続 物語の同一性
さて、前回のお話。
桃から生まれたにも関わらず、おじいさんとおばあさんの暴挙によって『超時空要塞マクロス』と名付けられた少年(別に『魔法少女まどか☆マギカ』でも『新世紀エヴァンゲリオン』でもいいのですが)は、すくすくと大きく成長して、キビ団子をもって鬼退治にでかけます。
おいおい、それはもはや桃太郎ではないぞ? と思う人も居れば、いやまあ、話の流れが同じなんだから、桃太郎だな……名前は違うけど……と思う人もいるでしょう。
そこで、物語の同一性のお話に戻ります。
何をもって同一の物語とするか? についてです。
一旦文学を離れて、ミュージシャンの話をします。
モーニング娘。って一体なに?
モーニング娘。のメンバーは入れ替わり立ち代わり。時代によって異なります。
モーニング娘。という箱があって、中身はどうでもいい?
それはモーニング娘。だから言えること。
例えば、『B'z』。『B'z』の定義ってなんでしょう?
『B'z』に限らず、日本人はいわゆるバンド形式のグループをボーカルで識別している風潮があります。
稲葉さんにあらずば、『B'z』にあらずです。「稲葉さん」というのは『B'z』のボーカリストです。
ですが、海外のバンドというのは、結構ボーカルを入れ替えたりすることが頻繁にあります。
なので人によっては、ボーカルが変わってもそれは『B'z』でありつづけるでしょう。
ある日突然松本さんが演歌に目覚めた! 『B'z』が過去の曲を封印して演歌しか歌わなくなった!! 松本さんが、ギターを捨てて三味線を弾きだした!!
それでも『B'z』は『B'z』です。
さて、ミュージシャンの話は一旦忘れてください。(じゃあ何故書いた?)
あなた(わたし)の書いた小説がドラマ化されることになりました。
例えば主人公の名前が『半沢桃太郎』だったとします。おそらく銀行員なのでしょう。
安易にタイトルを『半沢桃太郎』としていました。(原作もドラマも)
例の銀行員のドラマ(原作は地味なタイトルでしたが)は大ヒットしましたが、そうではない場合も沢山あります。
人によっては原作の方が面白い。人によってはドラマの方が面白い。
極端な考え方をすると、Aさんにとっての『半沢桃太郎』はドラマであり、原作は全然面白くないから、あんなのは認めない。
Bさんはその逆で『半沢桃太郎』はあくまで小説であって、あんなクソドラマなんて『半沢桃太郎』ではない。
メディアミックスする時によくあることですよね。
アニメ化されたときの失敗例。
ストーリーの改変、違和感のあるキャラクターの容姿、声優が全然イメージと違う。
あんなのは、『○×』じゃない! (『○×』にはあなたが失敗したと思えるアニメの原作名を入れてみてください)
どうしてこんな話を持ち出したかというと、物語の同一性を語るため。
『半沢桃太郎』が『半沢桃太郎』であり続けるために必要なものっていったいなんなのでしょう?
銀行員であること?
いえ、例えば『半沢桃太郎』がラーメン屋に左遷させられたとします。(証券会社にではなく)
それでも、面白いお話であれば、それは『半沢桃太郎』だと認める人も多いでしょう。
『半沢桃太郎』という人物が登場すること?
これは一見して正しいように思えます。
じゃあ、『半沢桃太郎』が婿入りして『吉田桃太郎』になったらどうしましょう?
タイトル変えますか?
それも一つの選択肢です。『課長島耕作』は役職をタイトルにしてしまったもんだから……。
『ジョジョの奇妙な冒険』のように、無理やりにでも『ジョジョ』を主役にする?
あれも、途中で破綻してますよね?
空条承太郎以降はジョジョと呼ばれたり呼ばれてなかったり。
世界観が同一で、歴史が連続していて登場人物が一部共通であると、『課長島耕作』や『ジョジョの奇妙な冒険』のように、タイトルが変わったり、タイトルと内容が乖離しても同一作品だと認定されますよね?
ドラゴンボールだって、もはやドラゴンボール集めはオマケ的要素になりました。
で、名前が出たついでに『ドラゴンボール』のお話。
ある程度の年齢以下になると、ドラゴンボールという物語は、漫画ではなくアニメだという認識が強くなるでしょう。
実際漫画版よりもアニメ版の方が長く続いています。『ドラゴンボールGT』などは原作者である鳥山明先生の介入は凄く少なかったようです。基本姿勢としてはノータッチ。多少のアドバイスを行った程度とウィキペディアに書かれてます。
とんでもない事実が発覚しました。
人によっては『ドラゴンボール』といえば初期の『ドラゴンボール』から『ドラゴンボールZ』を経て『ドラゴンボールGT』へと至る物語です。それを総称して『ドラゴンボール』と呼ぶでしょう。
その物語を考える人が同一でなくてもよいようです。
小説家や漫画家からすればとんでもない話に思えますが……。
アニメとか、映画とかって結構頻繁にスタッフが入れ替わってますよね。
1期はよかったけど、2期になって監督が変わったから……とか、脚本家が変わったから……とか。
酷い時は2期は続編と認めないとかいう人が出てきたりしますが、そうでない場合も沢山あります。
いきなり結論というか、これまでの流れで分かった事実を書きます。
なんの説明もしていないことも沢山あります。
物語が長く続くと、タイトルと内容がかけ離れていくこともある。
物語によっては途中でタイトルが変わる。
物語が長く続くと、登場人物がごっそり入れ替わることもある。
物語が長く続くと、世界観さえ変わってしまうこともある。
どうやら物語は、それを考える人間が異なっても同一性を維持できるようだ。
タイトルが変わっても、世界観が変わっても、登場人物が変わっても、違う人間が考えても、ある人にとってはそれは同一の物語です。
結局、同じ物語かどうかって、人それぞれが判断することなんですよね。
なにか物語で大きな変化があった時にそれが気に食わないと、無かったことにされる。
星の数ほど……は無いでしょうけど、大きな変化を起こしたがゆえにその変化以前は受け入れられても、変化以後は受け入れられなかった作品って沢山あると思うんですよ。
たいていは人気に陰りが見えたからテコ入れの意味で、作品をシフトさせるんでしょうけど。
ギャグ路線からシリアス路線へ。あるいはその逆へと。
それに成功して人気が盛り返せばいいのですが、失敗するとあの作品は二部まで。三部からは黒歴史とか言われたり言われなかったりするのです。
物語の同一性なんて幻想だということを伝えたいがために、長々と書きました。
結論としては、読者(視聴者)の数だけ物語はある。それが同一であるか否は、個人個人で決めるものだ!
とでもしておきましょう。
で、次回はそれでも物語の同一性を保ち続けたい人のために。
『世界の片隅でmineを叫ぶ』です。