも言ってます。歌の中で。

 時には、勢いで突っ走れと。基本的にはこの姿勢です。様々な歌があります。

 でも時には迷うこともあると。そんな時には結局自分を信じるしかないようです。


 さあ、自分の信じ方を考えてみましょうか!

 

 

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