small world
「ねぇパパ、小さくなったら何になりたい?」
娘が笑いながら、キラキラとした眼で私にそう問いかけた。私は苦笑した。最近保育園の先生に、「芽愛ちゃんは大きくなったら何になりたい?」と聞かれたそうだ。それを真似っこして、でもちょっとアレンジして、この頃毎日、私を見るたびにそう聞くのだった。
「ねぇねぇ。パパは小さくなったら何がしたいのー?」
「パパはねぇ、大人は、これ以上小さくなれないんだよ」
次の日。課長の前で小さくなりながら、私は必死に娘の笑顔を思い出していた。何だか良く分からないが、目標数値に届かなかったのだという。数字が小さかったのだ。いつ終わるとも分からないお説教を聞きながら、私はひたすら平謝りした。売上ナントカカントカ、ナントカノルマ、ナントカ満足度、ナントカランキング……ふと瞼の裏で、頭の中で娘が私に問いかける。
「小さくなったら何がしたい?」
「お前は一体、何がしたいんだ!?」
怒鳴り声に思わず顔を上げる。課長の後ろ、窓の外は清々しいくらい青青と晴れ渡っていた。私は目を細めた。嗚呼……こんなにも小さくなりながら、私は結局、何がしたかったのだろう?
帰りは、今日も遅くなった。この頃毎日だ。終電に近い電車に疲れた体を預け、深く息を吐き出す。次の駅で、居酒屋の帰りだろう、泥酔した20代くらいの若者が4〜5人、大きな笑い声を上げて同じ車両に乗ってきた。私はチラと一瞥しただけで、慌てて顔を背けた。絡まれるのは厄介だと思ったのだ。
群れをなした若者たちは、パチンコ店の店内みたいな騒がしさで、私のそばで楽しそうにゆらゆらしていた。そのうち彼らは、私の向かい側、同じ車両に乗っていた別の乗客の、若いOLに絡み始めた。彼女もまた仕事帰りなのだろう、明らかに迷惑そうな顔をしている。思わず私がその成り行きを見守っていると、ふと若者の1人と目が合った。
「何見てんだよ、オッサン」
私は慌てて目を伏せ、身を縮こまらせ、できる限り小さくなった。不意に、またしても胸の中で娘の声が聞こえた、気がした。
「小さくなったら何がしたい?」
やっと帰宅した時には、すでに日付が変わっていた。家の明かりは消えていた。妻と娘の寝顔を眺め、思わず顔を綻ばせながら、布団に潜り込む。しかし、上手いこと寝付けなかった。この頃毎日だ。
しばらく粘ったが、諦めて起き上がり、リビングで一杯水を飲んだ。スマートホンに手を伸ばし、暗闇の中青白く輝く、四角い小さな世界に潜っていく。全く、こんなことをしてるから余計寝付けないのだ。分かっていながら、それでも指が止まらない。
世の中は平和なのか平和じゃないのか、良く分からないニュースで溢れ返っていた。難しいことは考えたくなくて、スポーツニュースを連打する。贔屓のチームは、残念ながら今日も負けていた。相手側の、自分より一回りも二回りも若い選手が、今日のヒーローとして讃えられている。
いつの間にか、子供の頃好きだった選手も引退し、見渡せば選手は年下ばかりになってしまった。思えば私も歳を取ったものだ。学生時代の友人は、皆結婚し、それぞれ家庭や仕事を持ち疎遠になってしまった。
……いつからだろう? 他人の成功や幸せを、素直に喜べなくなったのは。嗚呼、私はこんなに小さな人間だったのか。
「パパ……」
隣の部屋から寝言が聞こえて、私は慌てて画面を閉じた。
次の日も、またその次の日も、私は職場で小さくなり、行き帰りの電車で小さくなり、街中で小さくなり、遠く画面の向こうの別世界に軽く嫉妬しては、小さくなった。
「大人はこれ以上小さくなれないんだよ」
笑って娘の頭を撫でながら、今夜もまた、帰りの電車で身を縮こまらせ、周りの目を気にして世間体を気にして、ただひたすらに小さくなる。ガラガラの車両で、また見知らぬOLが、酔っ払った若者にしつこく絡まれていた。私は顔をしかめた。
そういえば……ふと私は昔のことを思い出した。若い頃は私も、警察官を目指した時期があったっけ。頭の方はからっきしだが、体の頑丈さには昔から自信があった。だが持病があり、身体検査に引っかかり、結局断念したのだが。
「あぁん? 何か言いたいことでもあんのか? オッサン」
顔を赤くした若者の1人が、私の視線に気がついてこちらに近づいてきた。私は緊張して縮こまった。妻の、娘の顔が脳裏にチラつく。
「何だよ? あ?」
「ごめんね……」
私は心の中で家族に小さく謝った。
「ん?」
「……大人はこれ以上、小さくなれないんだよ」
そう言うと私は、小さな勇気を振り絞り、立ち上がっていた。




