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第4話「命の秤」

第4話「命の秤」

 その部屋に招かれた時、ハルカは未だ天使に対する清廉であるという固定概念から抜け出せずにいた為、そこの惨状を目の当りにして唖然とした。高級ホテルのスイートに匹敵する広さと豪華さを兼ね備えたその部屋は、脱ぎ散らかした服と、読み散らかした本と、飲み散らかした酒瓶と、貰い散らかした謎のお土産で無残なお一人様部屋と化していた。

 今、彼らがいる部屋はエリシルの個室。あの後、二人はこの部屋に連れてこられたのだ。

「ちょい散らかってるけど、適当にくつろいでね。あれ~、急須と御茶請けどこいったかな~?」

 暢気に部屋を漁るたびにゴミ製バベルの塔が崩れ、別たれた言語さながらにホコリが舞い広がる。耐えかねたユキミは、散らかっているゴミとも私物とも見分けの突かない種種の品々を手早く高速に分別し片付けていく。先程までのシリアスな場面が僅かの後に瓦解するとはハルカは露とも思わなかった。溜息一つを吐き、彼もユキミに協力する事にした。

「いやあ、ごめん、ごめん! やっぱ、長いこと使ってないと物なんてどこにやったか思い出さないものね」

 結局探し物は見つからず、それなりに片付けられた部屋の中で発掘された机と椅子に三人は腰を下ろした。

「ところで、この状況なんですか?」彼の問いにユキミも肯定するように頷いた。

「そうね、まず私の立場を表明しておきましょう。私として君達を無事に帰したい。正直、悪魔だろうが何だろうがどうでもいいし」

「いや、いいんですか! 天使の頭がそんなで!」

 考え込むように人差し指を顎に添えたがそれも少しの間。あっけらかんと言い放った。

「だって、元は天使も悪魔も同じだしね~。とは言っても。無罪放免と行く訳にはいかないのです。私はこれでもこの辺の天使を統括する身だからね。そこで試練を考えていたところに君も現れたわけよ~」

 晴れやかに笑うと「タイミングいいね」とハルカの肩を叩いた。

「えっと、どう意味ですか?」

「そうね。実はね、天使と悪魔って似たエーテルを持ってるのよ。はっきり言って見分けがつきにくいの。それと、捕まえた悪魔は大人しければ、改神の訓戒を説かれて昇天、つまり天使に戻らないか、誘われる訳」

 ハルカたちにもエリシルの話が読めた。つまり彼女は悪魔として捕まったユキミを天使として生かそうと画策しているわけだ。

「でもそれだけじゃ、駄目なのよね。だって、それは悪魔の話であって、ユキミちゃんは悪魔でも天使でもないんだから」

 エリシルは憂鬱に溜息を吐いた。ハルカは彼女の物言いに疑問を持った。そもそも、ユキミが悪魔だと疑われて捕まったのだ。人間だと判れば、無罪ではないか。

「言いたい事は分るわよ。でも、それが天使の面子の厄介な所でもあり、天使と人間の間にある火種でもあるの」

 それは実に不条理な内容であった。過って捕まった人間は暗黙の内に無かった事にされるというのだ。ハルカたちはかつて起こった戦争の一端を垣間見た気がした。

「そこでよ。ユキミちゃんたちには例の赤龍を討伐してきて貰いたいの。あの龍は間違いなく復讐をしにこの街に戻ってくるからね。説得でもいいけど、多分殺すことになると思うわ」

 エリシルの表情が変わった。ユキミの牢で見せた冷酷さを顕にしている。ハルカは先ほどの出来事は幻だったと思い込みたかったが、その肌に突き刺さる威圧感はそれが現実であると知らしめている。

「何で、あの龍を俺達が討伐する必要があるんですか?」

「理由は単純よ。ユキミちゃんを私が個人的に雇った傭兵のハグレ天使と言い張るのよ。それなら魔性はコチラの読み間違いだと言い張れるしね。でも何が何でも口出しできない実力を見せ付ける必要があるの。それが赤龍討伐よ」

つまりは脅しの論法であった。赤龍という強大な存在をユキミに討伐させる。それは強さの証明であり、口出しする事すらも憚られる強大さで無理矢理に口を噤ませるというのだ。彼女の正体が人間でも悪魔でも天使でもいいように。

「……無理矢理ですね。大丈夫なんですか?」

「そうね。多分、大丈夫じゃない。煉獄に派遣されてる天使って閑職だから上申できる上司である私に面と向かって逆らったりはしないのよ。それに、私ってこう見えて結構人望があるんだからね。力もあって私からの推薦もある。ここまですれば、この聖城では誰も口出ししないわ。あのトゥリでもね」

 自信に満ちた断言。己の力と信頼を正しく把握している者だからこその言葉。常に惚けた言動をしてきたエリシルだが、ハルカは今日垣間見た様々な面から、やはりこの人物は天使たちを統べる実力者であることを認識できた。

「ところで、聞きたい事があったんですけど、なんで俺たち牢屋で脅されたんですか」

 あの背筋が凍るような威圧感を思い出すと未だに身震いするハルカだった。

「だって、あの時のあなたたち、我らが主が襲ってきても歯向かいそうな勢いだったもの。ここは一発凄んどかないと、何処までも暴走してそうだったからね」

 エリシルは穏やかな笑みを浮かべると、二人の頭を柔らかく撫でた。その心地はどこか懐かしく、いつまでもその暖かさに身を委ねたくなる。

「若いってのはいい事だけど、周りも見ないと駄目よ。この世界は常に最悪が手薬煉を引いて待ち構えているからね」

 何かを思い出したようにエリシルの表情が苦悶に満ちたものになった。何を思い出したのかはハルカたちには分らない。しかし、それがいつも陽気な彼女にそれ程の表情を作らせるほどの事だとは理解できた。

「あの、ところで一つ聞きたいんですけど?」

「何かな?」

「レオは……どうなりました?」

ここにレオが来ていた事を知らなかったユキミは弾かれたようにハルカの顔を見た。それに応える様に彼が頷くと、ユキミは顔を曇らせて俯いたのだった。

「残念ながら行方不明よ。あの大爆発でうちの天使何人かを巻き添えにしてね。死んだ……ってことにしてあるわ」

「……あの。レオの事で俺たちに制裁は、ないんですか?」

 薄情だと感じながらも、彼にとって一番憂慮すべき点はそこだった。少し調べればユキミとの接点は浮かび上がるだろうし、そもそも協力者はハルカだ。その火の粉がこちら側に降りかかってもおかしくない。

「大丈夫よ。彼は元々しょっちゅう天使といざこざを起こしていたからね。その方面で話を通してるわ。だから、今は素直に彼の事を心配してあげなさい」

 身内の天使を殺されたというにエリシルはこちら側の心情を察してくれた。ハルカたちはその気遣いに返す言葉が何もなかった。

「さて、要点を纏めましょうか。ユキミちゃんとハルカ君で、明日、赤龍の討伐に行ってもらいます。場所は捕捉してあるから、転位陣はこちら側が用意しておきます。そして、君たちが無事に赤龍をどうにかできれば晴れて自由の身。更にはウチとの独占契約のオマケつきよん! だから……死んじゃ駄目だぞ」

 包みこむような優しい声音と実際の抱擁で二人は心癒された。多くの人が自分たちの無事を祈ってくれている。それは居場所があるという事だ。だから二人は、生きて帰ることを心に誓ったのだった。


 エリシルの部屋から出た二人は、ユキミのいた独房へと戻された。立場の上では囚人であるため、明日の時間までそこで過ごさなければならなかったのだ。それは、過激な天使から二人を守るという意味の上でも必要な処置であった。

「この部屋は、エリシルさんの術で守られてるんだってな」

 つまり、この部屋にすんなりとハルカが入れたのは、彼女が許可を出していたからという訳だ。しかし、そんな彼女でも分らない事が一つあった。

「……直接いた訳ではないので分りませんが、この監獄棟に続く通路の扉に、施されていた術が強化されていたそうですね?」

 そう、レオの犠牲を強いる事になったあの警報創術。あれにはマーガレットのステルス創術を破る能力は無かったのである。しかし実際はそれを見破り彼らを窮地へと追いやったのである。

「エリシルさんも心当たりが無いって言ってたな。まさか、あのクソ眼鏡が仕掛けたのか」

「……それは分りません。ですが、その事でレオさんが行方不明なのは事実です」

 ユキミの表情に影が差した。ハルカは直接レオの評を聞いた訳ではないが、微妙な関係だったとは聞いている。それでもユキミに取っては顔なじみの一人であったのだ。しかも、自分のために力を尽くしてくれた。そんな人間が行方不明では心が晴れないだろう。

「気休めだろうけどさ、あいつはきっと生きてるよ。なんつーても、あの手のキャラは何だかんだ言ってしぶといもんだ。それに、言っちゃあ悪いが、そこら辺の天使にやられるようなタマでもないしな」

「……レオの事、意外に買ってるんですね」

「反りは合わないとは思ってるけどよ。好敵手ってのは、あんなだろうな」

 ハルカが思い返すと、出てくるのはロクでもない記憶ばかり。面を合わせては罵りあい、時には刃も交えた。今でも一生理解しあえないだろうと感じている。だが、それは彼と自分が似通った部分があり、それが強く反発しているからだろうと感じている。

「……良かったです」不意にユキミが微笑んだ。ハルカは彼女が偶に見せるその表情が好きだった。タンポポの綿毛が綻んだような、柔らかい笑顔。しかし、それは春の嵐のように不意を打ち、晴天に轟く雷鳴のように不明瞭な事が多い。

「えっと、何がいいんだ?」だから、困惑して聞くしかない。

「……最近のハルカは生気に満ちた表情をしています」

(死んだ人間に生気っつてもな……なんていうツッコミは意味ないか。俺たちはこの世界でも“生きて”んだからな)

「……初めにココに来たころのハルカは死人と同じ顔でしたから」

「そりゃそうだ。実際死んだ直後で表層じゃ分った振りしてても、中身はごっちゃだったしな。それに、いきなり機械蜘蛛に襲われるわ、無理矢理仕事は決まるは、可愛い女の子にはボコられるは、色々あったしな。それでも……」

 ココに来てから2ヶ月とちょっと、かつてからは考えられない奇想天外な毎日だった。不安が無いわけではない。何時消え去か分らない身で、常に不安が心を苛む。治安は悪く、いつ殺されるか分らない。心通じ合った仲間だって、いつ消え去るかは分らない。何もかもが不確かな世界。

「……それでも?」

「ああ、それでも、今の俺には執着すべき人がいる。それは……」

 ボンヤリとした瞳がハルカを写す。ハルカは彼女の肩に両手を置いた。二人の距離は、その長さほどだった。このまま空気に流されれば素晴らしい何かが起きる、そう確信したハルカはこの距離を更に縮めようとした。

 その時、不意にユキミの眼が鋭く細まった。それは守護者の眼つき。コナタのだった。

(あっ、こりゃ)変化を理解し終えるよりも早く、彼の腹部に衝撃が走り、ハルカは壁へと叩きつけられ、減り込み、その後に紙屑のように床に舞い落ちた。

「あら、ごきげんよう。私のユキミに何をしようとしたのかしら? 言ってみなさい?」

「ほんの少しコミュニケーションを……」

「あらそう。でも、ボディランゲージは必要なくてよ。まったく、駄目ね。そうやって即物的な快楽に身を委ね様とするのだから。いい事? あなたは番犬なのだから、手の甲までにしておきなさい?」

 あまりの言われ様に流石に堪えたハルカ。額に青筋が浮かび、口元がピクピクと痙攣させる。コナタと話す度に罵詈雑言。おまけにいい空気を台無しにされ、犬とて吼える。

「あのなあ、いいだろ? 俺たちが何しようと。 べつに破廉恥な行為をするつもりじゃないんだし。それにあんたが出張ってこなくても嫌なら拒むだろ」

「よく吼えるじゃない? なら言ってあげる。ユキミは私のものよ。あなたにはあげないわ。フフフ」

 コナタは嫣然と微笑んだ。その微笑みは氷の彫刻。美しいが発するのは生命の熱を奪い去る冷気。その危険な美しさにハルカは戦慄すると同時に怖気が走った。

「あら、怖がらなくてもいいのよ。私はあなたの事も気に入ってるのよ」

「犬としてだろ?」皮肉に顔を歪めて口走った。

「あら、私の冗談を真に受けて自分を卑下しなくてもいいのよ。私は友人として、あなたの事を気に入ってるのよ」

 人間離れた微笑から、血の通った人間の表情に落ち着いた。それでやっとハルカは心を落ち着かせた。コナタが見せる、超然とした、しかし、危うい空気がハルカはとても苦手だった。

(人間を見る目じゃねぇんだよな……。まるで路傍の石を見るみたいな)

 思い出しただけで、背筋が震えた。聞くべき事は幾らでもあるだろうが、それを訊ねる勇気も動機もハルカにはまだなかった。

「そういえば、あなたたち、明日は龍退治ですって? 分が悪そうだけど、精々、あの子だけは無事に帰しなさいよ」

「おい、それは龍は退治しろって言ってるのか?」

「当然でしょ。そうしなければ、普通の暮らしに戻れないじゃない?」

「ハイハイ、その通りですね。だけどよ、危なくなったら、あんたが出てきて、あの変な炎を使うんだろ?」

 コナタの眼がスッと細まった。それでだけでハルカの額から冷や汗が一筋流れ落ちた。

「あなたも見たでしょ? あの力の反動を。アレを当てにしているのだったらヤメなさい。もう使わせるつもりはないわ」

 ハルカはふと安堵の吐息をついた。彼女の言葉が彼の願いと一致いたからだ。

「なら、話は早い。もし使おうとするんだったら止めてたんだよ。俺はもうあの力をユキミに使って欲しくない。てか、あれ何だよ? あっ……」

 聞くまいと思っていた事を流れで訊ねてしまい後悔した。だが、コナタは意に介していない様子だった。

「……そうね。あの子特有の創術って事にしておくわ」

「いいよ、それで。しかし、あんな危ないモンよく使わせたな。止められないのか、あんたの方で?」

「どうかしら、結局は意志のせめぎ合いだから、その時になってみないと分らないわね。まあ、あの時は私も拒否するつもりはなかったけど」

「なんでだ? 俺たちがあの龍にやられそうだったからか?」

「そうね。それに……」

 そこで言葉を区切ったコナタ。彼女の瞳に怜悧で凍える光が宿った。彼女にどんな意図があったとしても、それは恐らく聞くべき事柄ではないだろう。知らぬが仏。パンドラの箱に希望が残っているとは限らない。ハルカはその先を促さなかった。

「はあ……。言っとくが俺はユキミともっと仲良くなりたい。邪魔すんなよ」

「あら、邪魔はしないわよ。でも、あなたから真剣さが見られない時は例の外だけれど」

「うぐっ!」正直なところ、ハルカ自身もその行動が本当に清廉な物なのか確証が持てなかった。ただ美少女と急速接近し、駄目な男の性が漲っての、性急な行動なのかもしれない。そこら辺をコナタに見抜かれたのだろうとハルカは自戒した。

(ま、一つ言える事は、この世界での生きる目的は彼女を助ける事だ)

「ああ、分ったよ。肝に銘じておきますよ」

「よろしい」半眼で睨みつけながら横柄に頷いた。

「さて、そんじゃ明日に備えて寝ますか」

 そういってハルカは丈の長い執事服の上着を脱ぐと部屋に一つあるベッドに横たわった。そして、自分の隣に一人入れる分の布団をめくると、カモーンとコナタに向かってウィンクした。それを見たコナタは無言で魔方陣を展開した。

「ウソっすよ、コナタさん! ジョダーンっすよ! まったく怖いわー」

 慌ててベッドから飛び出し、爆撃から身を守るために咄嗟に地面に這いつくばる兵士のように床に突っ伏した。それをコナタは満足げに睥睨した。

「何かしたら去勢してあげるからそのつもりでいなさい」

「ひぃぃぃぃ」去勢という言葉の持つ絶望感に震え上がるハルカ。人形のように首を縦に振ったのだった。

「少しこちらを見ないように。見たら……」

 そこで区切られると非常に怖い。ハルカは彼女の命令のままに背を向けると、背後が光った。「もういいわよ」と言われて振り返ると、コナタがネコ柄パジャマを身にまとっていた。忘れがちだが、彼女の服は心象武器であり、形は自由自在である。

「ところで、あんたのそのパジャマの柄は趣味なのか?」

「そう思う?」と凄まれたら適当に愛想笑いをするしかない。

「それじゃ、おやすみ」そう言うと、ベッドに備え付けられている照明のスイッチを、ハルカの事など気にしないで切った。部屋は暗がりに落ちたが、窓から差し込む月光が部屋を優しく照らし出した。

(しっかし、ここは本当に牢獄かよ……)

 この部屋の機能の充実に嘆息しつつ、床に落ちている上着を拾いソファーに寝そべった。上着を布団にして、月光薄く照らし出された天井を見上げた。

(生きて帰る。ユキミと俺で。それでいつも通りだ)

 彼の瞼に焼き付いて離れないのは、あの赤龍の圧倒的な力。不意打ちは一度しか成功しない。ならば次に対峙した時は、真正面からのぶつかり合いである。それは純粋な力の比較である。ならば、あの圧倒的な力を前に如何にして挑むのか。その応えはまだ見出せなかった。

(勝利に必要なのは不断にして不屈の意志)

 自分を励ますようにゼラの言葉を心のうちで呟く。例えどんな相手だとしても生き残らねばならないのだから。

「あなた、恐れているわね? 赤龍を」

 心内を見透かされて、ハルカは一瞬体を硬直させた。しかし、それは事実だ。

「ああ、正直戦って勝てる自身がねぇ。なさけねぇな……」

「当然ね。あれは老体の一歩手前、達人が狩りに出てきてもおかしくないレベル、つまり私たちには難しいってことよ」

 難しいというのはオブラートに包んだ表現だろう。事実、あの赤龍の炎を防ぐためにユキミは禁じ手を使ったのだ。

「なあ? 本当にあの炎を使わせないんだな?」

「ええ、何があっても全力で止めるわ。もしも明日使えば、あの子は消え去る事になるでしょうからね」

「おい、そこまでなのか!」不吉な言葉にハルカは思わず起き上がった。リスクは大きい事を承知していたが、命に関わる程だとは考えていなかったからだ。

「そうよ。そもそも、あれは人に扱える物でじゃないわ。ましてあの子にはね」

「人にって、それじゃ誰なら扱えるんだよ……」

「聞きたい?」そう問われた言葉に詰まる。だから、ただ首を横に振った。

「そうね。賢明よ。まあ、いずれ知る事にはなるでしょうけどね」

 いすずれと言われただけでハルカは暗澹たる気持ちになった。力を与えてくれた青年、コナタ、白い炎、魔性、悪魔、キナ臭い欠片がすべて揃った時、どんな絵が生まれるのか。それはおそらく地獄絵図だろう。ハルカは眉間を押えた。

「気にする事はないわ。あなたが、ただ、頭を悩ませ信ずるべき事柄は一つ、明日の生還」

「そうだな」とだけ呟いて、ハルカは眼を瞑った。すべては明日である。


「やほー」と朝っぱらから元気良く登場したエリシルにたたき起こされた二人は眠気眼のままに朝食をとり、今は聖城のとある部屋にやって来ていた。その部屋の中心には複雑に描かれた魔方陣があった。

「これはね、ハブ転位陣。様々な場所に繋がってるの。その気になれば世界の果てにも飛べるし、何回か経緯すれば主神の間にも飛べるわよ。行きたい? でも、君たちに行き先は勿論わかってるわよね?」

 軽い口調で冗談を飛ばしてみても、どこか固さがあった。それは彼女なりの心配だと二人には感じ取れた。ここから向かう先は死地なのだから。

「大丈夫ですよ。覚悟は出来てます。エリシルさんは帰ってきた後の工作を上手くやっといてください」

「……心配は無用です。必ず帰ってきます」

「そうね。大丈夫、こっちの事は任せておいて。それにね、全ての責は本来こちらにあるの。君たちはただ、巻き込まれただけ。ごめんなさい。何が神の使いよ。愚かしくて反吐がでるわ」

 エリシルは二人に対して深く頭を下げた。言葉や態度から、二人に対する謝意と体制に対する不満が滲み出ている。だが、その大きなうねりは個人ではどうにもできない。だから二人はユーモアでエリシルを(ほぐ)した。

「別に悪くはないですよ。なんてったって、帰還すれば大口のお得意様が見つかるんですからね。おまけに天使からは絡まれなくなるし」

「……赤龍をどうにかすれば、私たちにも箔がつきます」

「君たち……ありがとう」

「んじゃ、いきますわ。転位お願いします」

 そして二人は運命を決する戦いへと歩み出した。


 彼らが転移した先は切り立った崖が壁のように聳え立ち、複雑な迷宮を構成する渓谷だった。その壮大さに観光をしたいところだったが、そうも言ってられない。

「この先に赤龍がいるんだよな?」

「……はい。あの、行く前に手を出してもらえますか?」

 ハルカは意図こそ読めなかったが、気にするような事でもないので手を出した。そして彼女はそれを握った。柔らかくて暖かい、小さな手だった。

「……質問です。生きて帰りたいですか? 二人で?」

「ああ。当然だろ。生きて帰る。二人で」

 ユキミの視線が真っ直ぐと注がれる。ハルカはそこに何かを感じてそれに真っ直ぐと視線を返した。交錯する意志と意志。そして、ハルカの手を握る力が少し強くなった。

「……分りました。大丈夫です」そう言って手を離した。

「何が大丈夫なんだよ? 今のは一体何だったんだ?」

 ハルカは離れた手の感触を名残惜しそうにしながら問うた。

「……内緒です」冗談めかしていった。

「内緒かぁ」そこにどんな意図があったか知る由も無いが、ハルカはとりあえず、手を握れただけで良しとした。

「なあ、お前も同じか?」少し心配になって訪ねた。ハルカはユキミの在り方を知ってしまったからだ。その問いにユキミは静かに笑って頷いた。今までにない強い意志で。

「そっか。そんじゃ、行きますか。俺たちの未来のために」

 ユキミは静かに頷くと二人は走り出した。目的地は近い。


「フッ、貴様らか。犯人でも生贄にする気か?」

 周囲を崖に囲まれた窪地で、巨躯なる赤龍は身を丸めて蹲っていた。ユキミの白炎で焼かれた傷は完治しており、全身からは龍気と呼ぶべき異常な量と質を兼ね備えたエーテルが発せられているのが感じ取れた。

 龍はテリトリーを侵す侵入者を目視すると起き上がった。一度相対したとはいえ、その巨躯を眼前で拝むと二人はその圧倒的な存在感に息を呑んだ。

「頼みがあってきました。俺たちは今、自由に行動できない身です。そこで、あなたから、もう街を襲わないという言質を取れば自由の身になれます。あなたのお子さんを惨殺した犯人も必ず、見つけ出します。どうか、もう一度、俺達を信じてくれませんか?」

 焦りを極力見せないように穏やかに喋ったつもりだったが、それでも、説明が勇み気味になってしまった。ハルカの中では説得できる可能性は五分五分だった。一度分かり合えたというのがそう見積もった要因だった。

「なあ? 人間、いや、意志在る生物というのはその精神に多面性、矛盾を持つ。時に強欲であり、時に清貧。時に傲慢であり、時に謙虚。ならば、人を信ずるという行為が如何に難しいか、よく分るだろう」

 天秤がよろしくない方向に傾いている。ハルカハ察して、手に汗が滲んだ。

「確かにそうです。だけど、悪意だけで動く奴だっていない。だからっ!」

「そう、だから。我は不確かなモノを捨てる。ただ信ずるは我の激情のみ。一度は契約を交わした仲だ。かの街から離れておれ。さすれば、助からん」

 最早、言葉は無かった。赤龍の意志は堅固であり、その巌を崩すには言葉は余りに無力であった。この龍はその怒りに任せ、己とその親近を踏みにじった者たちを初め、無差別に己に矢を引く事の恐ろしさを知らしめるだろう。その暴力を以って。

 街を守ることも重要だが、それ以上に、ハルカは自分たちの為に戦わなければならない。ハルカは隣に立つユキミを見遣り、覚悟を決めた。

「なら、仕方ないっすね。あんたを倒して、自由を手に入れますよ。ついでに名誉を」

「ふっ、傲慢な事だ。流石は人間だな。貴様らの蛮勇に敬意を表して我が名を名乗らん。我が名はイグニート。千辺万里を焼き尽くすモノだァァァァァァァッ!」

 巨大な翼を広げ天空へと向かって咆哮するイグニート。彼から発せられる高濃度のエーテルが咆哮による大気の戦慄きと共に二人へと撃ちつけられる。それは不可視の津波、二人はそれに押し流されて、吹き飛ばされ、地面を転がった。そして立ち上がった時、紅の太陽を背に、全身から陽炎を立ち昇らせ巨翼を雄々しく広げた10メートルを超える今生の化生が仁王立っていた。

「行くぞ。人間!」その雄叫びと同時に、二人は弾かれたようにその場を飛び退った。次いでその場所で巻き起こったのは爆発。爆炎と衝撃波が岩盤を爆ぜ飛ばす。

「いい反応だな」イグニートがその口から吐き出したのは、赤龍の代名詞、炎の吐息。人間大もあろうかという炎弾を吐き出したのだ。その威力は地面を瞬時に溶解させる程、防御は難しい。ならば避けるのみ。ユキミはイグニートに向かって駆け出した。

「気持ちの良い無策ぶりだな」自分へと接近せんとするユキミに目掛けてブレスを連射。マシンガンのように連続して吐き出されるソレの威力は先述の通り。死ぬが先か辿り着くが先かのチキンラン。

「クッ!」先に死が訪れた。迫り来る炎弾。しかし、それは直撃の直前で消し去られた。相棒ハルカの“凪”を乗せた弾丸による現象消滅である。

 命中を確信したイグニートの不意を突いた僅かの間隙。ユキミはそれを逃さずに距離をつめた。本体まであと少し。赤龍とて、懐に招き入れるほど優しくは無い。あと僅かに迫りつつあるユキミ目掛けて、尻尾を鞭のように凪いだ。音速を超え空気を裂き、打ち付けられた地面は爆撃でも受けたかのように、爆ぜ飛び、土煙を上げた。

「やりおるな!」だが、その一撃を避けたユキミは己の拳の届く距離に居た。

 イグニートの巨躯を足場に一息に連続跳躍をし、龍の頭上を越えて舞い上がる。そして空中で反転、エーテルを推進力にして急降下。一連の動作、かつ、ハルカの援護射撃で気を散らされ、ユキミを見失っている赤龍の頭目掛けて勢いを乗せた諸手掌底。打ち込まれた衝撃は赤龍の長い首を下方へと弾き飛ばし、刹那、龍の意識を混濁させる。

「まってましたよ」とばかりに距離を詰めていたハルカはユキミと交代するように龍の頭目掛けて跳躍。意識を回復したイグニーートと目が合い、ビビリながらも彼の顔面、正確には眼球目掛けて12.7mmの弾丸を連射。エーテルで強化した弾丸の嵐は、柔らかい彼の眼球を容易く打ち抜いた。

「GYAAAAAAAAA」響く龍の叫び。火炎放射を吐き出し、辺りかまず炎で薙ぎ払う。高熱に巻かれながらも、離脱する事ができたハルカはユキミの隣に立った。ここまでは作戦通り。僅かの間でも目を晦ませれば勝機アリ。

 二人は同時に魔方陣を展開した。

「響け絶唱 轟け龍吼 “叫雷”」「穿て万壁 “雷槍”」

 同時に放たれた一撃はそれぞれ、雷光と雷炎を纏って大気を切り裂き、やがて大敵へと突き刺さった。次いで起こるは大爆発の二重奏。渦巻く炎雷は赤龍の巨躯を飲み込み、荒れ狂う衝撃波は大気を押し飛ばした。それも一瞬のうち。

立ち込めた黒煙を一箇所、穴が穿った。二人があらん限りの力で地面を蹴り、跳躍したのは、黒煙を突き抜けた一発の炎弾が地面に命中したのとほぼ同時だった。

 そしてエネルギーが解放された。熱の権化たる紅炎は瞬間に二人を容易く飲み込み、世界を紅く染め、地を奔った衝撃波は地面どころか周りの崖すらも叩き崩し、響いた爆音は爆心地からも遠い生物たちを一斉に飛び立たせた。つまりは、それ程の威力。

 晴れた黒煙の先には半身の表面が未だに焼け爛れたイグニートが再生光を稲光させながら佇んでいた。

 大爆発に飲まれた二人もまた、負傷した肉体を再生しながら龍を睨みつけていた。しかしその攻防の勝敗を現すように。二人は地面に這いつくばったまま未だに立てずにいた。

「ここまでだな」イグニートは大きく裂けた口を開き、炎球をそこに形成させた。それは今しがた放たれたモノである。

「つまりは絶体絶命ってかぁ……なんてな!」その言葉をトリガーにしたかのように、赤龍の直下が連続して爆発。気を逸らされ、致死の炎弾は遥後方へと着弾し、その凶風のみが吹き荒んだ。トッリクの種はハルカが地味にばらまき射ち込んでおいた“陣破”。それをこのタイミングで起爆させたのだ。

 イグニートからの再びの攻撃が来る前に、行動可能な程度に回復を終えたユキミがハルカを守るように立ちはだかった。

「……動けますか?」

「ああ、もう大丈夫だ」

全身を倦怠感が襲うが、ハルカそれに屈することなく立ち上がった。だが敵はその僅かな時間も待ちはしない。既にイグニートは3度目の砲撃体制へと入っていた。

「手を握って下さい」焦せるユキミの声音。この状況にはそぐわない行動の要求。しかし、ハルカはソレに意味が在る事を信じている。だから、迷わず手を取った。

「……眼を閉じて、生きたいと願って下さい」肌の繋がりが彼女を落ち着かせたのか、落ち着きを取り戻していた。いつも通りの彼女の声にハルカもまた心を落ち着かせた。

「……心を平静に」遠く、何かが大気を飛翔する音が聞こえる。しかし、その畏れも、一面に広がる薄ボンヤリとした暗闇と、掌から伝わる体温と鼓動、そして、ユキミの息遣いで凪いだ水面へと導かれる。

「……繋がりました」その言葉と同時に、二人はあの炎熱地獄に飲み込まれた。熱は大地を融かし、叫びは大気を切り裂いた。故にそこには何も残らなかったはずだった。

しかし、二人は炎が燃え立ち地面が赤熱するその地獄に立っていた。

「……こりゃ……いったい」

 ハルカが困惑するのも無理はない。今の彼の感覚は重力から解き放たれた浮遊感を味わい。魂の境界線が取り払われた、誰かと心が繋がっているという、安心感と心地悪さの相反する感情を同時に味わっているのだ。そう、今、彼はユキミの魂と共に在るのだ。

「共振……だとォ! ハッ、ハハハハハハ! ここに来てとんだ隠し玉を持っているとはな! 流石だな人間! 恐れ入った」

“共振”かつてレオとその相棒が見せた魂の連結。二人のエーテルを純粋に足すだけではなく、その二人の共振でそれ以上を生み出し、その能力すらも共有させる現象。

 しかし、それは奇跡ではない。心を共にした信頼の上でしか成り立たず、仮に成功させたとしても、魂の連結は本来ありえない他者との合一を行う術である。

それ故、精神の流入や融合などの余りにも危険なリスクを背負うため、余程の事態に直面するか、そのリスクを被っても気にも留めない狂気にも似た関係性を構築していないと、おいそれとは行えないのである。そう、禁じて手に説明なしで踏み込んだユキミは、内心悔恨に染め上げられていた。

「気にすんな、ユキミ。仕方がない。それに今は遣るべき事があるだろ?」

 精神を連結しているハルカは表層部分なら心を読み取ることができる。だからハルカは彼女の苦悩を軽くする言葉を選んだ。遣るべき事をしろと。

 ユキミは静かに頷くと、イグニートへと視線を向けると、大きく両手を開いた。

「フッ、決着を着けるというか。いいだろう」

 イグニートも大きく翼を広げると、(アギド)を開いた。刃の如き歯が並び、その奥は洞窟の闇へと続いている。しかし、彼が大きく息を吸い吐くと、鮮やかな紅が灯った。体内で莫大なエーテルが捻り出され、現象へと変換されているのが離れていてもまざまざと感じる事が出来る。それは彼が今まで吐き出してきた如何なる炎をよりも熱量を有している。

 対するユキミの眼前には複雑な魔方陣が形成されていた。左右に小型の円、その中心点を両端にして中央に巨大な魔方陣。ユキミ自身が共振の状態で練っているのが凄まじい量のエーテル力ならば、その陣が掻き集めている大気中のエーテルもそれに匹敵する量。御しきらねばユキミは跡形も無く消し飛ぶだろう。だが、今の彼女に万が一は無い。

かくして二者の一撃必殺は十全の状態で解き放たれる瞬間を待っている。そして、幕は落ちた。生き残るのは人か龍か。

「骨も残さず零へと還れ!」イグニートの咆哮と共に吐き出された紅線は、大気に触れた瞬間にその圧倒的な熱で空気を膨張させ衝撃波を生み出す。その紅自体が有する熱は直接触れもしていない周囲の岩盤を焙り溶かす。ただ、在るというだけで世界を焼き尽くす現象がその主なる熱を持ってユキミへと迫り来る。

「響け絶唱 轟け龍吼 合て二重 心意矛盾 故に力在り “憤悦灰雷”」

 全てを融解させる紅の輝きがユキミに到達する僅か寸前。彼女の必殺が相成った。有りっ丈のエーテル力を継ぎ込んだ諸手掌底をその魔方陣に叩き込むと、瞬間に彼女と魔方陣の力が反応を起こし、純然たる破壊のエネルギーとなって噴出した。形は灰色の雷光。それを幾万条も束ねた光は鈍い輝きを放ちながら愚直に突き進んだ。

 そして、二つの龍の叫びは正面からぶつかり合った。灰と紅。人と龍。強大エーテルのぶつかり合いは絶え間ない爆発の波頭となって世界を蹂躙し、エーテルの相互反応による白光は強い輝きを点滅させる。ほぼ互角。ならば、強き意志が勝利する。

『あああああああああああ』

 明日を求める二人の慟哭。それが未来へと向かうエネルギーならば、イグニートの復讐は停滞に過ぎない。己の命を惜しまない者がどうして、明日を手に入れられようか。

 故に二つの拮抗する光、貫いたのは灰であり、その雷光は刹那にしてイグニートに到達、強大な力で赤龍の巨躯を爆熱と共に消し去っても飽き足らず、彼方天空をも切り裂いた。

 後に残ったのは、力を使い果たし共振を解いた二人と、上半身が消滅した巨龍の死体だけだった。

「……勝った……のか? まだ、ここに在るのか、俺たち?」

「……ええ。勝利です。やりました」

 二人がその言葉を口に出した瞬間、ぼやけた現実感が確かな感触となり、途端、極限の疲労感が押し寄せてきた。二人は背中合わせにその場に座り込んだ。

「なんつーか。俺、あんま役に立ってなかったなあ」

「……そんな事はありません。ハルカがいたから私たちがまだいるんです」

 この戦いでの活躍を価値として見出せないまだ青いハルカは、納得できないものの、全ては自分の力不足と自覚して押し黙った。

 緩やかな沈黙。穏やかな空気。大仕事を遣り遂げた二人は全てにおいて弛緩していた。その音が耳に届くまで。

 ZIZIZIZと何かがスパークするような小気味の良い音。しかし、二人にとって、それは平穏を崩す良からぬ変化の象徴でしかない。

 恐る恐る、赤龍の死体へと眼を向ける。そこには、残った下半身から再生による紫電と光が発生している。だが、ただの再生ではない。その死体から発せられるのは、先程まで戦っていた赤龍とはまったく異質なエーテルであった。

 例えるならば、深海の重く冷たい水。そこに堕ちた者はその水量と圧と冷気で二度と浮び上がる事は無いだろう。そんな昏く重いモノ。

「……老体に成ったというんですか、嘘、ですよね……」

 ただ驚愕に見開かれた瞳。ユキミの口からは掠れた言葉。そこには直視したくない現実を打ち消したいという願いが込められていた。

 だが、彼女の願いを裏切り、龍の再生、いや、進化は終わりつつあった。肉体はより細く引き締まりながらもより巨躯となり、頭には無数の角が剣山のように突き出し、翼は四対、全身の皮膚は鮮やかな紅からより黒味を帯びて硬質化している。

 そして何より彼のエーテル。より高濃度となったソレは立ち向かう気力さえも奪い去る。

 つまり、彼らに勝利という言葉は無くなった。

「GRYAAAAAAAAAAAAAAA」

 だが、進化に追いつけなかった彼の精神は未だ形を成していなかった。それでも、それゆえに、ただの暴力はおぞましい。彼の狂った雄叫びと共に吐き出された黒色の炎弾は彼方へと飛び、そして、巨大な炎柱を天まで届かせ、その純然たる力の轟を衝撃波と無数の石の雨として周囲、遥か遠方まで知らしめた。無数の破片が降り注ぐ中、ユキミが壊れた。

「アッ、アア。ああああああああああああ」

 ただ絶叫を上げ、敵に向かって駆ける。策を尽くして最早無策。力を使い果たしたユキミと、万全たるイグニート。種がなければ可能性とて実りはしない。

「がっ」距離をつめたユキミに無常なる一撃。唸りを上げた尻尾は回避する事を許さず打ち沿え、骨と内臓を叩き潰された彼女はボールのように打ち飛ばされた。

「大丈夫かっ!」ユキミが地上に叩きつけられるよりも早く、ハルカが割り入り彼女の体を抱きとめた。だが、その勢いに耐え切れず二人して無様に地面に倒れこんだ。

「何だよコレ……」遠くにイグニート。二人を敵として認識していないのか、獣のような動作で周囲を見回している。

「何だよコレ……」先ほどまでの穏やかな勝利の余韻は夢想と消え、ただ、絶望と無力感のみが押し寄せる。エーテルをほぼ使いきった為か、ユキミの負傷は回復する速度が遅い。

もしも、イグニートが僅かでもコチラが敵である事を思い出せば。即座に終わる事となるだろう。仮にこの場から逃げ延びたとしても、あとは果てない逃亡に心をすり減らす日々。

 前門の先も後門の先も待つのは絶望。ならば、ジョーカーを切るしかない。例えソレが(ろく)でもないリスクを孕んでいたとしても。

ハルカは眼を閉じ、五感を閉じ、精神を閉じ、只管にそこを探った。魂の深奥。その部屋の扉。幾度か繋がったそこへの扉。

「見てんだろ? 助けろよ! 俺達に力を貸せぇぇぇぇぇぇぇ!」

 恥じも醜聞もかなぐり捨てた。ただ一つの誓いを守らねば、我が身に意味は無い。切なる願いの叫び。それをあの青年もしかと聞き届けた。そして、ハルカは招かれた。

 

一瞬の意識の断絶。スイッチが切り替わったかのような感覚の後、覚醒は音から。耳に届くのは柱時計が時を刻む音色。世界が像を結んだ時、ハルカはそこに立っていた。樫の木でできた厳しい扉の前。音はその先から漏れ、彼は扉の先で待つ者が誰か知っている。

「入ってきなさい」落ち着き払った若い男性の声。数えるほどしか会っていないのに、何故か懐かしく感じた。そして、躊躇う事無くソコへと足を踏み入れた。

「やあ、いらっしゃい。今回は持て成しは必要ないね?」

 相変わらずの暗がりの部屋。机に置かれたランプだけが照明で、その横に美しい青年が腰掛けていた。その顔には誰かに似た笑みが浮かんでいる。

「ここに招いたって事は俺たちの状況も、俺の言いたい事も分ってんだろ?」

「そうだね。アレは君たちでは倒せないだろう。それこそ例の炎を彼女が自滅覚悟で使わない限りはね」

 その何もかもを見透かした笑みが気味悪く、同時に苛立たせた。だが、ハルカは力を借りる身。押し黙って、青年の答えを待った。

「しかし困った事に、今の君に使える力はもう無い。だが一つだけある。ただ、身の丈に合わない力だ。君は狂気に飲まれても正気に戻れる自信はあるかい?」

「んなもんねえよ。だけど、在るなら使わせてくれ。頼む。」

 そういった類の物が出てくる気がしてハルカは一ニも無く頭を下げ乞うた。

「いいよ。奇跡を信じよう。ただし、私が協力できるのはコレで最後だ。あとは自分の力で私の力を引き出したまえ。コレから帰ってこれたら、だけどね」

 そう言って青年が投げたナイフがハルカの心臓に突き刺さった。「がっ」そこから流れ込んだのは痛みではない。湧き上がってくるのは無限の力と万能感。己という存在があらゆる霊長を凌駕し、森羅万象を手中に納めた錯覚に陥る。それを人は傲慢という。

「はっ、ははははははははは」彼は狂気に堕ちた。


 眼に映るもの全てが下らなく見えた。眼前に聳える愚鈍な爬虫類とて例外ではない。ハルカは背中から生えた漆黒の翼をはためかせ、刹那にして肉薄すると、戯れるように腕を横に薙いだ。ただそれだけで、エーテルによって守られ、それ自体が高硬度の皮膚が抉りとられ、イグニートの腹に一文字の裂傷が生み出された。

「ひゃははははははは」狂気の哄笑を上げるハルカ。その姿は既に人ではなかった。全身はコールタールのような物質に覆われ、瞳の代わりにルビーのような物が爛々と輝いていた。背中からは一対の蝙蝠の翼。それは悪魔よりも悪魔らしい姿であった。

「GRYAAAA」ソレを敵と認識したイグニートがその巨椀で握りつぶさんとした。しかし、ハルカが迫り来る腕を、小蝿にそうするように軽く払うと、それは血霧と肉片へと変わった。既に彼にとって老体の龍すらも、踏み潰す虫ケラと大差なかった。

それから先はただの虐殺だった。腕の一振りで四肢が叩き潰され、手刀の一閃で肉が裂かれた。撒き散らされる地獄の業火を浴びても燃え尽きる事無く、代わりに舌を引き抜いた。巨翼は天を舞う前に引き千切られ、無数の角は頭蓋ごと粉砕された。無邪気な童子がその無邪気さのままに虫をバラすように、老体となり偉大なる龍となったイグニートを壊した。

 立ち込める狂気。撒き散らされる残虐。僅かの間に傾きを変えた生死の天秤を前にしてもユキミはその喜びを噛み締める事はできなかった。

「ハルカ! もういいんです。やめて下さい! それ以上は……それ以上は」

 既に生物としての艇を成していないというのに、ハルカは執拗にソレを壊していた。だが、涙に滲んだユキミの声に弾かれるように反応したハルカは、血に染まった姿で彼女の前に舞い降りた。紅の瞳がおぞましく揺らめき、全身の黒色とは相反する白い牙の列が不気味に輝いていた。ハルカは獣のように首を傾げると、ユキミの腕を掴み握り潰した。

「グ、ア」骨が砕ける音を聞き、流石のユキミも悲鳴を上げた。

 それが面白かったのかハルカはケタケタと笑い、腕を振り上げた。この生物の行動原理は他の生物を破壊する事によって愉悦を得ること。そこに気高き意志も、切なる願いも、価値在る涙も存在しない。ただ、壊し、悦ぶ。

「……ハルカ」その穏やかな声に惹かれるように、その生物はユキミの頭目掛けて腕を振り落とした。絶命の一撃。その拳は彼女の額を裂いて、一筋に血を流させた。ただそれだけ、彼の拳は彼女の頭を砕きはしなかった。

「ユ……ユキミ」苦しげに呻くと、頭を抱えて後ずさった。全身には細かい痙攣。そして全身を覆っていた黒色が一瞬にして爆ぜ、人のハルカへと戻った。

「ハルカ!」ユキミは崩れ落ちるハルカを抱きとめた。

「俺は……いったい? 何があった?」

 正気に戻った彼は状況を把握していなかった。それに無理はない。彼は圧倒的な力に飲み込まれていたに過ぎないのだから。

「お……お前、額から血がっ!」ユキミの額から流れ落ちる血にぼやけていた意識が像を結び、自分の足で立ち上がった、が途端に立ちくらみと過度の疲労感がおそってきた。

「……ハルカの方が大丈夫ですか? それにこんな怪我は大した事はありません」

「まあ……そうだよな。でも何か、凄く嫌なんだよ。お前が血を流すのはさ」

 つまる所。彼を正気に引き戻したのはソレだったのだろう。彼女の額から流れた血の一滴。それが狂気に埋没した彼の意志を呼び起こさせたのだ。

「それで。イグニートはどうなったんだ?」

「……ハルカが倒しました」

「俺が?」身に覚えの無い事実にただ困惑するばかりのハルカ。

「……でしょうね。あれは正気ではなかったです。姿すらも悪魔のようでしたし」

「悪魔……」ハルカはあの青年の言葉の意味を知った。そして怖くなった。我を失った自分はあの龍を倒したという。しかし、その暴力がユキミに向かう可能性もあったのだ。

事実そうであった。何があったか聞こうとしたが、言葉がでなかった。

「おめでとう諸君! 無事に龍を討伐できたようだね。お姉さんは嬉しいよ!」


努めて溌剌としたエリシルの祝福が聞こえ振り返ると、明るい笑顔を振りまく彼女が立っていた。パチパチと手を叩き二人の無事と勝利を祝している。

「さっ、これ飲んで」と渡されたのはエーテルの緊急補充できる珍品、生命の水であった。それを一息に飲み干した二人はどうしても聞かねばならない事があった。

「……どうしてそんなに悲しそうなんですか?」

 痛々しい作り笑顔。笑っているのに泣いている様だった。数える程しか会った事がないハルカにすらその違和感に感づいた。それ程までに下手くそだった。

「……やっぱりバレちゃうか。私って嘘が下手なんだよね……。もらった言葉が悪かったかな……」

 彼女の仮面は容易く落ち、そこには憂鬱が張り付いていた。後少しでも心が揺らいだら涙が零れ落ちる。そんな悲しさが宿っていた。

「私はね。ユキミちゃんが天使でも悪魔でも本当はどうでもいいの。だって、ソレは結局のところ同じ事なんだしね……」

 エリシルの語りの真意は見えないが、二人は彼女が最後に辿り着く結論は予想できた。

「でもね、それでも私はどうしようもなく天使という存在で、大天使という位まで与えられちゃってるしね」

「つまり……、俺達を処分するって事っすか? 理由は?」

「私に与えられた言葉は『真実』。私はその言葉に従って役目を果たさなくてはいけないの。本当にね、成功したら助けるつもりだったのよ? でも、私は見てしまったの」

「何を?」その問いにエリシルは儚く笑った。

「私たち天使が、必ず見分けがつく事が出来る悪魔の盟主、大敵たる十魔王。その内の一柱。かつて私たち天使の頂に立ちし“暁にて輝きし天使“そして、悪魔の長として主神や私たちに刃を向けた”堕ちた明星“彼の者の名は”ルシファー“そしてその固有のエーテルをあなたから感じたの……ハルカ君」

「へっ?」自分が矢面に立っているという事を知ったとき、彼は驚愕に動きを止めた。

「あなたがね、あの赤龍と戦っているときに放っていたあのエーテルはね。私たちが是が非でも駆逐しないといけない者のエーテルなの。似ているなんていう表現ではないわ。殆ど同じだったのよ。私はね、真実の天使。そういった事象を読み解く事が役目なの」

 エリシルの言葉、青年の言葉、ユキミから発せられたという魔性、それらが線を結び、彼女の結論が正しさを帯びる。ハルカに言い逃れる術はなかった。

「……待ってください。彼からそれが発せられていたとしても、同一人物ではないはずです。それでは駄目なんですか?」

「そうね。不思議な事に、今は感じられない。けど、深い繋がりがある事は確かよ。だから、見逃すことは出来ない。魔王に連なる者だから」

 どうしてこうなってしまったのか。ハルカは全身に力が入り、強く握られた瓶が割れ、破片が地面へと落ちた。死に体だった二人。これから処分する人物に態々回復薬を渡すだろうか。……それがエリシルの出来る精一杯の誠意である事に気付いた。

「エーテルも回復したでしょ? 飛び切り濃いのをくすねてきたから。さあ、武器を取りなさい。約束はね、守るつもりなの。私を殺して街に帰ったら、あなたたちは自由を取り戻す。絶対よ」

 二人はそれぞれ、銃と拳を強く握った。運命の悪戯が、戦いたくもない相手と刃を交えないとならない状況をもたらしたのだ。特に、ユキミにとって彼女は親しい仲だった。

「……どうしても戦うんですか?」

「ええ。コレが天使の不自由さなのよ。与えられた役割があり、それを全うすることが存在意義なのよ。私はね、人間になりたかった……」

 あるいは悪魔に。エリシルは断ち切る様に頭を振るうと、二人を正面から見据えた。

「私は大天使エリシル。真実を司る者。秘を秘のままにしておきたいのなら、勝ちなさい。私は慈悲なんて求めていないから」

 空気が変わった。優しくも大らかな南国のような暖かさが、真冬の湖のように清廉に透通った、しかし、懐に抱えた者を凍りつかせるような厳しさに。

 彼女の背から二対の羽が広がり、頭上に輝く輪が現れた。その輝ける天使の輪は、自らを捻りながら形を変え、光の塊となり、最後には一振りのタクトへと形を成した。

「これが天使の武器、ハイロゥよ。天使に与えられた属性や性質を力に変えるの」

 エリシルは指揮者のようにそれを振るうと、虚空から一つの水柱が生まれ、それは巨大な質量の塊となって二人に襲い掛かってきた。

 それはまるでのた打つ蛇。素早く身をくねらせると、鞭のように体を振るい、動きの詰まったユキミを叩き飛ばした。彼女は受身も取れずに岩壁に減り込んだ。

「くそっ」猶も襲い来る水蛇目掛けて、ハルカは“凪”を纏った弾丸を連射し、それをスプーンでくり貫いたゼリーのようにして消し飛ばした。

「次いくよ」だが、そんな物はエリシルにしてみれば、無数にある水の形の一つに過ぎない。ハルカが彼女の声に反応した時には既に次の形があった。

針雨(じんう)」頭上からエーテルを感じ、ハルカはエーテルで防御を固めた。次いで降り注いだのは雨。しかしただの雨ではない。その一滴は岩に突き刺さる程の針。大きなダメージこそないが、延々と防御を続けねばならず、それを解けば即座に血だるまの完成である。

 しかし、ここで立ち尽くしていてもジリ貧でいつかは同じ結末を辿る。ならば打って出るしかない。「ユキミ」彼女はまだ、崩れた岩に呑まれて動いていない。とは言え、この雨の範囲にいないのが幸いである。

「こちとら、こんな所でくたばる訳にはいかないんでね!」

 足の裏に収束したエーテルを加速に変えて、一息に突破、双銃を連射する。しかし、エリシルが悠然とタクトを振るうと前面に水の壁が生まれ、それが弾丸すべてを受け止める。それだけではない。次いで荒々しく振るうと、その水壁が形を失い、波涛となってハルカを押し流した。驚異的な水圧を叩きつけられた彼は、地面に倒れ起き上がれなかった。

 エリシルは頭上に一本の水槍を生み出すと、止めを刺せとタクトを振るった。

しかし、槍はハルカの横に突き刺さった。槍を放つ直前に、上空からユキミが急襲し、それに注意を払ったエリシルが狙い損ねたのである。

 ハルカの危機を救いはしたが、ユキミの不意打ちはエリシルの水壁の前に失敗に終わった。着地したユキミは空かさずに次の一手。瞬時に加速し間合い詰める。しかし、彼女が得意とする近接戦はエリシルの水壁の前には無力。だが、彼女はそれこそを待っていた。

「無駄よユキミちゃん!」エリシルまであと少しという所で、水壁が現れる。それにユキミは片手掌底を放った。掌が水壁に触れた瞬間、そこに溜めておいたエーテルを解き放つ。瞬間、水壁が飛沫を上げて飛散した。だが、彼女の攻撃は止まらない。水壁に破壊するのに使ったのが左手。ならば、右手にも同量のエーテルを仕込んでいるのだ。

「……双頭狼吼」対障壁様の二段構えの技。最早裸となったエリシルに防ぐ術はない。そのはずだった。

「甘いわよ!」エリシルの体を保護するように覆っている水の膜。それは薄く、しかし、巨力なエーテルが込められていた。故、ユキミの攻撃はそれを壊すのに精一杯だった。

「俺もいる事を忘れんなよ!」だが、ユキミは一人ではない。ハルカとて、ただ地面に転がっていた訳ではない。彼は一発の弾丸を放った。

「そんなもので!」防御創術がなくとも、我が身がある。エリシルはエーテルで防御する算段。そこに弾丸が届く。轟いたのは爆発だった。着弾した弾丸が炎と衝撃を周囲に撒き散らし、鮮やかな紅の花をそこに咲かせたのである。“紅華”それが彼の放った創術で、現象は先ほどの通り、着弾と同時に強力な爆発を巻き起こす。連射こそ出来ないが、威力は地面に大穴を穿つ程。流石のエリシルも相当の深手を負った様である。

「……やるじゃない。ナイスコンビネーションよ。まいっちゃうわね」

 愉快そうにクスリと笑うと。タクトを地面に振りかざした。途端に、立ち込める。水蒸気。二人は完全にエリシルを見失ってしまった。

「まさか、逃げるきか?」

「……エリシル様のエーテルはまだ離れていません」

「当然よ。逃げるなんて、ありえないわね~」

 水蒸気は晴れ、距離を取った場所に彼女は立っていた。表情は吹っ切れたように清々しい、雨上がりの空のように眩い笑顔だった。

「私は嬉しいよ。君たちがそんなにやれるなんてさ。だから……」

 そこで言葉を区切った。今まで彼女から放たれていた威圧感が霧散した。しかし、だからこそ二人は恐ろしかった。嵐の前には静けさが訪れるものだ。

「我が水に“意味”を与えん、汝は触れれば奪う。絶対の氷冷」

 その言霊は現象を紡ぎ、彼女の周りをたゆたっていた水が青い輝きを放っている。それだけの変化だというのに、二人の皮膚が粟立って仕方なかった。エリシルから放たれていたエーテル力が段違いに膨れ上がったのである。

「……“神意”ですか?」その意味を知っているユキミは静かに問うた。

「ええ、そうよ。あなたち、人間の創世ほど便利な代物じゃないけど、私たち天使に出来る背一杯だもの。意味を授けるという事はね。それじゃ、酷いわよ?」

 エリシルがタクトを構えると同時に一振りの巨大な水刃が生まれ、手の振りと連動してハルカたちを薙いだ。二人は後方へ跳んで避けはしたが、エリシルの意図は攻撃ではない。

その水刃が切り裂いた地面。その裂傷から大地が瞬く間に凍りついたのだった。

「くそっ! なんだコレ!」

 しかしその現象が生じたのはそこだけではなかった。地面を薙いだ際に盛大に飛び散った飛沫を被ったハルカの左腕がみるみる内に氷に喰われていっているのだ。

「ハルカ、腕を借ります。熱いですが我慢して下さい」

 ユキミはその侵食を続ける氷に掌を翳すと、炎を生み出して強引に溶かした。凍傷と高熱に晒され、苛む痛みに腕を押えてハルカは呻く。

「これはどうやったら防げるんだ?」

「……神意は創世と同じように高度に調和された現象であり、従来の創術のようにエーテルをぶつけて打ち消すには多大な力が必要です。防御をすれば氷付け。避けるしか方法はありません」

「なあ“凪”でも駄目か?」

「……私との共振状態で放った大技なら突破も出来るでしょうが、その場合正面からの打ち合いになるでしょう。そうなれば、こちらが負けます」

 大技というものは、競り合う数秒にどれだけエーテルをつぎ込めるかによって勝者が決まる。つまりは勢いに乗れれば格上にも競り勝つ機会があるのだ。しかし、それにも範囲が存在する。圧倒的な力の前ではその補正も霞んでしまうのだ。

つまり、眼前の大天使は、先ほどの赤龍よりも強敵であり、あの老体とも互角に張り合える格上の化物だという事である。

「どうやって勝つんだよ?」

「愛と勇気です」

 間髪いれずに突っ込んだ冗談が彼女のせめてもの強がりだと分り、ハルカは泣き笑いのような表情になった。エリシルから醸されている力は殺気とは程遠いが、それゆえに、力の差をまざまざと見せ付けられている気がした。事実そうなのだろう。その感情が彼らに対する期待でも、自分が強者だという驕りから生まれたものに過ぎない。殺気とは、それを抱かせるにたる極限の状況に追い込んだ証でもあるのだ。

「愛と勇気か……、それなら最後にはコッチが勝つよな!」

 既に希望は折れた。それでも二人は大いなる存在へと戦いを挑む。例え結果が変わらないのだとしても、挑戦をしなければ変化は揺り起こせないのだから。

「その勇気に敬意を表すわ!」

 僅か上空に浮遊しているエリシルがタクトを勇壮に振るうと、彼女の前に数十個の小型の水刃が生み出された。それが合図。ユキミはあらん限りの力で大地を蹴り、加速、疾走する。目指すは一つ、倒すべき敵の下へ。彼女の行く手を阻む為に降り注ぐ刃の雨。だが、それが彼女に直接届くことはない。ハルカの放つ弾丸がソレの軌道を逸らしているのだ。  

エリシルの莫大なエーテルの込められた一撃を弾くたびに、ハルカは自身の存在が揺らぐような錯覚を抱いた。それでも只管に打ち落とす。それが彼のすべきこと故に。

「頑張るじゃない!」放たれては生まれる水刃の雨。ソレが地面に突き刺さると同時に弾ける飛沫は、僅かであってもユキミを凍らせる。しかし、彼女は自身を炎で包む事でそれを打ち消し続けている。彼女もまた、己の消失がヒタヒタと近付いている足音を聞いた。

「それでもです!」遂に水刃の雨を突き抜けたユキミはエリシルに向かって跳躍した。両手には全力のエーテルが込められている。だが、近付く者を許さないのはまたも水壁。それを打ち破るのに力を使えば、後には何も残らない。

「ユキミを届けるのは俺の役目だぜ!」

 ハルカもまた、死力を尽くして創術を紡いだ。放たれたのは雷炎“雷槍”その炎と雷の槍は、瞬間に水壁へと到達し、“凪”の力も重なって水壁を食い破る。どんなに強大なエーテルも注ぐべき何かが存在しなければ力を発揮しない。

 弱者の足掻きが、確実な前進が、今、彼女の手が届く距離まで到達した。ならば、その手が勝利を掴むとユキミは込めた祈りと力を解き放つ。

「龍気滅点」諸手掌底を通して、エリシルの体内へと解き放たれたエーテルは彼女の体内で荒れ狂い、内器官を食い千切る。内破壊という想像絶する痛みは意識の断絶を、それ以上なら死をもたらす。エーテルを充溢に維持した状態のまま、敵に零距離まで接近し、尚且つ両手の接触をエーテルの伝達を完全に終えるまで保って初めて成り立つ、必殺の技。それは相手とのエーテルの相互反応による破壊なので、敵の力が強ければ威力も増す。

 ならば、どうすれば敵はソレを防げるのか。答えは一つ。意識を失わずに身を、魂を食い千切られる痛みを正気のまま耐え抜くのみ。

つまり、エリシルはそれを行える金剛石の如き精神を持っていたのだ。

「流石ね、ユキミちゃん。でも、私も負けられないのよ」

 ユキミの両目が信じがたい現実を目の当りにして、眼が極限までに見開かれた。エリシルは眼と口から血を垂れ流し裂けた皮膚から噴出したそれで衣服を紅で染めても、意識を保ち続けたのだ。そしてそれは、二人の敗北を意味した。

 氷水の奔流を受け、押し飛ばされるユキミ。全身の殆どが凍りつき受身の取れない彼女をハルカは何とか抱きとめた。

「ユキミちゃん、ハルカ君。コレでお別れよ。ごめんね」

 強大な力のうねりを感じ取ったハルカがそこに視線を向けると、エリシルの前面に巨大な魔方陣が生み出されていた。彼女の作り出したものは“門”である。

「我告げる、開門。ここより出は大海の一片」

 その門から解き放たれたのは、彼女の言葉の如く大量の水。それはこの場に大河を生み出せるのではないかと思える程の水量。かつて世界を構成すると思われていた4つのエレメント。その一つである水、それ象徴たる海。その大いなる一部がここに止め処なく解き放たれているのだ。しかも、ただの水ではない。エリシルによって意味を与えられたモノ。

「逃げようがないな、こりゃ……」

 あと僅かと迫り来る巨大な水の壁を前に、ハルカは佇む事しか出来なかった。

不意に腹部に衝撃が生まれ、後方へと吹き飛ばされた。いつの間にか氷を融かしたユキミが押し飛ばしたのだ。彼女の手に白い炎が宿っている。ハルカは弾かれたように駆け出した。彼女は自分の命を勝利の天秤に捧げるつもりなのだ。

「やめろ……ユキミィィィィィィィ!」

 彼の手が彼女に肩に届いた。その瞬間、世界が暗転した。


「覚醒なさい。アマナシ・ハルカ」

 ハルカが眼を覚ました時、そこは見慣れない部屋だった。何度か訪れ見慣れた青年の部屋とは違う。だが、彼はここがどこかは何故な理解できた。

 一人の少女に与えられた部屋には余りにも広く、整えられた調度品の数々は豪華絢爛。惜しみなく金が掛けられているのが見て取れた。

しかし、この部屋には大切なモノが欠けていた。それは生活感。人の営みの痕跡が全く無いのである。使われない物に物本来の価値がどれ程あるのだろうか。ここにはウィンドウに飾られているような空虚感だけが漂っていた。

では何故そうなのか。理由は一つ。この部屋の主にとって、窓の横に置かれた大きなベッドの上だけが唯一、本当の居場所だからだ。彼女にとって。

「ここは、ユキミ、いや、あんたの部屋なのか?」

「ええ、そうよ。一生の殆どを過ごした、私たち、いえ、あの子の世界の全て」

「なんでこんな映像を見せるんだ?」

 ハルカの問いにコナタが彼の方へ振り返った。彼女は笑っていた。クスクスと。

「これから起きる事実を目の当りにしたあなたは、あの子に対してとても同情をするわ。どんな言葉で繕ってもそうなのよ」

「俺が同情したらどうなるってんだよ?」

「私の出す提案に拒むことができなくなるの。さあ、始るわよ」

 変化は唸り声から生じた。「あっ……ああああああああ」狂ったような喘ぎ声。それはベッドの上、白いシーツに包まって眠っていたユキミが発する奇声であった。

 シーツを跳ねとばし、胸を押えて悶え苦しんでいる。絶えず響き渡る絶叫に、ハルカはこれが過去の映像である事も忘れて駆け寄った。

「なんで誰も助けにこねぇんだよ!」

「だって、あの子が痛みのあまり叫ぶなんて珍しくもないもの」

「痛みだって……?」

「そう、痛み。内から壊れていく、その痛みよ」

 ユキミがベッドの上をのた打ち回っていると、そこに紅いシミができていた。その紅はベッドの白さを侵していく。その血の紅はユキミの蒼い右目から涙のように流れだしたのを皮切りに、口、鼻、耳から流れ落ち、爪の間、終には傷が一つもない皮膚からも染み出してきた。自らの命の証明が、ただ、鮮烈に彼女を染め上げていく。

「がっ、あがあああああああああああ」

 激痛に蝕まれた精神は既に正気を失っていた。それでも誰を求め、床に落ち、這って扉へと虫のように進んでいく。彼女がからだを引きずった跡は紅で残されていく。

「もういい! 何で俺にこんなもん見せるんだよ! 消せよ!」

「駄目よ。あなたはコレを最後まで見なくてはならない」

 生きたいという本能だけで這い進んだユキミにも最後の時が訪れつつあった。喉から張り上げられていた悲鳴は次第に音を失い、それに伴い彼女の動きも緩慢になっていった。それでも前にと伸ばした手には、爪がなかった。彼女が床に爪を引き立てる度に、強く込められた力で剥がれ落ちたのだ。最後、床に五本の線を引いて、彼女の人生は終わった。

 誰にも見取られず、誰にも気にも留めてもらえず。孤独に死んだのだ。

「何だよ……、あんまりじゃねぇか……」

「そうね。この後、ユキミは半日放置されたわ」

 ハチンと指を鳴らすと証明が落ちた様に世界が暗闇に染まった。だというのに、何故か二人の姿はハッキリと視認する事ができた。

「それで、何でこんなムナクソ悪いモンをみせたんだよ……」

「今、私たちは非常にマズイ状態にあるわ。そこで相談よ。この状況を一変出来る方法があるの。実に都合のいい事にね。今のあなたは喉から手が出るほど欲しいでしょ?」

 ハルカは既にコナタの裏を読んでいた。軽く息を吐くとそれを言い当てた。

「言ってやろうか? それの代償が今のユキミだろ?」

「正解。この力を使うと、死に等しき痛みを味わうの。言葉どおり死ぬ可能性もあるわ。でも、あなたはこの力を欲するでしょう? ねぇ? あんな哀れで惨めな終わりを迎えたユキミを助けないなんて事はないでしょう」

 コナタは何がおもしろいのか静かに笑い、そしてハルカを煽る。そんな彼女を見て、ハルカはやはり理解できるような人格で無いと思い知った。

「何がおもしろいんだよ。つーか、こんなもん見せるのは逆効果じゃないのか?」

「あら、そうかしら? あなたは違うでしょう。ヒーローさん」

 ヒーローという単語にハルカは自身の死に様を思い出し、そして、今の在り方を振り返った。それはやはり、ユキミと似たようなものだった。

「はっ、そうかもな。でも今回は違う。俺たちは二人で生きて帰るって約束したんだ」

 だが、ユキミは状況に絶望して、最善の方策を選んだ。その事が鈍い痛みを(もたら)

「そんな沈んだ顔をしないでよね。言っておくけど、あの時、あの子は諦めたわけじゃないのよ。力を使ってでも生き残るつもりだったのよ。可愛いわよね」

 我ながら単純だと感じながらも、コナタの言葉にハルカは自然と笑みを漏らしていた。無茶をしてでも諦めないと願ったのはユキミも同じであったというのだ。

「さて、最後の質問よ。あなたは、自らを滅ぼす力を使って、エリシルを殺す覚悟があるのかしら? それが重要なのよ」

 彼女の質問にハルカは答えに窮した。ユキミとの幾度とない手合わせではソレは無く。レオとの一騎打ちでもソレは無く。赤龍は人でないという逃げ道があり、倒すべき理由もあった。しかし、エリシルは違う。少しの間でも親しく言葉を交わし、ユキミたちとの関係性もあった。彼女に対する殺意も持てずにいた。だが、それはこの世界において甘えでしかない。コナタは迫っているのだ、確かな決断を。正当防衛などという言い訳ではなく、自身の選択で、自身の為に、彼女を葬るという選択を。

 そしてハルカは大きく深呼吸をした。

「決まってる答えを聞くなんて、本当に嫌な奴だな、あんたは」

「それを迫る事に意味があるのよ」

「ああ、迷いが無いと言ったら嘘になるけどよ。俺が殺す。俺の意志で」

「いいわ。確かに受け取ったわ、あなたの決断、意志を」

 コナタがハルカの手を握ると、世界の闇に白い線で描かれたヒビが蜘蛛の目状に入っていく。だが、その事よりもハルカはこの世界での彼女は両目とも紅である事に気を取られていた。血のようにおぞましく、炎のように鮮烈な紅。

「では授けるわ。私の司る力と、あの子の司る意志を。約束して、例えこれからどんな誰かが敵になったとしても、あの子だけは守ってあげて。お願いよ」

 その言葉を最後に、世界は白く塗り潰された。


 エリシルが見下ろす大地は、彼女の解き放った洪水と神意の能力で一面が氷河となっていた。見渡す限りの白く凍った世界。洩れる吐息も白く輝いていた。

 だが、一箇所だけ氷に呑まれていない場所があった。そこからは紅に燃える炎の柱が天へと昇り、それによって融かされた氷が白煙となって風に棚引いていた。

 そこに立つのは一人の少年。戦いの激しさを物語る黒服の破れと傷の数々。だが、そんな状態であっても彼の眼には爛々と生の輝きが灯っている。そして彼の背には彼を守護する正真正銘の“神”が宿っていた。

「……そう。そういうことね……正直、驚いちゃったわ……」

 ハルカの背には半透明の肉体となったユキミ。だが、彼女の背には6対12枚の翼、闇に染め上げられた美しい黒翼が生え、銀の光を放つ大輪のハイロォを背負っている。その姿は数多創作に描かれてきたであろう神々しき者。ただし、彼女の性質は逆である。

「汝、我らが主の敵。ゲヘナの統治者。パンデモニウムの玉座に座りし万魔の主。汝の名はサタン。魔王の頂バチカルに座す魔性の神なり」

 真実の天使エリシルは一目で彼女の正体を見破った。溢れ出る魔性を帯びたエーテルは天使の最高位たる熾天使にも遠く及ばない力ではあるが、その底知れぬ異質さは彼女の眼を以ってしても見通す事はできなかった。ただ向かい合うだけで汗が噴出し、震えが止まらない。我を失って地に落ちる恐れがあったので、彼女は滞空を止め地面に降りた。

「あなたはユキミちゃん……なの?」彼女は声すらも恐ろしさに震えている。

「……はい。これが私の本当の姿……らしいです」

「そう……」とだけ呟いたエリシルは咄嗟に展開していた交信の創術を消去した。

天使たちの間では、かつて姿を消したサタンの復活は、悪魔との最終戦争(アルマゲドン)の始まりと伝えられている。そして、彼女の、今、天使としての役割は大敵の再誕を全天使に伝え開戦の準備を促す事にあった。

 しかし、それはユキミたちとの約束を反故することであった。

(まったく、馬鹿ね。私は。それでも、もう役割の義理は果したし、いいよね……)

 真実の天使としての誇りが、目の前の魔神がサタンではなく妹のように接してきたユキミだと告げている。それは神に対する裏切りであり、げに愚かしき行為だろう。それでも、彼女は、己の天使であるという想いと彼女自身の誇りの為に知りえた真実を胸にしまった。

「じゃあ、これで最後ね」

 エリシルの言葉に二人もそっと頷いた。

 共振状態であるハルカにはサタンとしてのエーテルが流れ込んできている。それはとても人間の身に負えるものではなく。ただ共振状態を保つだけでも全身が火に焙られている様な痛みが襲いかかってきていた。まるで地獄の業火に生きながら焼かれるように。

 そして、サタンの力を引き出すという事はより地獄を味わうという事である。

(だが、コレを耐えなきゃならない。ユキミがそうしたようにな!)

「我、呼びしは無価値なる者“ベリアル”。来たれ彼の者の炎、その戦車の両輪よ」

 ハルカはサタンの能力、万魔を従える力を使って悪徳の魔王の象徴を呼び出した。それは白い炎を纏った二つの車輪。魔王ベリアルが乗って現れるという炎の戦車の両輪。

 それを呼び出した瞬間。ハルカを蝕んでいた痛みが苛烈さを増した。それは内側から身を食い破られるような痛み。悶死してもおかしくは無い狂気の激痛。皮膚が裂け血を流し、爪の間から血を流し、口の端から血を流し、そして両の眼から血の滂沱を流している。

 これがユキミを殺した内なる破壊。刻一刻と意識が薄れていく。

「我、彼の炎に意味を与えん。汝、全てを焼き喰らう。灰も残さず」

 二つの車輪に神意を与え、その炎は猛り狂って轟々と吼える。敵を喰わせろと。

 だが、己の終わりも近いというのにハルカは一つだけ訪ねずにはいられなかった。

「なあ、エリシル様。もう良くないか? これでさ……」

 こんな時であっても彼は、エリシルすらの命を助けようとした。

「残念ながら……ね。これが天使の、私の生き方だから」

 ハルカの願いをエリシルは笑って断った。それが三人の関係性の終わりであった。

「残念すっよ……。……いけ……往けよ、ベリアルの車輪。俺たちに……勝利をっ!」

 己の弱さか、彼女の頑迷さか、世界の不条理か、その全てか。ハルカはただ己の呪詛を吐き出す様に咆哮を上げ、血反吐を吐き、暴力を解き放った。

 眩い白炎の轍を後に残し、二つの車輪は焼き殺し轢殺する為に地を駆ける。

その熱は瞬く間に氷河を融解させ、エリシルの放つ様々な創術を焼き捨てた。

 走る走る、数多の焼き殺した怨霊を引いて。走る走る、更なる生贄を求めて。

「ごめんなさい、エリシル様。私はあなたを本当の姉のように思っていました」

 エリシルは全てのエーテルを圧縮した一振りの水剣を、眼前に迫った滅びへと打ち出した。煌く水飛沫とそれがもたらす透明の氷結。対するは全てを無へ帰す白い炎。拮抗する力二つ。だが、魔王の力は紛れも無く強力無比であり、僅かの後にそれを飲み込んだ。

 故に、ただ彼女は万物を塗り潰す圧倒的な白に消え去った。

「バイバイ、ユキミちゃん」


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