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第3話「牢獄の誓い」

第3話「牢獄の誓い」

 この日、二人は日中賑わう街中を疾走していた。飛び込みの稼ぎ話が入ってきたからだ。

「しっかし、あんな事になってんのにこの街の住人はのんきだねえ」

 ハルカが呆れるのも無理はない。彼らの進む先、まだ距離があるとはいえ異常な事態が起こっていた。その場所からは黒煙が濛々と立ち昇り、恐竜のような叫び声と人々の怒号、そして明らかな戦闘音が轟いている。事実、たった今そこの上空を飛行していた戦闘機が炎の塊の直撃を受けて墜落したところだ。

「あれ、俺たちにどうにかできるのか?」

 彼らはそこに“何”がいるのかを知らされている。ハルカはコジロウの言葉を思い出していた。流石にその指令を受けた時、彼は全力でお断りを入れた。が、無駄だった。

『いいか。君たちに仕事だ。何でも成体の龍が街中で暴れているそうだ。老体のなりかけらしく手ごわい奴だ。命知らずが群がっているそうだが、まだ仕留められていない。エリシルとオウカ都市運営委員会が連名で、説得または無力化に成功した人間に大金を振舞うそうだ。お前たちも命知らずになってこい』

「行くなら自分でいけっつーの!」

 思い出しただけで苛立ちと胃の痛みがブリ返してきた。とはいえ、先日のレオと一対一での大敗以来、力不足であると判断されたハルカは、ユキミ軍曹との地獄のデスマッチを続けさせられていた。そろそろ自分の特訓の成果を試したいとも考えていたハルカは良い機会だと、内から込み上げて来る文句を強引に嚥下した。

「そもそも、なんで龍が暴れてるんだ? つーか龍ってなんだよ!」

「……龍というのは霊獣の一種です。霊獣というのは物質界で高度な精神を育んだ獣がこちらの世界で再誕し、進化、種の保存を行って生まれた生物だと考えられています」

 生前の世界で死んだ動植物は基本コチラの世界に再誕する事はないが、一定の精神性を身に付けた生物はその括りではないという話をかつて聞いた事をハルカは思い出していた。

「じゃあ、何で知的生命体である龍は街中で暴れてるんだ?」

「……愚か者が龍の幼体を攫ってきたそうです。その親が追いかけてきたんですよ」

 例え怒りの感情を覚えても表情に表わさないユキミが、今回は珍しくその憤りを顕にしている。龍に同情的な態度から、彼女の意志をハルカは汲み取った。

「一つ聞きたいんだけどよ、ひょっとして説得する気か?」

「……非はその人間にあります。出来ればそうしたいです」

「分ったよ。でも、その役は俺に任せてくれ。ユキミじゃ……」

 戦闘技術こそ一流だが、彼女にそういった役回りに必要な話術という能力が欠落している点をハルカはよく承知していた。それ故の提案だった。

「……言いたい事は分りますが、そこで言いよどむのはハッキリ言うより失礼です」

「はは、悪かったよ」

  

 二人がそこに辿り着いた時、そこは戦場だった。周囲の建物が炎上崩落し、今もまた一つビルが瓦解した。周囲の人間が応戦するも、10メートル以上はあろうかという赤龍の圧倒的な巨体に、彼らの攻撃は余りにも無力。対して、蹂躙する側にしてみればムシケラに等しい襲撃者たちを口から吐いた炎の吐息で灰も残さず燃やし尽くし、巨体から繰り出される四肢や尻尾の一振りで肉塊へと変え、圧倒的なエーテル力によって生み出された創術によって殺戮し尽くした。

「これ……ヤバクね?」

 想像を絶する破壊。満ちる死臭。ハルカは一目惨状を見た瞬間から回れ右をし、逃げ帰りたくなった。横目で伺うと、流石のユキミも堅い表情をしている。

「……大仕事になりそうですね」

 彼女の言う所の大仕事がどれ程の困難を示すかは判らないが、最悪の展開になったとしても彼女は龍を倒しきる可能性を見出したという事だ。おそらく、その計算の頭数に必ず含まれているハルカは弱音を飲み込み、逃げ出しそうな体を自制しその場に踏みとどまった。彼女を一人残して遁走する訳にはいかないからだ。

「それにしても人数が少なくないか? それに強そうなのがいねぇ……」

 龍と戦っている人間を見て、ハルカはそう思った。提示された額は莫大なものである。ならば相当数の人数と実力者がそろって然るべきのはずが、そうではない。

「……そうですね、達人クラスを呼ぶには龍が弱く、実力者たちは報酬が吊り上るのを待っています。今戦っているのはそれ以下の人たちで、おそらく既に結構な数の方が亡くなっているでしょう」

「あの額でも見合わないってかよ。オイオイ」

 自分たちがレートの悪い賭けに駆り出された事実に深い溜息が漏れたが、そもそもあの所長が自分たちの安全を考慮に入れない事など分り切っていた事なので、あとはハルカ自身が覚悟を決めるしかなかった。

「そんじゃ行きますか……」

 ユキミは首肯すると駆け出し、ハルカもそれに続く。赤龍と戦っていた傭兵たちがその強大な暴力を目の当りにして隙を伺っている今こそ好機であったからだ。

 最早、赤龍の前に立つ者などいかなかった。だからこそ二人はソレの眼前に立った。

 人間を等しく敵と見なしている赤龍は相対する者の殺意など既に斟酌していない。ソレが与えるものは等しく消滅。大きく口を開けると奈落に繋がっているかのような暗黒の穴、その奥からマグマの如き鮮烈な紅が溢れ出して来る。そして吐き出されたのは隕石の如き巨大な炎塊。黒煙と劈くような爆音を引き二人へと打ち出された。

「勘弁してくれよな」

ハルカがぼやきながら具現化したのは双銃“ヘンゼル&グレーテル”。それの銃口を向けると全面に魔方陣が展開。

「万壁穿て “雷槍”!」

 そして放たれた電磁投射砲(レールガン)。プラズマの炎を引きながら天を駆ける閃光は龍の吐き出した炎塊と正面から衝突。その瞬間、その灼熱は霞と消え失せた。

 その現象はレオとの戦いで見せたもの。あの後判明した事だが、それはハルカの双銃の特性であった。心象武器にはそれぞれ特有の創術が宿る。ハルカのそれは現象破壊。つまりは相手の創術を破壊するのである。通常10のエーテルが込められた創術を相殺するには10のエーテルが必要になる。しかし、ハルカの特性は10に対して5で相殺を可能にするのだ。コジロウはこの特性を“凪”と呼んだ。だが、一見便利に見えるこの特性にも多用できない点があった。それは

「やべっ、クラっときた……。神経が衰弱したぜ、なんてな」

 ハルカは脳神経が焼けきれたような痛みを感じて頭を振るう。若干の視界のブレ。

 本来、心象武器やそれに伴う特性は本人に適した形となるため、使用による負担が少ない。しかし、ハルカの特性は通例とは違い、使用に多大な集中力を要する。通常の弾丸と併用ならばそれ程だが、大技となると負担も各段に増加する。実際に凪を使って確かめ事だが、集中力を欠いた状態で凪を大技と併用すると、魂が傷を負い、数日間回復を要する事となった。コジロウの見立てでは最悪消滅にいたる可能性があるとの事だ。更には連用にもリスクが存在し、軽く多く使うか、大きく少なく使うかの偏った運用になるのだ。

 とはいえ、効果は絶大である。大きなエーテル差があった炎弾を思いがけず掻き消された赤龍は驚き我を忘れた。その瞬間にユキミが龍の頭目掛けて跳躍し、そこを小突いた。

 傍から見れば大した動作ではなかったが、赤龍は全身が麻痺したようにその場に崩れ落ちた。彼女の技は、対象の頭部の正確な点にエーテルを流す事によって、脳のエーテルを撹乱し行動を阻害するもの。ただ、対象が龍であるため、彼女はほぼ全てのエーテルをその一撃に乗せた、捨て身の一撃であった。

「貴様、私に何をした?」

 動作とエーテル周りの活動を封じただけなので、龍の瞳が不埒な虫けらを睨み添えた。そして彼が発したのは人語。知的な深さを含んだ壮年の男性の声だった。

 ここから先は自分の役目だと、ハルカは後ろにユキミを隠し大いなる赤龍の前に立った。

意外にも落ち着いた口調の赤龍であったが、その瞳にはこの者が聡き者かどうかを見極めんとする理性と、そうでない場合の暴虐の炎の両者を宿していた。

 チキンハートのハルカはそれだけで心臓の鼓動がハイビートを刻んでいたが、己の身に(やま)しさを欠片も抱いていないので胸と虚勢を張りに張って応えた。

「俺たちの話をきいて貰いたくて動きを止めさせてもらいました。俺たちがあなたのお子さんを探し出しますので、ここは引いて頂けないでしょうか?」

「笑わせるな。貴様の言葉を如何して信じられるか?」

「慧眼をお持ちのあなたなら、俺たちが伊達や酔狂でこんなリスクの高い戦術を選び、我が身を晒して説得している訳ではないと、見抜いておられるはずです」

 赤龍はその牛をも一飲みしそうな巨大な口を更に大きく開けて高笑いをした。動きを封じられているとはいえ、ハルカは捕食者のピラミッドで人間よりも遥に上位に位置する巨龍を眼前に、平常心でいられる程豪胆な心臓を持ち合わせていない。今の彼は、冷や汗を滝のように流がし、愛想笑いが若干痙攣していた。

「フハハハハ、良い吼え方をするな、人間よ。お前たちは紛う事無き愚か者よ。ハハハハ! げに面白き! よかろう、ここは引く。我が仔と(かどわか)した咎人を連れて来い。いいな?」

 二人はここまで上手くいくとは予想だにしていなかったので、最高の成果に思わず顔が緩んだ。たかが数分の説得でどうして信頼を勝ち得たのかは不思議なところだったが、取り合えず二人は手に入れた大金星に素直に喜ぶ事にした。

「ありがとうございます! 必ずお子さん――」

「おや、親の方も捕まえられていますネ。これは好都合デス。ササキさんところのお二人、どうデス? ソレを私に譲ってくれませんカ? お高く引き取りますヨ?」

 そのベストエンドは乱入者の出現によって地獄の最下層のように凍り付いた。なぜならば、その乱入者こそ全ての元凶である真の愚か者であったからだ。その姿からして異彩を放っていた。その男が身に付けているのは黒と白を左右で塗り分けたスーツとシルクハット。顔にはピエロのフェイスペイント。そして、見た者の気を逆なでするような不自然に引き攣った笑みを浮かべている。道化と呼ぶに相応しい存在だった。

「き……貴様が、我が仔を(かどわか)した者か……?」

 先ほどまでの理性が鳴りを潜め、剥き出しの敵意と憎悪が怨敵へと向けられる。しかし、当のピエロは僅かも焦りを見せない。故に二人は奴に底知れぬ不気味さを感じ取っていた。

「ヒャハハハハ。そうですネ。そうですヨ。私があなたのお子さんをかっぱらった者デス。マア、いいじゃないですカ? 所詮は爬虫類、また生めばいいじゃないですカ?」

 ピエロの吐いた雑言は気高き龍の誇りすら踏み躙った。業火のように燃え立つ憤怒を未だに押え込んでいられるのは、あと一つだけ問わねばならない事があったからだ。

「それで私の仔は今、どこにいる?」

「アア。あの子ですカ? いやぁ、人型だと実に可愛らしかったんデ、惜しくはあったんですがネ。クライアントの方がどうしても肝が欲しいといいますカラ。殺しましたヨ」

「モウイイ。イネイ」

 そして赤龍が吼えた。その咆哮は強力な衝撃波を伴い、その周囲を瞬時にして薙ぎ払った。二人は地面に伏せやり過したが、例のピエロはまるで足に根でも這えているかの如く、その場で身じろぎ一つもせずに真っ向から受け止めた。

「あ……あいつ化物か?」

「私の後ろにいてください」

 一瞬呆けていたハルカは肩をつかまれ強引にユキミの後ろに回された。その直後だった。赤龍がその怒りを炎に変えて解き放った。龍を中心に全域に放たれた紅熱の嵐は周囲あらゆる物質を赤色に融解させ、暴風で洗い流した。轟々と真紅が轟く中、ハルカとユキミの周囲だけは彼女の張った結界で防がれており、その外側が蹂躙されていく様がはっきりと観察できた。

「まじ……かよ……。何も残ってねぇ……」

 周囲500メートル程が完全に焦土と化し、未だ炎と黒煙を上げて燃え上がっている。炎の嵐を耐え抜いた者たちも皆一様に呆然としている。しかし、その中にこの惨状を引きこした原因たるピエロの姿は消え失せていた。しかし、死んだとはとても思えなかった。

「GYAAAAAAAAAAAAA」

 その時だった。怒りに己を失った赤龍がその巨大な羽を広げて天へと吼えた。そして猛火に染まった視線が向かう先はハルカとユキミ。最早全てを焼き尽くすまで止まらない龍は近場にいる虫けケラから焼き殺すつもりである。

「おいっ! こりゃヤバイって! 逃げるぞ!」

 大きく口を開き、その黒穴から血よりも濃い紅の輝きが洩れ眩さを増している。しかも、そこに込められているエーテルは先ほどのブレスを遥に凌駕し、ハルカの雷槍に凪を加えてたとしても相殺は不可能な強大さであった。

「……逃げても間に合いません」普段よりも一際小さな掠れた声。そして彼女は何かを見つけて空を仰いだ。そこには数人の天使たちが弧を描きながら状況を伺っている。

「……コナタ、選択肢はありません……ええ……を使います覚悟の上です……」

 ユキミが眼を伏せて誰かと話している。小声ではあったがそれがコナタとの会話である事は聞き取れた。だが、何をするつもりなのかまでは無理であった。

「おい、何か――」「あなただけは生きてください」

 赤龍の口から絶命の焔が吐き出され、ハルカが訊ね、ユキミの別れの言葉が重なった刹那、ハルカは彼女によって強く蹴り飛ばされた。

「ぐっ! 何を――」直後だった。赤龍の放った紅炎とユキミの放った白炎が衝突したのだ。ただ彼女が手を翳しただけで、その美しい白い炎は空間から溢れ出し、奔流となって突き進み、赤龍のブレスと拮抗するどころか押し返していた。それは普段のユキミからは考えられないほどに異常な量のエーテルであり、異質な何かであった。

 そして白き炎は二人に終わりを与える筈であった紅き炎を塗り潰し、終には赤龍をも飲み込んだ。

「GRYAAAAAAAAAAAAA」

 赤きエレメント、炎を司る紅の龍が炎によってのた打ち回っている。それは異常な状況であった。生き残った周囲の人間、監視していた天使すらも息を呑んで見守っている。

 そして、白炎のもたらす苦痛から逃れるように、赤龍は翼を広げると空へと昇り飛び去っていった。

状況の飲み込めていないハルカが去って行った赤龍の影を見続けていると、ドサリという音がした。そこには糸の切れた人形のように地面に横たわるユキミの姿があった。

彼女は龍が飛び去ったのを見送ると地面に崩れ落ちたのだった。

「ユキミ! オイッ! だい……丈夫……か……」

 抱き起こしたユキミの状態は一目で異常である事を理解できた。全身から異常な量の発汗が起こり、息が荒い。そして何より彼女の右目、蒼い瞳から相反する紅の血が止め処なく溢れている。それだけではない。鼻や口からも血が零れていく。

「ゴフッ! ガ、ア……」空気を求めるように口を開けば、血の混じった咳が紅い霧を作り、ハルカの顔を僅かに染めた。

「おい、オイッ! 何だよコレ。ユキミ、どうすりゃいんだよ! オイッ!」

 錯乱しているハルカの肩を誰かが掴んだ。彼はそれを救いの手であると信じ、期待を込めてソレを見上げた。だが、彼はユキミの最後の言葉の意味を知る事となった。

「邪魔だ、どけ。こいつは間違いなく悪魔だ」

 忌々しげな感情が込められた言葉と共にハルカは後方へと投げ飛ばされ、地面を転がった。彼が顔を上げたとき、血を流し浅く痙攣を繰り返しているユキミが巨体の天使二人に左右から引き摺り上げられていた。それは罪人を連行するかの様。

「オイッ、待てよっ! 何してんだよ! 見て分んねぇのかよ? その子は今あの化物を退けたんだぞ! しかも自分が死に掛けるのも分った上でだ。アンタら見てただけだろ? いまさらノコノコ出てきて何、英雄を犯罪者扱いしんだよ? テメェらふざけんなよッ!」

 命を懸けて街を護った者に対する仕打ちへの怒りも勿論あったが、それ以上に異常をきたしているユキミへの扱いに憤怒を覚えていた。

「フン。猿が、説明してやろう」

 そこに一人の天使が舞い降りてきた。彼はかつてユキミに絡んできた陰湿な天使トゥリであった。彼は節々に見える傲慢そうな動きで眼鏡のズレを治すと陰鬱で嗜虐的な笑みを浮かべた。

「私たちとてこの街の治安を任されている身、ヤツを討伐せんと突撃の機会を伺っていた。しかしだ、それよりも先に見事、麗しの彼女が大敵を退けた。そこまではよかったのだ。問題はその攻撃。その時、彼女から感じとったのだよ……」

 顎を引き、ハルカを見据える暗い瞳が刺す。トゥリの口が得物を丸呑みせんとする蛇の様に大きく裂け、笑みを作った。

「……何をだよ?」

「魔性、つまり悪魔から感じるエーテルですよ。それを彼女から感じた。我々の大敵である悪魔を発見した場合、抵抗されなければ本部へと移送となるのですよ。お分かりか? 彼女は悪魔である可能性が高いのですよ。我々の敵であるね」

 敵を見つけたら連れて行く。その理屈はハルカに理解できた。だが、それは天使と悪魔の都合に過ぎない。ただの人間であるハルカには従う義務も義理もない。

「なあ、それが人間様である俺に関係あるか? ないよな?」

 燃え上がる敵愾心。普段の臆病は湧き上がる憎しみに上書きされた。彼が双銃を具現化すると、天使たちも殺気だった。張り詰められた糸が切れたら、そこは戦場となる。

 ただその時を待った。だが、その緊張の糸は違う形で切られた。ハルカの耳に掠れて弱々しい彼女の声が届いたのだ。

「……ハルカ……いいんです。銃を……収めて……下さい」

 絶え絶えの言葉で紡がれたのは静止。ハルカは思いがけぬ願いに感情の捌け口を失ってしまった。

「何言ってんだよ! おかしいだろコレ? 俺はお前を」

「何も……しないで……下さい」

 断言された拒絶にハルカは口を開けて立ち尽くした。会話の終わりを悟った天使たちはユキミを吊るして天へと舞い上がっていく。

「待てよ! 何でだよ。俺は――」

 ハルカがユキミを連れ去っていく天使たちに向けて双銃を発砲しようとした瞬間だった。彼の頬に石のように硬く握られた拳が減り込み、殴り倒された。

「ガァッ! 誰だ、邪魔するなっ!」

 一息に起き上がろうとしたハルカのみぞうちに堅いブーツの先端が蹴り込まれた。溜まらず腹を抱えて蹲るハルカ。彼がようやくその暴力の主を見上げた時、そこにあったのは仇敵であるレオの姿だった。 彼の表情にもありありと分る怒りが塗りつけてあった。

「おい、あんた。何邪魔してんだよ! あんただってユキミを助けたいだろっ!」

 レオは顔を狂相に歪め、血が出るほどに歯を喰いしばると、地面に跪いているハルカの顔面を蹴り飛ばした。鉛のように重い一撃はハルカの歯を砕き、数メートル吹き飛ばした。

「ああ、そうだなァ。助けるべきだったよ。だがな、オレは彼女の意志を優先させた。分るかァ? 今のオレがどれ程、テメェを八つ裂きにしてやりたいかをよォ」

 焼き付く憎しみ。レオが一歩、歩を進めるたびにひりつく殺気が激しくなっていく。だが、怒れる獣はレオ一人だけではない。ハルカは己の無力さが憤怒の炎となって捌け口を求め、揺らめいている。そしてその対象が眼前にいた。

「なら。助ければよかっただろうが。何してんだよ?」

 そして二人は僅かの距離を開けて互いを睨み合った。互いに一つの感情を共にしながら、二人の意思の在り処は重なり合う事はない。

「応えろよ。あんたはなんでユキミを助けなかったんだよ?」

「分んねぇのかァ? 彼女はお前を助ける為に命を貼ったんだぜ。それを俺がブチ壊せるわけねぇだろ?」

 レオの答えはハルカが眼を逸らした真実だった。彼女の言葉はただ、彼を案じる物ばかり。つまり、ユキミは、徹頭徹尾、彼を護る事で己を犠牲にしたのだ。

「…………そうか。そうだよな……」

 それを直視した途端、彼の中に在った強い感情の炎が吹き消された。あとに残るのは悔恨と無力さのみだった。

 レオは途端に弱々しくなったハルカに舌打ちすると、躊躇なく頬を殴り飛ばした。

「いいかァ? 助けに行こうなんてすんなよ? テメェ一人が行っても無駄死にするだけだだからよ。それじゃ、お姫たちがヤッタ事が無駄になる。テメェは家に帰ってクソしてねてろ、このゴミがァ」

 レオは唾を吐き捨てると去っていった。何一つ言い返す術を持たないハルカは心身を苛む痛みに身を任せ、ただどこまでも高く何も無い蒼い空を見上げるのみだった。


 ハルカはこの世界で学んだ事が幾つもある。その一つは命ある限り機会は巡るという事だ。失敗をしても、それを挽回すれば良い。それだけだ。

 彼は強い想いを胸にストーンフロウ事務所の玄関を開いた。確かに自分は敗者で無力だった。彼はそれを自覚している。だが、彼にも切り札がある。

(いつも何してんのか分んないんだし、こん時ぐらいは頼りになるはずだ)

 彼の視線の先には、雑誌で顔を覆い事務机に長い足を投げ出し居眠りをしている人類最強の姿があった。それは確実に勝利できる切札だった。

「なあ、起きてますか、所長?」

「ああ、起きている。なんだ、ハルカ君。ユキミ君がいないようだが?」

 この男はそ知らぬ振りをして何でも知っているのではないか。そういった疑問が涌いてきた。だが、この状況ではそちらの方が話が早い。ハルカは焦り(はや)っていた。

「聞いてくれ所長。ユキミがあのクソ天使たちに攫われた! 俺だけの力じゃ、どうにもできねえ……。あんたの力を貸して欲しい。頼みます」

 コジロウはこちらを見ていないだろう。それでもハルカは深々と頭を下げた。最早縋るべき藁は一本しかないのだから。

「そうか、攫われたか……。自力で脱出できればいいが。でなければそれまでだ」

「は?」今、コジロウが何と言ったか正しく認識できなかった。

「なあ、助けてくれるよな? あんただってユキミのこと可愛がってたじゃねぇか。あんた、人類最強なんだろ? 助けられるんだろ?」

 顔から雑誌を取ったがコジロウの視線は天井を向いたままだった。

「そうか、君は知らないんだったな。君は対天使戦争という言葉を聞いた事はないか?」

「……知らないですけど。それがどう関係してんですか?」

 その言葉には聞き覚えがあった。マスターの話に名前だけが出ていたからだ。しかし、それとユキミ救出との関連性が見出せない。ハルカの表情が険しくなった。

「当時、天使は今以上に傲慢で人間たちは彼らを恐れていた。そして事件は起きた。一人の少女の死を切っ掛けにうねりが生まれ、それは次第に大きくなっていた。私やムサシも加わり、悪魔どもも狡猾に動いた。結果、大戦の勃発だ」

 彼は当時の思いを馳せているようだった。そしてその記憶は哀愁と呼ぶには余りにも醜かったようであった。彼の鋭い目つきには研ぎ澄まされた刃のように冴え冷えた輝きが揺らめいていた。

「当時の私は今以上に力を求め、強者を求めていた。只管に刀を振るい、死体の山を築き上げた。人は私たちを英雄のように語るが大きな誤りだ。生き残った私たちこそが、忌むべき愚か者だ」

 彼がその過去を悔いている事はハルカにも感じ取れた。しかし、彼の後悔とユキミの救出との関係が未だに見えてこない。彼の焦りが忍耐を削りきりつつあった。

「ふっ。そうだな、結論を言おう。その後、天使と人間との間には相互不可侵を取り決めた。ただ、人間は天使に治安維持を依頼し、天使の任務の妨害をしない事と協力を約束した。その一環で、私たち生き残りは天使と事を構えないという取り決めをしたのだ」

 天使たちが挑発行為を行っても本格的に攻撃してこなかった理由が判明した。そしてコジロウが非協力的な理由も。ハルカも頭では理解しているだが、納得できるほど精神が諦観で擦り切れていなかった。

「つまり、あんたはその約束とやらを護るためにユキミを見殺しにするという事ですか? 俺たちはあんたにとってその程度の存在でしかなかった訳ですか」

 コジロウは良く「殺す」といった。それは本気の言葉かもしれない。しかし、それでも彼の事を信じていた。自分たちがどうにもならない困難に襲われた時、最後には彼が纏めてくれる。そう信じていた。

「言ったはずだ。この世界で信じられるのは自分の力だけだとな。私は給料と生活の場所を提供するだけだ」

 そう冷たく言い切って煙草に火を点けるコジロウ。その紫煙が立ち昇って消えるように、ハルカの中でのコジロウに対する信頼や尊敬が消え失せた気がした。

「そうですか所長。あんたはそこで寛いでろよ。あんたが正しい。これは俺のやるべき事だったよ」

 まさか身内と思っていた人間がここまで心が冷え切るとは思っていなかった。ハルカは踵を返すと摩硝子(すりがらす)から夕日が透ける玄関の扉から外に出て行った。扉が開かれた際、一際強い風が入り込み、コジロウの煙草の煙を攫っていった。

「動かない事の方が、動く事よりも苦しい時がある。良いのか? お主が恐れている地獄の姿を奴に教えんでも?」

 大木のように芯の通った男性の声が響いた。それは三毛猫、ムサシのものだった。問われた本人のコジロウはただ肩を竦めるだけだった。

「動く事の出来ないハリボテが出来る事は、血気盛んな若者を炊き付ける事だけだ」

「フム。確かにな。だが、想いは伝えなければ存在せぬに等しい。お前がどれ程家族を愛しているか教えてやれ。ヌハハ」

「ほざけ化け猫。俺たちはかつてこの大陸にあった数億の命を見捨てた者たちだ。だからこそ下手は打てない。……今はな」

 コジロウは縁にかけてあった大太刀を握ると時を待つように眼を瞑った。


 迸る激情に突き動かされ街を駆け抜けたハルカ。目指す先は天使たちの住まう場所、聖城。しかし、その歩幅は城に近付くにつれて小さくなり遂には足を止めて立ち尽くしてしまった。刻は逢魔、太陽から流れるオレンジ色のスペクトルはこの不条理な世界を暖かく包むというのに、ハルカの心は冷え切っていた。

「……俺一人で何ができんだよ……」

 弱き言葉を音に出せば、より一層彼の心は崩れ落ちた。大軍に一人で向かっていける程、彼は勇ましき者の精神を持ち合わせっていなかった。故に彼はそこでただ木の様に佇む事しかできなかった。

「お困りですか、ハルカさん?」

 綿のように柔らかい声が掛けられ振り返れば、優しい微笑を湛えたゼラが立っていた。手には紙袋一杯に物が詰められている、おそらくは買物帰りだろう。サングラスで秘められている瞳、それなのにハルカは優しい眼差しを幻視し泣きそうになった。

「マスター……俺はどうしようもない奴です……」

「立ち話もなんです、店に行きましょう」

 ハルカは声も出せずに首を縦に振ると、ノロノロと歩き出した。太陽はあと少しで地平の彼方へと帰ろうとしている。


「そうですか、ユキミさんが天使に連れて行かれましたか」

 粗方の説明を聞き終えたゼラは複雑そうな響きで嘆息した。閉店にした店には誰もおらずBGMもかかっていない。静閑と静まった店はハルカの孤独を掻き立てたが、ゼラの出してくれた紅茶でそれを紛らわせた。

「マスター、情けない話です。俺は怖いんですよ。死ぬ事もそうですけど、何も出来ないで終わる事、もし辿り着いたとしても拒絶されるかもしれない事、そしてその先も、何もかもが怖いんっすよ」

 ハルカは弱い自分を罰するようにカウンターに頭を打ちつけた。彼の中では数多の恐れが煮詰まり混沌を生み出していた。その泥が彼の足に纏わりつき歩を妨げている。

「そうですね。おそらく誰も助けてはくれないでしょう。誰もがあの戦争を恐れていますから。誰も恐れて刃を向ける事ができない」

「その戦争ってそんなに酷かったんですか?」

「ええ……。あれこそ最終戦争(アルマゲドン)ですよ。たった三ヶ月であんな事になるとは誰も思わなかったでしょう……」

 常に温和なゼラからその暖かさが消え失せ、代わりに脅えが戦慄きとなってあらわれた。その取り乱し様が嘗ての戦争がどれほどの惨状かを知らしめた。

「どれだけ酷かったんですか? その戦争ってヤツは……」

「私も直接体験した訳ではありません。その直後に入りましたが。……そうですね。たった三ヶ月でこの大陸に存在した数億の人間がたった5人を残して全滅したんですよ」

「…………は? ぜん……めつ……」

 ゼラの言葉はハルカの想像を絶していた。地球にも大小種種様々の戦争が人類史の始まりから現代に到るまで綿々と起きてきた。歴史を紐解けば一つの部族や都市、村が全滅させられたという記述がみつかるかもしれない。しかし、この戦争はそれに比べてスケールが違いすぎた。数億というのは日本人を鏖にしてもまだ足りない。間違いなくそれは人類にとっての災厄であった。

「何があったんですか?」

「戦争中、おそらく悪魔の張ったと思われる強固な結界が張られ内部の状況はわかりませんでした。しかし、生存した人間5名と天使7名の証言を照らし合わせた結果、天使側の使った大規模殺戮創術が敵味問わずに多大な死者を出したそうです。そのまま泥沼化、その果での最終決戦で結局生き残ったのが十数名。そして天使と人間の間で取り決めが交わされ、それはこの煉獄全土に広がったのです」

 ハルカはコジロウが天使と事を構える事を拒否した理由をようやく理解できた気がした。彼はその地獄の渦中で修羅として生き、その行動の果てに余りにも多くの罪としがらみを背負ってしまったのだ。

(もし俺だったら耐えられねぇよ、そんなの……。だけどよ)

 かつての地獄を知った。その火種になる可能性が自分にある事も。だが、それでもハルカはユキミを天使から救いたいと願った。その祈りはどれ程罪深い想いなのだろうか。

「ハルカさん。それでも、あなたはユキミさんを助けたいと思っていますね? 私はそれでいいと思いますよ。今はだいぶマシになりましたが、それでも一分の天使たちは横暴なままです。かつての戦争は天使たちの傲慢さに端を発しています。ならば、歯向かう牙を折られた現状は、その戦争で死んでいった人々の犠牲を無駄にしているという事です」

 俯いていたハルカはゼラの行動の肯定によって顔を上げた。彼は笑みではなく厳しさを宿した精悍な表情でハルと向き合っていた。

「指し示す者として、あなたに応えましょう。あの戦争の後、人間には“可能性の獣”という俗称がつきました。それを初めに口にしたのは天使側でした。なぜかわかりますか?」

 猿と天使が罵倒してところは聞いたことがあるが、ゼラの獣という言葉の響きは蔑視とは違うモノを宿していた。だが、ハルカは予想がつかなかった。

「可能性の獣という言葉自体は遥か昔から存在しました。しかし誰も信じなかった。同様に、あの戦争以前、人間が天使に勝つなど、天使はおろか人間自身も信じていませんでした。しかし、両者に甚大な被害を出しながらも実質価値を収めたのは人間だったのです。その結果、人間は可能性の獣である事が証明されたと天使たちは思ったのです」

 巨大な大陸一つを滅ぼす程の術を使う天使たち、その圧倒的な力を乗り越え、人は果敢に戦い、5人の超越者たちは神の見使いたちの矜持を曲げ、停戦に持ち込んだ。それは確かに不条理を越える可能性を指し示したのだ。

「私からあなたに言える事は、この世界ではあらゆる可能性が存在しているという事です。弱きものが強きものを打ち負かし、生者が死神を乗り越え、創造が破壊を凌駕する。その全ての可能性を生み出すものは一つ、人間の不断にして不屈なる意志です。あなたの弱さはあなたの意志で乗り越えなさい。それが始まりです」

 その言葉は理路整然とした理屈を兼ね備えているわけでもなければ、何万回も誰かの口によって語られたような言葉だった。だが、ある意味このシンプルな世界においては真実だった。この世界の強さとは突き詰めれば意志の強さなのだから。

「ありがとうございます、マスター。話せてよかったっす」

 自身の単純さに苦笑しつつも気分は澄みきっていた。問題は何も解決していない。しかし少なくとも、彼の足に纏わり付いて泥は水へと蒸留された。ならば、ただ前に足を踏み出すのみ。生きるか死ぬかはやってみないと分からないのだから。

「お行きなさい、可能性の獣よ。輝かしき主の息子、天を越えし者よ。あなたたちは光だ」

 夜の街へと駆け出したハルカ、彼の去った扉を眺めゼラは独り呟いた。


 オウカの街の中央部、その上空に天使たちの住処にして要塞でもある聖城が威風堂々と存在していた。この街に住まう人間は空を見上げればそこに在る城に上位存在に対する畏怖と自由なる者への憧憬を同時に見る。しかし、それは誤りである。なぜならば、この世界の人間は願い努力すれば空を自由に飛ぶことすらも可能なのだから。

「さて、俺もその辺にあるもので適当に翼を作って、空縮で空を飛ぶか」

 聖城は当然ながら天空に在る。幾つもの照明が厳かにしかし美しく灯り、夜空にあっても神々しさを損なわない城は間違いなく天上の細工であった。そして、地を歩く人間には手の届かない物であるのと同義である。故にそれに辿り着く為には、多少の努力が必要で、考え出したのがそれであった。

「なるほどねー。天使に成りすまして、ロケットよろしく突っ込む訳か。無理だろそれ」

「いや、やってみねぇと分かんねーだろ? って誰だよ!」

 ハルカが驚きその場から飛び退くと、そこにはマーガレットが棒つきキャンディーを舐めながら、睨みつける様に聖城を見上げていた。

「マギ、なんでここいんだ? ひょっとして手伝ってくれるのか?」

「バーカ。何でアタシがあんな根暗女を助けにいかなくちゃなんねーんだ! 所長に言われて来たんだよ」

「……しょ、所長が? な……なんて?」

 事情を知らなかったとは言え、怒りに任せて捨てゼリフを吐いてきた身としてはバツが悪い。ハルカはシドロモドロになりながら少ない言葉を繋いだ。

「アンタはどうなっても知らないけど、ユキミは無事に連れて帰ってこいってさ」

「……それって」連れて帰ってこい、コジロウはその言葉に想いを託したのだろう。結局、彼が社員を気にしているという事知れただけでもハルカにとっては十分だった。

「ところで、無理ってどういう事だ? やっぱり何かセキュリティーがあんのか?」

「当然さ。あの聖城の周囲には侵入者に対する結界が張ってある。知らずにそれに触れたら即座に御用ってわけさ。そこでコレだ」

 マーガレットは投擲の構えをすると全力で何かを聖城目掛けてブン投げた。

「おいおい、あんな事して大丈夫かよ? で、今のは?」

「あの結界は生物と一定以上のエーテル力にしか反応しないから大丈夫さ。そして、今投げたのは転位創術を仕込んだ創具だね。これが入り口」

 マーガレットが手早く手に持ったペンで地面に魔方陣を書くと中央に水晶を設置した。それだけで転位創術の完成である。

「見事な手際だねえ。流石だ。ホント、助かった」

「当然だね。アタシは一流の技術屋だからね。あと、アンタに伝えて置くことがある」

 そう言ってマーガレットは沈黙した。顔を真っ赤にして俯いている。ハルカのラブセンサーが強大なラブ臭を感知。彼は期待に心躍らせた。

「いいかい? あんな奴、いてもいなくてもいいけど、飯がマズくなるのは頂けないからね。必ず助けて来いよな」

「まさかのユ・リ! しかも典型的なツンデレですか! こりゃまいったぁ」

 まさかの展開にハルカは頭を抱えてしゃがみ込んだ。そしてどう足掻いても、ハーレム漫画の主人公のようなエロティック展開に発展しない己の器を恨んだ。

「あんた何してんだい? まあ、いいけど。そうそうコレを渡しとくよ」

 差し出されたのは一枚のコインだった。それはこの世界では実に有り触れている通貨である5ドラクマ硬貨であった。

「これが何だ? まさか、バレたらこれで買収しろってか?」

「アホ。これには創術が込められてるのさ。口にくわえてエーテルを込めたら発動な。効果は姿と気配を完全に消し去る。潜入にはもってこいの創具さね。ただし、一回使用を見破られたら、同一人物には時間を置かないと効果を発揮しないから気をつけな」

「すげぇな! あんがとよ。必ず連れて帰るからさ」

「おっと。まだあんだよ。来な」

「あんたはっ!」ハルカは驚愕に眼を見開き眼窩から目玉が落ちそうになった。マーガレットの合図で暗がりから姿を現したのは、散々口喧嘩をし、実際に死闘を演じた、憎き好敵手レオだった。

「ハッ、チキンのテメェが本当にやって来る何ざァ幸先が悪すぎるぜ。テメェ、もう帰れよ。お姫たちはオレが助けるからよォ」

 眉間に皺を寄せ、顎を向け、眼を飛ばすレオ。ハルカも負けじと睨み返す。

「あんたこそ何してんだよ。ユキミの言いつけ守って家で引き込もってろよ、この座敷猫が。あの時、あんたが邪魔しなければ手っ取り早かったんだよ」

 この時ばかりはユキミの願いや自分の不甲斐なさを全て棚上げし、ただ敵の泣き所を突く事に徹した。レオにもその辺の葛藤はあったようで喉に物が詰まったように言葉をつまらせた。

「ああ、もう。うっさいな。さっさと行けよ、このトンマども。早くしないと拷問だか処刑が始るかもしれないよ」

 その可能性を見事に見落としていた二人は顔を蒼くして慌てふためいた。

「ったく。冗談に決まってるだろ? 緊急時でもない限り取調べに時間を掛けるだろうしね。そしてあそこのボスは荒事を好まないエリシル姉さんだし」

 マーガレットがエリシルを慕っているのがハルカにしてみれば意外だった。確かに底抜けに明るいあの天使は誰もの信頼を容易く勝ち取るだろう。

「さて、んじゃ言ってくるぜ。って何回言ってんだろうな。無事に帰ってこれるのを祈ってくれよ」

「ああ、祈ってやるよ。事務所の招き猫にね」

 マーガレットが意地悪そうに笑うのをハルカは破顔して応えた。自分たちには帰るべきところがあり、待ってくれている人がいる。それは勇気に繋がっているからだ。

 そして、魔方陣は輝き、彼らの視界は刹那の閃光に包まれた。


 光が収まった時、ハルカとレオは聖城の外周、外壁の通路に居た。誰にも気付かれなかったらしく、騒ぎは起こっていない。ハルカはマーガレットに感謝した。

「って、ユキミが捕まってる場所分らねぇじゃん」

「ほらよ。テメェも出せ」とレオが取り出したのは携帯電話だった。彼はそれを弄って何かをハルカの方へと送信した。確認するとそれは聖城のMAPであり、光点が点滅しているところから、そこがユキミの居場所だろうと推測できた。

「マギが作った探索プログラムだそうだぜ。つくづくテメェらは飼い犬みたいだな」

 一瞬レオの皮肉が理解できなかったが、光点で表示されたユキミの居場所が答えを導き出させた。ハルカは、何故マーガレットがタイミング良く自分の居場所に現れたか謎であった。その答えも同時に判明した。

「俺たちは常に居場所が監視できるわけね……」

 方法こそ不明だがまず間違いはないだろう。ハルカは帰ったら文句をつけてやろうかと考えたが、今回はそれに助けられている為に強くは出れない。彼はコジロウが逃げ出したら見つけ出して殺すと言っていた事を思い出し深く嘆息した。

「オイ。テメェ、なにいきなり疲れてんだよ。まだこれからがシンドイ所だぜ」

「……しかし、あんた、よく協力してくれる気になったな。いいのかよユキミの命令は」

 命令という言葉が気に入らなかったのか、一瞬、柳眉が逆立った。しかし舌打ちと共に軽く小突かれただけで彼の怒りが霧散した。

「お姫の意志を尊重したが、あくまであの場の話だ。別に助けるなと言われたわけじゃねぇしな。あとな、別にテメェに協力したる訳じゃあねェ。やる事が一緒だったから、囮にでもなんでもしようと思っただけだ」

「前から聞きたかったんだけどよ。なんで、あんたはユキミたちの言う事を聞いたり、助けてくれんだ? てか、あんたあの龍の場に都合よく居たのか?」

 龍との戦闘の時、レオの姿は無かったとハルカは記憶していた。そもそも、ユキミが戦闘に巻き込まれたのであれば一も二もなく助けに入るだろう。レオはそういう男だとハルカは認識している。ところが、レオが現れたのはその後だった。

「ッチ。テメェはクラダネェ事を考えんだな。オレが付いた時に既に天使に囲まれてたって言えば終わりじゃねぇかァ?」

「……それはそうだな」それこそ天使たちを襲いそうだと疑問に思ったが。

「フッ。いや、テメェにも断片ぐらいは知らせてやるよォ。テメェの二つ疑問に答えてやる。それはな、お姫こそが俺たちの新たなる主だからだ。求めに応じオレたちは現れる。もっとも殆どそんな機会がないけどよォ」

 ハルカはレオの話した内容を殆ど理解できなかった。だが、一つだけ確信した事があった。それはレオがユキミたちを心の深奥から慕っているという事。むしろそれは王に跪く騎士のように忠誠を誓っているといってもいい程の意志の堅さだった。

「まっ、あんたが何を考えていようと、俺としてはあんたが来てくれて助かった。ありがとよ」

「ハッ。礼なんかいらねぇよ、クソが。つーか、そもそも助けてもいねぇ内から言ってんじゃねぇよ、バカが」

「そりゃそーだ」ハルカは苦笑した。つい先ほど剥き出しの激情をぶつけ合ったというのに、今はこうして一応の協力関係にある。ハルカはそれが不思議で堪らなかった。

(こいつとは絶対相容れないと思ってんだけどな……)

 どんなに反目していても向かう方向が同じならば協力し合える場合もある。それが、今まで嫌な人間と適当に合わせてやり過してきたハルカにとって新鮮な感覚であった。

 だが、彼はこの時、知りもしなかった。それは逆の場合もまた然りという事に。


「ッチ。まあ、そう上手くはいかねぇよなァ」

 忌々しげにレオが唸ったのは仕方がなかった。マーガレットに提供されたステルス創術は絶大な威力を発揮し、何の問題も無くこの場所までやって来た。しかし、当然ながら万事、事が太平と相成る訳ではない。ユキミが捕まっている場所は独立した塔にあり、そこを繋ぐのは一本の通路しか存在しない。

そして、問題はそこの手前で起きた。通路へと続く大扉の前でエーテル感知式の侵入者探知装置に引っかかり、合えなく二人は天使たちに囲まれているのであった。

「まさか、こんな落とし穴がるとわね」

「イヤ、マギの創具は完璧だ。並の創術じゃ感知できねぇ。つまり、オレたちがこれを使って現れる事を読んでた奴がいるんだよ」

 それは誰なのか、ハルカには予想も付かなかったが、レオは違ったようだ。しかし、彼はそれが誰なのか口にしないばかりか、恨んでいる様子も見せない。

「さて、どうするよ相棒?」

「誰が相棒だ。チョウシぶっこいてんじゃねェ」

 レオは鬼の形相でハルカを睨んだ後、徐に大扉に向かって左手を向けた。

「いいか? よく聞け。テメェは独りじゃ大した力もないカス野郎だァ。だがな、お姫と組んだ時はそうじゃなかった。いいか? かならず合流しろ。テメェが生き残れるのはソレしか存在しねェ」

 レオは伝えるべき事を伝えきった瞬間、炎弾を放って大扉を爆砕、進路を切り開いた。そして視線でハルカに前進を促した。だが、こんな局面でもハルカはレオを残すという選択肢を即断できないでいた。

「だから、テメェは駄目なんだよ!」レオの怒りと共に噴出した爆炎は、周囲の天使たちの行動を阻害するだけではなく、ハルカを強引に通路へと押し出した。

 レオの周りには殺気だった天使たち。熱せられた弾丸のように弾け飛ぶ瞬間を待っている。ハルカは強く歯軋りすると、不利な状況に身を置くレオに背を向けて走り出した。ここで戻れば、彼の覚悟が無駄になるからだ。ならば、ただ往くしかない。冷たい風が吹き抜ける通路を駆けていた時、一羽の白鳩とすれ違った。 

そして、ハルカが監獄棟に辿り着く直前で、背後から凄まじい爆発が起こった。通路が衝撃でミシミシと音を立てて揺れ、彼もその振動で踏鞴を踏んだ。決して振り返るまいと心に決めていたが、悪い予感がしてそれを反故した。彼が見たのは荒れ狂う炎。今しがたハルカが通ってきた場所、つまりレオが戦っているべき場所が紅の炎に飲み込まれている。炎と煙でその先は見通せなかったが、動く人影は見えなかった。

「……すまん」振り絞って出てきた言葉はそれで精一杯だった。ハルカはコインを口にすると監獄棟へと足を踏み入れた。

その場の空気は澱んでいた。怨嗟、嘲笑、怒声、呪詛、嘆き、あらゆる負の調べが不協和音を奏で、無味乾燥な牢獄の連なりに木霊していた。檻に閉じ込められた人の皮を被った獣たちは爛々と眼を輝かせて零れ落ちる生を掬う術を探している。

 ハルカは知覚される事はないと知りながらも、彼らの放つ獣気に恐れを覚えた。しかし、こんな所で二の足を踏んでいる時間はない。この場所には天使がいないが、来ないとも限らない。ハルカはユキミが捕らわれている最上階へと向かって走り出した。

「待ってろよユキミ」近付く再開の刻に向かって、足を進めた。


 ハルカがその部屋に突入した時、その部屋が囚人に宛がうには余りにも豪奢なので驚いた。広さは事務所の自室の数倍はあり、調度品はどれも一流の物。そこは扉こそ鋼鉄製であったが、一流の客を持て成す為の部屋といっても遜色の無い、牢獄だった。

逸る歩を抑えて、慎重に進んだ。そして、ハルカは遂に辿り着くべき者の所までやって来たのだった。部屋の明かりは薄暗く抑えられており、窓から差す月光が優しく照らし出していた。シンプルな造りであるが、そのベッドは高級品の気品を漂わせ、その上に蹲るように眠っているのが、彼の捜し求めた少女だった。

「いい気なもんだぜ、グッスリと眠りやがって。なあ、ユキミ」

 軽口を叩いてみたが、声が上擦っていた。ユキミが天使に連れ去れた時からずっと、彼の胸中では別れの予感が離れず、心休まる暇は無かった。それが今、安らかに眠るユキミの姿を眼にして漸く、力を抜く事ができる安心を得たのだ。

「おい、起きろよ、眠り姫。じゃないと口付けをするぞ」

 揺さぶってみたが目覚めの気配は訪れない。ふと考え、忙しげに室内を見回した。

(これは役得なのでは? ちょっとぐらいいいのでは?)

 我欲の囁きに惑わされ、月光に眠るユキミの白い肌が徐々に近付いていく。長い睫毛、白雪のように澄んだ柔らかい頬が少し赤みを帯びているのもしっかりと見て取れる。

(いいのか? いいのか、俺!)

 勿論、良くはない。あと数センチという距離でユキミの眼がしっかりと開かれ、超接近しているハルカの眼とバッチリと視線が合致した。

「いやあ、ちゃんと息してるかの確認」

 その距離を維持すること数秒。途端にユキミが顔を紅くすると、ハルカは平手打ちを喰らって床に叩き伏せられた。

「……おはよう御座います。ところで何でハルカがここに? というか、何故床に倒れてるんですか?」

(えっ? 俺、無意識に叩かれたのか!)

「そりゃ、お前。分るだろ? ユキミを助けに来たに決まってるだろうが」

 捕らわれの姫君を助けに行けば歓喜で迎えられる、古典的王道物語の構図を期待していたハルカ。しかし、ユキミの顔に浮かんだのは困惑と悲しみだった。

「……危険を冒して頂いてすみません。ですが、ハルカ。一人で戻って下さい」

「は?」ハルカはユキミの発した言葉の意味を理解できなかった。遠からず最悪の未来が待っているというのに彼女はここに残ると言ったのだ。

「ふざけんなよ! ここに残ったらユキミは!」

「……分っています。今こそ取り調べでしたが、その内拷問に変わるでしょう。でも」

「でも……なんだよ?」

「私を連れて逃げるという事はこの世界中の天使に追われ続けるという事ですよ? それを私があなたに強要する事はできません。今ならまだ、話をつける事が出来ます」

 話をつける事が出来る。つまり、自分の身を犠牲にしてハルカの事を無かった事にするという事だ。ハルカは臓腑から怒りが滲み上がってる想いがした。

「……なあ、一つ聞かせてくれ。今の状況と関係ない話だ。何でユキミは俺を助けるんだ?」

 普段は眠たげなその瞳が大きく見開かれた。ハルカの問いは彼女の本質を突いたからだ。

「……私は生前、誰にも顧みられる事はなく、誰の記憶にも残らない、そんな人生を送って気ました。自分の居場所はベッドの上だけです」

 薄氷が割れたように、ユキミの表情から悲愴が染み出す。いつかコナタは言った。ユキミはこの世界に執着していると。それは不条理なかつてを取り戻すため。

「……だから決めたんです。この世界では、かつて出来なかった事をすると。私の願いは一つ。私は誰かの記憶に残りたいんです」

(ああ、それでか……)彼女は自分の願いを託すべき存在としてハルカを見出したのだ。そして、ハルカは彼女の告白を聞き、ユキミと出会ってから感じていた想いの正体を理

解した。その想いの原因は青年との契約が原因と考えていたが違ったのだ。

「俺さ、ずっと疑問に思ってたんだ。何で俺とであった時、ユキミは負傷したのかってさ」

 ハルカが機械蜘蛛に襲われた時、ユキミは腹に銃弾を受けていた。しかし、彼は彼女と共に時間を過ごして行く内に一つの疑問を抱いた。それは何故あの時彼女は負傷していたのか。彼はあの程度でユキミが負傷するはず無い事をその身を以って知ったからだ。

「あの時、突然現れた俺を助ける為に咄嗟に庇ったんだろ? レオの時も、龍の時も、天使の時もそうだ、ユキミはいつも俺を助けてくれた。我が身を厭わず」

 ハルカがユキミを出会ってから抱いていた想い、それに名前は無い。強いて表すならば、姿を眼で追う程度、何となく心に蟠りを感じる、そんな想い。

「俺さ、車に轢かれそうな女の子を助けて死んだんだ。何でそんな事が出来たか自覚してる。あの時の俺は、何も執着するものがなかったんだ」

 家族も友人も過去も未来も、己自身も何もかもがどうでも良かった。だから命を捨てることが出来る。そう、目指す場所が違っても、ハルカとユキミは同じ類の人間だった。

「ユキミもさ、自分よりも誰かを優先できるのは目的が全てでそれ以外がどうでもいいからだ、自分すらも」

 ハルカは自分の言葉の真実がユキミを心に傷を負わせるのを知っていた。それでも言わねばならなかった。同時に、それが彼の内にあった感情の正体の一部であった。同種の人間に対する共感。しかし、同種の人間に対するもどかしさや嫌悪。

「なあ、それじゃここに、また生まれた意味無いだろ? ユキミは俺の記憶に残ったつもりかもしれない。だけど、記憶は風化していくもんだ。意味ねぇだろ? だからさ、俺の手を取ってくれよ。俺たちが消え去るその瞬間まで一緒に駆け抜けよう」

 そしてハルカは手を差し伸べた。自分の言葉に確信を持てない彼の手は俄かに震えていた。ユキミは真っ直ぐに伸びたその手を静かに見詰めた。

「……私にも教えて下さい。どうして私にこだわるんですか?」

 ユキミの質問を何となく予感していたハルカは明るく笑った。

「俺がユキミを助けると決めたからさ。どんな時でも。ユキミには何回も命を助けてもらった、色々と教わった、何でもない毎日を共に過ごした。その中で、誰かに従ってじゃない、俺が君の力になりたい、君を助け、共に並び立つ者になりたい、そう誓ったんだ」

 何かをなし、何者かになれ。青年があの部屋でハルカに掛けた最後の言葉。ハルカはその“何か”を見出した。

「……分りません。でも、分りました。私ももう少し前に進みたいと思います」

 ユキミも静々と彼の手を取った。ハルカは少し冷たい彼女の繊手その柔らかい感触を、確かめるために強く握った。彼は今、一人の少女と己の誓いを取り戻したのだ。

「いいね、いいね。青春だね~。お姉さん、赤面しちゃう」

 不意に緩やかな声が響き、ハルカは咄嗟にユキミを庇ってその声の主に向き合った。

 そこに居たのは、この聖城の主にして、天使たちを束ねる者。大天使エリシル。

柔和な笑顔とは裏腹に全身が痺れるような、途方も無いエーテルと殺気を漂わせている。彼女なら話が通じる、心のどこかでそれを切り札にしていたハルカは自分の考えの浅はかさに後悔していた。

「君たち、ここから無事に逃げれると思ってたのかい? それは大間違い。私たちを舐めてもらっちゃ困ります」

それまで浮かんでいた気さくな笑顔が突如消え失せた。その下には冷徹なる審判者の顔があった。それは神の使いたる無慈悲な本質。その声音は原罪を持つ者達を糾す。

「見くびるなよ、人間」

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