身分違いを理由に幼なじみの王女に振られた僕は、彼女のためではなく自分のために歌うことにした
「ねえ、ルカ。もう一回歌って!」
「また? さっきから同じ歌ばかりだよ」
「だって、好きなんだもの!」
エリシアはそう言って、僕の隣に腰を下ろした。
金色の髪には白い花が一輪。淡い青色のドレスの裾には、庭を走り回ったせいで泥がついている。
王宮の侍女が見たら、きっと悲鳴を上げるだろう。
彼女はこの国の王女様だった。
そして僕は、王宮に出入りする楽師の息子にすぎなかった。
「エリシア様、そろそろ戻らないと」
「今はエリシアでいいって言ったでしょ!」
「でも、誰かに聞かれたら怒られるよ」
「じゃあ、誰にも聞かれなければいいの!」
無茶苦茶な理屈だった。
だけど、僕はそんな彼女が好きだった。
初めて出会ったのは、僕たちが七歳のときだ。
父の仕事について王宮へ来た僕は、楽師たちの練習が終わるのを待つ間、庭園の片隅で一人歌っていた。
すると、生け垣の向こうから突然、小さな女の子が顔を出した。
『今の歌、もう一回!』
それが、エリシアとの最初の会話だった。
それから彼女は、僕が王宮へ来るたびに庭園へ抜け出してくるようになった。
僕が歌い、彼女が聴く。
ときには一緒に歌い、ときには木登りをして怒られた。
身分の違いなんて、当時の僕たちにはよく分からなかった。
「ねえ、ルカ」
「何?」
「大きくなったら、何になりたい?」
「父さんみたいな楽師かな。でも、いつか自分で作った歌を、いろんな人に聴いてもらいたい」
「じゃあ、私が一番最初のお客さんね!」
「もう何回も聴いてるじゃないか」
「そうじゃなくて! ルカが大人になって、一番素敵な歌を作ったら、最初に私に聴かせてほしいの」
彼女は小指を差し出した。
「約束よ」
僕も小指を絡めた。
「うん。約束」
風が吹き、頭上の白い花が揺れた。
あの日の僕は、彼女と交わした約束が永遠に続くものだと信じていた。
*
僕たちが十六歳になった春。
エリシアは、誰もが振り返るほど美しい少女に成長していた。
長い金髪は陽の光を受けて輝き、澄んだ青い瞳には、幼い頃と変わらない優しさがあった。
ただ、一つだけ変わったことがある。
僕たちは、恋人同士になっていた。
「ルカ、目を閉じて」
「どうして?」
「いいから!」
いつもの庭園。
言われたとおり目を閉じると、頬に柔らかいものが触れた。
「……え?」
目を開けると、エリシアが真っ赤になっていた。
「お、お誕生日、おめでとう!」
「今の……」
「忘れて!」
「無理だよ」
「もう!」
彼女は両手で顔を隠した。
僕は笑いながら、その手をそっと取った。
「ありがとう、エリシア」
「……うん」
彼女は僕の肩に頭を預けた。
遠くから噴水の音が聞こえる。
「ねえ、ルカ」
「何?」
「私たち、ずっと一緒にいられるかな」
「もちろん」
迷わず答えた。
すると彼女は、少しだけ悲しそうな顔をした。
「本当に?」
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
彼女は笑った。
その笑顔の奥にあった不安を、僕はまだ理解していなかった。
*
変化は、突然訪れたわけではなかった。
最初は、本当に小さなことだった。
王宮の廊下で彼女を見かけ、いつものように声をかけたとき。
「エリシア!」
彼女は足を止めた。
けれど、隣にいた貴族の令嬢たちに気づくと、表情を硬くした。
「……ルカ。今は公務中なの」
「あ、ごめん」
「それから、王宮ではきちんと敬語を使って」
僕は一瞬、言葉を失った。
「……申し訳ありません、王女殿下」
彼女は何か言いたそうに唇を動かしたが、結局そのまま歩き去った。
その夜、いつもの庭園で会ったとき、彼女は謝ってくれた。
「ごめんなさい。今日はお客様がいらしていたから」
「うん。分かってる」
「怒ってる?」
「怒ってないよ」
嘘だった。
怒っているというより、寂しかった。
でも、彼女を困らせたくなかった。
だから笑った。
それから、似たようなことが何度も起こった。
彼女は僕と会う時間を減らし、人前では距離を置くようになった。
ある日、王宮の裏門で待っていると、彼女が小走りでやって来た。
「ごめんなさい、遅くなって」
「大丈夫。でも、どうして今日はここなの?」
「正門は……人が多いから」
「僕と一緒にいるところを見られたくない?」
「そういうわけじゃ……」
彼女は言葉を濁した。
僕はそれ以上、聞けなかった。
聞いてしまえば、何かが終わってしまう気がしたからだ。
*
十七歳の冬。
僕は王宮の音楽会に出演することになった。
父の紹介ではなく、自分の実力で選ばれた初めての舞台だった。
嬉しかった。
何より、エリシアに聴いてもらいたかった。
ところが、演奏会の前日。
控え室へ向かう廊下で、彼女と数人の貴族が話している声が聞こえた。
「殿下。例の平民の楽師とは、まだ親しくされているのですか?」
足が止まった。
「幼い頃からの知り合いですわ」
「それだけでしょうか?」
別の女性が笑った。
「まさか、王女殿下が平民と恋仲などという噂、本当ではありませんわよね?」
短い沈黙。
僕は息を止めた。
「……そんなこと、あるはずがありません」
エリシアの声だった。
「彼は、ただの幼なじみです」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
その場から離れようとしたとき、床板が小さく軋んだ。
彼女が振り返る。
「ルカ……?」
目が合った。
エリシアの顔から血の気が引いた。
僕は何も言わず、頭を下げた。
「失礼いたしました、王女殿下」
そして歩き去った。
翌日の音楽会で、僕は予定どおり歌った。
客席にはエリシアもいた。
けれど、彼女の顔を見ることはできなかった。
*
その数日後、エリシアから手紙が届いた。
庭園で話がしたい、と。
雪の降る夕方だった。
かつて二人で遊んだ木の下に、彼女は立っていた。
白い外套を羽織り、手袋を握りしめている。
「来てくれてありがとう」
「話って、何?」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、震える声で言った。
「……私たち、もう会わないほうがいいと思うの」
分かっていた。
いつか、こんな日が来るのだろうと。
それでも、実際に言われると、息ができなくなった。
「どうして?」
「お父様が、私の結婚相手をお決めになるの」
「……そう」
「隣国の王子様との婚約を進めたいって」
「エリシアは、それでいいの?」
彼女は答えなかった。
「僕のこと、好きじゃなくなった?」
「違う!」
即座に否定した。
「好きよ。今でも、あなたが好き」
「だったら……」
「でも、好きなだけじゃ駄目なの!」
彼女の声が雪の庭園に響いた。
「私は王女なの。国のことも、家のことも考えなきゃいけない。あなたと一緒にいたら、みんなに何を言われるか……」
「みんな?」
思わず聞き返した。
「僕たちのことなのに?」
「あなたには分からないわ!」
その言葉に、胸が痛んだ。
エリシアはすぐに口を押さえた。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
「この前、廊下で聞いたよ」
彼女の肩が震えた。
「ただの幼なじみだって」
「それは……」
「嘘だって言ってほしかった」
彼女は俯いた。
「怖かったの」
「何が?」
「みんなに笑われることが。王女なのに、平民の恋人がいるなんて……」
彼女の目から涙が落ちた。
「私、あなたのことが好きなのに……恥ずかしいって思ってしまったの」
その瞬間、僕は何も言えなくなった。
王族としての責任。
政略結婚。
そういうものがあることは、僕だって知っていた。
でも。
彼女自身が僕を恥ずかしいと思っていたことだけは、知りたくなかった。
「……分かった」
「ルカ?」
「別れよう」
エリシアが顔を上げた。
「待って。私、まだ……」
「もういいよ」
僕は笑おうとした。
けれど、うまくできなかった。
「今まで、ありがとう」
「そんな言い方、しないで……」
「お幸せに、王女殿下」
背を向けた。
「ルカ!」
呼び止められた。
足が止まる。
「最後に……歌ってくれない?」
振り返らなかった。
「ごめん」
声が震えた。
「今は、歌えない」
そのまま歩き出した。
背後から、彼女の泣き声が聞こえた。
それでも、戻らなかった。
*
王都を離れたのは、春が来る少し前だった。
父は何も聞かなかった。
ただ、旅立つ僕に古いリュートを渡してくれた。
「お前の歌は、お前のものだ」
それだけ言って、肩を叩いてくれた。
最初に訪れた町では、誰も僕の歌を聴いてくれなかった。
広場で演奏しても、人々は足早に通り過ぎていく。
酒場で歌えば、酔っ払いに怒鳴られた。
「暗い歌ばっかり歌うな!」
僕は謝って、店を出た。
その夜、宿の小さな部屋でリュートを抱えたまま眠れなかった。
何を歌っても、エリシアの顔が浮かんだ。
初めて歌を褒めてくれた日。
誕生日に頬へ口づけしてくれた日。
そして、雪の庭園で別れを告げられた日。
どうして、あんなに好きだったのだろう。
どうして、今でも忘れられないのだろう。
何度も考えた。
答えは出なかった。
*
旅を始めて半年ほど経った頃。
僕は山間の小さな村で、雨宿りをしていた。
古い軒下でリュートの弦を調整していると、一人の少女が近づいてきた。
「お兄ちゃん、歌う人?」
「一応ね」
「じゃあ、歌って!」
「今はちょっと……」
「お願い!」
その言い方が、誰かに似ていた。
胸が痛んだ。
断ろうとした。
けれど、少女の後ろに立っていた母親が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。この子、歌が大好きなんです」
僕は小さく息を吐いた。
「……一曲だけだよ」
リュートを構えた。
選んだのは、父から教わった古い旅の歌だった。
雨上がりの空。
遠くの山。
家へ帰る旅人の歌。
歌い終えると、少女が手を叩いた。
「すごい!」
「ありがとう」
「もう一回!」
思わず笑ってしまった。
「また?」
「だって、好きなんだもの!」
その瞬間、懐かしい声が胸をよぎった。
でも、不思議と涙は出なかった。
少女の母親が言った。
「素敵な歌ですね。今日は久しぶりに、この子の笑顔が見られました」
「……そうですか」
「また聴かせてくださいね」
僕はリュートを見つめた。
ずっと、エリシアのために歌ってきた。
彼女が喜ぶから。
彼女が笑ってくれるから。
彼女に愛してほしかったから。
でも、今。
目の前の少女は、僕の歌を聴いて笑っている。
僕の知らない誰かが、僕の歌を必要としてくれている。
それが、こんなにも嬉しいなんて。
「……うん」
僕はもう一度、リュートを構えた。
「じゃあ、今度は明るい歌にしようか」
雨雲の切れ間から、夕日が差し込んでいた。
*
それから、僕は多くの町を旅した。
市場で歌い、祭りで歌い、ときには病院や孤児院でも歌った。
もちろん、うまくいかない日もあった。
演奏を途中で止められたこともある。
お金が足りず、馬小屋で眠った夜もあった。
それでも、歌うことをやめなかった。
やがて、自分でも曲を作るようになった。
失恋の歌。
故郷を懐かしむ歌。
旅先で出会った人々の歌。
そして、誰かが明日を迎えるための歌。
ある町の祭りで、僕が作った曲を子供たちが口ずさんでいるのを聞いた。
驚いて立ち止まると、一人の少年が言った。
「これ、旅の歌い手ルカの歌なんだぜ!」
僕は笑った。
「へえ。いい歌なの?」
「うん! 俺、大好き!」
その日は、宿へ戻ってからも眠れなかった。
嬉しくて。
ただ、それだけの理由で。
*
三年が過ぎた。
僕は二十歳になっていた。
旅の歌い手として、少しずつ名前が知られるようになった。
そんなある日、王都から一通の招待状が届いた。
王国建国祭での特別演奏。
差出人は、王宮音楽院だった。
僕は何度も手紙を読み返した。
王都。
あの場所へ戻る。
胸の奥に、まだ小さな痛みが残っていた。
でも、もう逃げる必要はないと思った。
僕は招待を受けた。
*
久しぶりに見る王都は、昔と変わらなかった。
石畳の道。
賑やかな市場。
城壁の向こうにそびえる白い王宮。
変わったのは、きっと僕のほうだ。
建国祭の夜。
王宮前の広場には、大勢の人々が集まっていた。
舞台へ上がると、歓声が聞こえた。
僕は深く頭を下げた。
「皆さん、こんばんは。旅の歌い手、ルカです」
拍手が起こる。
何曲か歌ったあと、僕はリュートを抱え直した。
「最後に、一曲だけ聴いてください」
客席の奥。
王族のために設けられた席に、見覚えのある金髪があった。
エリシア。
三年前よりも大人びていた。
彼女は僕を見つめていた。
目が合う。
胸が少しだけ痛んだ。
けれど、僕は微笑んだ。
「この歌は、昔、大切な人のために作り始めたものです」
広場が静かになる。
「でも、完成させることができませんでした。何を歌えばいいのか、分からなくなってしまったからです」
僕は弦に指を置いた。
「旅をして、いろんな人に出会いました。そして、ようやく続きを書くことができました」
静かな旋律が流れ始めた。
幼い頃、庭園で歌っていた曲。
あの約束から生まれた、未完成の歌。
僕は歌った。
君と見上げた春の空。
手をつないで歩いた道。
もう戻れない日々を、否定する必要はない。
あの頃の幸せは、本物だったのだから。
そして、最後の言葉を口にした。
「さよなら、愛した日々。
ありがとう、僕の初恋。
君がいなくても、僕は歌える。
この声で、明日へ歩いていく」
最後の音が夜空へ消えた。
一瞬の静寂。
それから、大きな拍手が広場を包んだ。
僕は頭を下げた。
王族席を見ると、エリシアが泣いていた。
でも、僕はもう、彼女の涙を拭いに行かなかった。
*
演奏会が終わったあと。
控え室へ戻ろうとすると、廊下の先にエリシアが立っていた。
「ルカ……」
懐かしい声だった。
「お久しぶりです、王女殿下」
「……その呼び方、やめて」
彼女は小さく首を振った。
「お願い。昔みたいに呼んで」
僕は少し迷った。
「……エリシア」
彼女は泣きそうな顔で笑った。
「ありがとう」
沈黙が落ちた。
先に口を開いたのは、彼女だった。
「素敵な歌だったわ」
「ありがとう」
「ずっと、あなたの歌を聴いていたの」
「そうなんだ」
「旅先で評判になっているって聞くたびに、嬉しかった。でも……」
彼女は俯いた。
「怖かったの」
「何が?」
「あなたが、私の知らない人になっていくことが」
僕は何も言わなかった。
「三年前、私はあなたを傷つけた。お父様に反対されたからだけじゃない。私自身が、周りの目を気にしていたの」
「……うん」
「あなたと一緒にいるのが恥ずかしいと思った。そんな自分が、今は一番恥ずかしい」
彼女の声が震えた。
「ごめんなさい、ルカ」
僕はゆっくり息を吐いた。
「ずっと、聞きたかった言葉だった」
エリシアが顔を上げる。
「でもね」
僕は続けた。
「今は、もう大丈夫なんだ」
「……え?」
「君と別れてから、ずっと考えてた。何が悪かったのか。僕が平民だから駄目だったのか。もっと立派な人間になれば、君は戻ってきてくれるのかって」
彼女の目から涙がこぼれた。
「でも、旅をして分かった。僕は、誰かに認めてもらうためだけに歌っていたわけじゃない」
「ルカ……」
「僕は歌うことが好きなんだ。君に出会う前から、ずっと」
エリシアは涙を拭った。
「……そうね」
「だから、もう君を責めてないよ」
「私を……許してくれるの?」
「うん」
彼女は胸元で両手を握りしめた。
「じゃあ……」
何かを言いかけて、口を閉じた。
僕は静かに待った。
やがて彼女は首を横に振った。
「ううん。今、言うべきことじゃないわね」
「エリシア?」
「あなたが幸せそうで、よかった」
そう言って、彼女は微笑んだ。
昔と同じ、少し不器用な笑顔だった。
*
翌朝。
王都を出発しようとしていた僕のもとへ、王宮から使者が来た。
国王陛下が会いたいという。
正直、断りたかった。
でも、父が今も王宮の楽師として働いていることを思い出し、無礼なことはできないと思った。
謁見の間に入ると、国王と王妃が玉座に座っていた。
その隣にはエリシアもいる。
「旅の歌い手ルカよ」
「はい」
「昨夜の演奏、見事であった」
「ありがとうございます」
国王はしばらく僕を見つめた。
「娘から、すべて聞いた」
僕は黙っていた。
「かつて、余はお前と娘の交際に反対した。王家の責務を考えれば、当然の判断だと思っていた」
国王は言葉を切った。
「だが、娘がどれほど苦しんでいたか、余は見ようともしなかった」
エリシアが顔を伏せた。
「陛下」
僕は口を開いた。
「恐れながら、申し上げてもよろしいでしょうか」
「許す」
「私は、王女殿下との結婚を認めていただくために歌い手になったわけではありません」
謁見の間が静まり返った。
「今の私には、旅先で待ってくれている人たちがいます。歌いたい歌も、行きたい場所もあります」
国王は頷いた。
「それでよい」
意外な返事だった。
「余は、お前に何かを命じるつもりはない。ただ、謝罪したかったのだ」
国王が玉座から立ち上がった。
「娘の気持ちを、王家の都合だけで決めようとしたことを」
そのとき、エリシアが一歩前へ出た。
「お父様。私からも、お話があります」
国王が娘を見る。
「隣国との婚約についてです」
僕は息を止めた。
「私は、あの婚約をお受けしません」
「エリシア」
「外交上の責任があることは理解しています。ですから、先方への説明も、代わりの協定についての交渉も、私自身が責任を持って行います」
彼女の声は震えていた。
それでも、目を逸らさなかった。
「私は王女としての務めから逃げたいわけではありません。でも、自分の人生を、誰かに嫌われることが怖いという理由だけで決めたくないのです」
国王は長い間、黙っていた。
「……それが、お前の決意か」
「はい」
エリシアは深く頭を下げた。
「そして、ルカ」
彼女が僕を見た。
「あなたに、もう一度好きになってほしいとは言わないわ」
「……え?」
「私が変わったかどうかは、これからの私を見て判断してほしい。あなたが旅を続けたいなら、私はそれを尊重する」
彼女は少し笑った。
「今度こそ、あなたの夢を恥ずかしいなんて思わない」
僕は返事ができなかった。
ただ、三年前の庭園で俯いていた少女が、今はまっすぐ前を向いていることだけは分かった。
*
それから半年。
僕は再び旅に出た。
エリシアからは、ときどき手紙が届いた。
最初の手紙には、こう書かれていた。
『隣国との婚約は、正式に解消されました。先方との交渉は大変でしたが、新しい通商協定を結ぶことができました』
次の手紙には、王都で開かれた小さな音楽祭のこと。
その次には、王宮で働く人々の子供たちのために、音楽を学べる場所を作り始めたことが書かれていた。
僕は返事を書いた。
旅先で見た景色。
新しく作った曲。
失敗した演奏会の話。
そして、あの山間の村で出会った少女が、今では自分で歌を作るようになったこと。
手紙を交わすうちに、僕たちは少しずつ、昔のように話せるようになった。
ただし、昔とまったく同じではなかった。
エリシアは自分の意見をはっきり書くようになった。
僕も、嫌なことは嫌だと伝えるようになった。
ある日、彼女からこんな手紙が届いた。
『来月、王都で新しい音楽堂が完成します。もしよければ、最初の演奏者になってくれませんか。
ただし、王女としての命令ではありません。
あなたの歌が好きな、一人の聴衆としてのお願いです』
僕は思わず笑った。
返事は、一行だけにした。
『喜んで。今度はちゃんと、出演料を払ってね』
数週間後、返事が来た。
『もちろんです。王宮の会計係にも確認しました!』
僕は声を出して笑った。
*
音楽堂の完成式典が終わった夜。
僕たちは久しぶりに、二人きりで庭園を歩いた。
春の風が吹いていた。
あの白い花の咲く木は、昔よりもずっと大きくなっていた。
「覚えてる?」
エリシアが尋ねた。
「何を?」
「ここで、私があなたに歌をお願いしたこと」
「何百回もね」
「そんなに頼んでないわ!」
「いや、頼んでたよ」
彼女は頬を膨らませた。
昔と変わらない仕草だった。
僕は笑った。
エリシアも笑った。
しばらくして、彼女が静かに言った。
「ルカ。私、まだあなたが好きよ」
風が止んだように感じた。
「でも、返事を急がせるつもりはないの」
彼女は続けた。
「あなたが私を選ばなくても、私はあなたの歌を応援したい。それだけは、本当よ」
僕は木の幹に手を当てた。
三年前。
ここで、僕たちは別れた。
あの頃の僕は、彼女がいなければ幸せになれないと思っていた。
でも、今は違う。
旅先には友人がいる。
歌を待ってくれる人たちがいる。
自分で選んだ人生がある。
それでも。
目の前の彼女と、もう一度歩いてみたいと思った。
「エリシア」
「なあに?」
「僕も、まだ君が好きだよ」
彼女が目を見開いた。
「……本当に?」
「うん。でも、一つだけ約束してほしい」
「何でも言って」
「もう二度と、僕のことを恥ずかしいと思わないでほしい」
彼女は真剣な表情で頷いた。
「約束するわ」
「それから、僕はこれからも旅を続けたい」
「分かってる」
「王宮にずっといることはできないと思う」
「それも分かってるわ」
彼女は僕の手を取った。
「だから、二人で考えましょう。あなたの夢も、私の責任も、どちらか一方が諦めなくて済む方法を」
僕は彼女を見つめた。
そして、ゆっくり手を握り返した。
「……うん」
エリシアの目から涙がこぼれた。
「今度こそ、大切にするわ」
「僕も」
僕たちは、もう一度恋人になった。
*
もちろん、それですべてが解決したわけではなかった。
王女と平民の交際を快く思わない貴族もいた。
僕のことを、王家の名声を利用しようとしている男だと噂する者もいた。
ある晩餐会では、年配の貴族にこう言われた。
「旅芸人が王女殿下のお隣に立つとは、随分と出世したものですな」
以前の僕なら、黙って頭を下げていただろう。
けれど、その日は違った。
「私は旅の歌い手です。今も、それを誇りに思っています」
貴族が眉をひそめた。
そのとき、エリシアが僕の隣に立った。
「私も、彼の仕事を誇りに思っています」
「で、ですが殿下……」
「彼の歌は、王都だけでなく、遠くの村や町でも人々を励ましてきました。私には、まだできていないことです」
彼女は堂々と言った。
「私は彼から学ぶことがたくさんあります」
貴族はそれ以上、何も言わなかった。
僕は彼女を見た。
エリシアは少し緊張していた。
テーブルの下で、彼女の手が震えているのが見えた。
僕はそっと、その手を握った。
「ありがとう」
小さく囁くと、彼女は微笑んだ。
「今度は、ちゃんと言えたでしょう?」
「うん」
僕たちは顔を見合わせて笑った。
*
それから一年後。
僕はエリシアに結婚を申し込んだ。
場所は、もちろんあの庭園だった。
豪華な指輪は用意できなかった。
代わりに、旅先で見つけた小さな青い宝石を使い、知り合いの職人に指輪を作ってもらった。
「エリシア」
「はい」
「僕と結婚してください」
彼女はしばらく、何も言わなかった。
そして突然、泣き出した。
「……ずるいわ」
「え?」
「そんなの、断れるわけないじゃない……!」
僕は慌てた。
「い、いや、断ってもいいんだよ?」
「断らない!」
彼女は僕に抱きついた。
「絶対に、断らない!」
僕は彼女を抱きしめた。
春の花が、風に舞っていた。
*
結婚式の日。
王都の大聖堂には、多くの人々が集まっていた。
王族や貴族だけではなかった。
僕が旅先で出会った人たちも招待されていた。
山間の村で歌を聴いてくれた少女も、母親と一緒に来ていた。
「ルカお兄ちゃん!」
彼女は僕を見つけると、嬉しそうに手を振った。
「今日は歌わないの?」
「歌うよ」
「本当?」
「うん。とっておきの歌をね」
少女は満面の笑みを浮かべた。
やがて、鐘が鳴った。
扉が開く。
純白のドレスをまとったエリシアが、ゆっくり歩いてきた。
金色の髪には、小さな白い花が飾られていた。
あの日と同じ花だった。
僕は思わず息を呑んだ。
彼女が目の前に立つ。
「……どう?」
小さな声で尋ねられた。
「すごく綺麗だよ」
「本当?」
「うん」
彼女は嬉しそうに笑った。
「昔も、そう言ってくれたわね」
「昔より、ずっと綺麗だよ」
「もう……」
エリシアは頬を赤くした。
誓いの言葉を交わし、指輪を交換した。
そして、僕たちは夫婦になった。
*
披露宴が始まる前。
僕は小さな舞台へ上がった。
手には、父からもらった古いリュート。
エリシアが不思議そうに首を傾げた。
「ルカ?」
「覚えてる? 昔、約束したこと」
「約束?」
「大人になって、一番素敵な歌を作ったら、最初に君に聴かせるって」
彼女は口元を押さえた。
「……覚えてるわ」
「ずいぶん時間がかかったけど」
僕は微笑んだ。
「ようやく完成したんだ」
会場が静かになった。
僕はリュートを奏で始めた。
幼い頃、二人で過ごした庭園。
初めて手をつないだ日。
別れた冬。
一人で旅をした年月。
そして、もう一度出会えた春。
そのすべてを、一つの歌に込めた。
君と出会ったあの日から、
僕の世界は色づいた。
離れた道も、流した涙も、
今は大切な思い出。
君がいなくても歩ける僕が、
それでも君と歩きたい。
昨日の約束ではなく、
今日の心で、君を選ぶ。
明日も、その次の日も、
僕らはきっと迷うだろう。
それでも二人で手を取り合って、
新しい歌を作っていこう。
歌い終えると、会場は静まり返っていた。
エリシアは両手で顔を覆っていた。
その頬を、涙が伝っている。
僕は舞台を降り、彼女の前に立った。
「どうだった?」
彼女は涙を拭いながら笑った。
「……ひどいわ」
「えっ?」
「こんなに泣かせるなんて、聞いてないもの」
僕は笑った。
「ごめん」
「でも……」
彼女は僕の手を取った。
「世界で一番、素敵な歌だった」
そして、そっと囁いた。
「ありがとう、ルカ。私を、もう一度愛してくれて」
僕は首を横に振った。
「僕こそ、ありがとう」
彼女の額に、自分の額を重ねた。
「もう一度、一緒に歩こうとしてくれて」
エリシアは微笑んだ。
「ええ。今度は、どんな道でも」
僕たちは口づけを交わした。
周囲から、温かな拍手が響いた。
*
結婚してからも、僕は歌うことをやめなかった。
王宮に戻る日もあれば、各地の町を巡る日もあった。
エリシアも公務の合間に、僕の旅へ同行するようになった。
ある村では、彼女が王女だと知らずに、子供たちが一緒に歌おうと誘ってきたこともある。
彼女は嬉しそうに輪へ加わった。
その姿を見て、僕は思った。
ああ。
僕が好きになった女の子は、やっぱりこの人なんだ。
ある春の日。
僕たちは久しぶりに、王宮の庭園を訪れた。
あの白い花の咲く木の下で、エリシアが僕の袖を引っ張った。
「ねえ、ルカ」
「何?」
「もう一回、歌って!」
僕は思わず笑った。
「また? さっきから同じ歌ばかりだよ」
「だって、好きなんだもの!」
懐かしい言葉。
懐かしい笑顔。
でも、今の僕たちは、もうあの頃の子供ではない。
彼女は僕の妻になった。
僕は、自分のために歌えるようになった。
そして今、僕は自分の意思で、彼女のために歌いたいと思っている。
「分かったよ」
僕はリュートを構えた。
「今日は何を歌おうか?」
エリシアは僕の肩に寄り添った。
「何でもいいわ」
「何でも?」
「ええ。あなたが歌ってくれるなら、何でも」
僕は空を見上げた。
白い花びらが、春風に乗って舞っていた。
かつて僕は、彼女を失えば、もう二度と幸せになれないと思っていた。
でも、それは違った。
一人でも歩けるようになったからこそ、もう一度、彼女と歩くことを選べたのだ。
僕はゆっくりと弦を鳴らした。
するとエリシアが、昔のように小指を差し出してきた。
「ねえ、ルカ。これからも、ずっと歌ってね」
僕はその小指に、自分の小指を絡めた。
「うん。約束する」
今度の約束は、彼女だけのためじゃない。
僕自身の夢を守りながら、彼女と幸せを分かち合うための約束だ。
そして僕は、歌い始めた。
大好きな人が隣で笑っている。
その幸せを、今度こそ当たり前だと思わないように。
僕たちの新しい日々に、終わりのない歌を贈るために。
――おしまい。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
ルカとエリシアの物語を少しでも楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。
よろしければ、感想や評価(☆☆☆☆☆)をいただけると、今後の創作の励みになります。
最後までお付き合いいただき、心より感謝いたします。




