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第2章2話 交錯する日常 (フィン in 日本)

——フィン・モーガン in 長野

チェンジリング2日目。


目を開けた瞬間、世界はまだ夜の名残をまとっていた。

窓の外は、ただただ深い漆黒。

その黒が、山の稜線をかすかに縁取るまで、

光はまだ姿を見せない。


フィン・モーガンは慣れない布団の中で、

自分の身に起きた出来事を思い返していた。


まず、一昨日からいこう。

一昨日はシドニーにいた。それは確かなはず。

サーフィンして、深酒して、ベッドに転がって……

そこからの記憶がない。


そして昨日の朝、起きたらここにいた。

しかも“守山謙一郎”として。


なぜか、ここで守山謙一郎として生きてきた記憶もある。

というか、妻である早苗に触れられた瞬間、

記憶が雪崩れ込んできたのだ。

おかげで日本語もわかるようになってしまった。


そして何より恐ろしいのは、

周囲の人間が、俺を“守山謙一郎”だと

一ミリも疑っていないことだ。


違和感を覚えているのは、俺だけ。


で、いろいろ言った結果、

早苗に病院へ連れて行かれた。

医者の診断は「ストレス」。


何度でも言うが、ストレスで国籍は変わらない。


でも、言ったところで堂々巡りになるだけなので、大人しく帰宅した。

仕事は早苗の裁量で休みになり、ソファでゴロゴロして、食事して、シャワーを浴びて、

早々に寝た。


おいおい、俺よ。

もっとやるべきことがあったんじゃないか?

情報収集とかさ。


「あなた。そろそろ起きたら?」


ひとりでぶつぶつ考え込んでいると、

早苗が声をかけてきた。

いつの間にか身支度を整え、

食事の準備まで済ませているようだった。


そろそろ起きたら、って。

まだ外は暗いじゃないか。

それに、なんでこんなに寒いんだよ。

シドニーじゃクーラー入れるくらい暖かいのに。


そもそも“あなた”ってなんだ。

俺はフィン、フィン・モーガンだっての。


「ちょっと、聞いてる?もう7時過ぎてるわよ。いつもなら休みでも6時半には起きてくるじゃない」


はぁあ? 7時?

外はこんなに暗いのに?

ただでさえ暗い気分が、さらに暗くなる。


「ねぇ!

いい加減、返事くらいしたらどう?」


さすがに怒り始めたので、慌てて返事をした。


「す、すまない。

ちょっと考えごとをしていて。

そろそろ起きるよ。ありがとう、早苗」


早苗が訝しげにこちらを見る。

何か返答を誤ったらしい。


「どうかした?」


「やっぱりまだヘンね。

名前で呼ばれるなんて、20年ぶりだわ」


おいおい、謙一郎。

妻の名前くらい、毎日呼んでやれよ。


……なるほど、呼び方か。

こっちでは愛称で呼ぶ文化があるんだな。


「あぁ、まだ混乱していてね。

すぐ行くよ、ハニー」


今度は目をまん丸にして、完全にドン引きしている。

さっきより、ひどい間違いをした。


「はぁぁ……

言いたいことはあるけど飲み込むわ。

ストレスのせいって言われてたし。

とにかく、ご飯用意してあるから起きて」


今世紀最大と思われるため息を残し、

早苗は寝室を出ていった。


フィンは正解がわからないまま部屋に放置され、必死に謙一郎の記憶を辿ったが、

どう呼んでいるのかは結局わからなかった。


リビングへ行くと、

昨日の朝と同じ “The 日本食” が並んでいた。

その中でも、ひときわ異彩を放つ

謎のネバネバした大豆。


記憶を辿る。

――納豆。


(ははーん、これがソウルフードの納豆だな。

謙一郎の記憶では、美味しく食べていたはずだ)


なぜか普通に箸を持ち、

迷いなく納豆を口に運ぶ。


(・・・・・・・・・・・・・・・・・)


悶絶したかった。

でも早苗が見ているからできなかった。


まず、匂い。

次に、口の中でも外でも続くネバネバ。

さらに食感。

そして味。


なぜ、これを美味しそうに食べていた記憶があるのか、理解できなかった。

急に、ベジマイトが恋しくなる。


慌てて味噌汁を飲んだが、

熱くて、口の中が熱した海になった。


「ねぇ、大丈夫?

本当にヘンね。

まぁ、今日も仕事休みだから、ゆっくりして」


優しくされた。

これがツンデレか。

……いや、ツンデレってなんだ。


「でも、さすがに3日も代診は頼めないから。

明日は頑張って仕事行ってね。

それと、今日は夜、いつも通り剣道に行ってきて。

なるべく、いつも通りの生活をって言われてるから」


やっぱり、そこそこ厳しい。


でも、この感じ――

悪くないな。


少しMの道に足を踏み入れ始めているかもしれない、フィンだった。



朝食後、フィンは改めて

謙一郎の情報を整理することにした。


名前:守山謙一郎

年齢:55歳

出身:日本(長野県)

家族:5人家族(妻、息子2人、娘1人)※子どもたちは自立

職業:医師(内科クリニック院長)

体格:175cm、実は細マッチョ

容姿:黒髪黒眼 しょうゆ顔

趣味:剣道、ドラマ鑑賞

性格:謙虚、自信がない(本人イメージ)


ざっとこんなところか。

細マッチョとしょうゆ顔がよくわからないが、

まぁ整理はできてきた。


しかし性格が、しょうもない。

謙虚も自信がないも、ほぼ同義じゃないか。

それでよく院長が務まるな。


……あ、名は体を表す、か。

謙一郎の“謙”は、謙虚の謙。


なるほど。

って、俺、こんなことまで理解できてるのか。

一昨日までは日本語なんて

見たことも聞いたこともなかったのに。


この謙一郎ってやつは、どこに行ったんだ。

消えたのか。

それとも、俺みたいに別の場所に行ったのか。

もしかして……シドニー?


今さらながら、大事なことに気づく。


俺自身の連絡先は、どうなってる?


急いでスマホを手に取り、

海外料金のことなど一切考えず、

フィン・モーガンの番号に電話をかけた。


「……この電話は現在使われておりません」


一瞬で撃沈。


俺という存在が、消滅した?

いや、待て。国際電話だからだ。

じゃあメールは?


《Delivery Status Notification (Failure)》


少しのタイムラグの後、再び撃沈。


「Easy… easy. Everything is fine…」


口癖を口にしてみたが、

まったく大丈夫じゃなかった。


気を取り直して、ネット検索。


「フィン・モーガン」

「Finn Morgan」

「オーストラリア フィン・モーガン」


出てくるのは、知らないフィンばかり。


同姓同名のアーティスト。

知らない町の議員。

別の国の大学教授。


どれも、俺じゃない。


(……俺、消えてる?)


背中を、冷たいものが這い上がる。

昨日まで確かに生きていた人生が、

痕跡ごと消えている感覚。


その代わり、この世界には

「守山謙一郎」が、完璧に存在している。

家も、家族も、仕事も、過去も――

そして、今夜の予定まで。


その後もフィンはパソコンに張りつき、

ひたすら自分の痕跡を追ったが、

存在を証明できる情報は、ひとつも見つからなかった。


……が。


ここで落ち込まないのが、オーストラリア人だ。


「Easy, easy. Everything is fine!」


よし。

とりあえず、一旦は

守山謙一郎としての生活を楽しんでみよう。


だんだん、

謙一郎だった気もしてきた(そんなはずはない)。


たしか今夜は、剣道とかいうマーシャルアーツをやるんだったな。

記憶を頼りに、少し予習しておくとしよう。


……オーストラリア人は、打たれ強かった。


だがそんなオーストラリア人でも、物理的に打たれると普通に泣きそうになるという事実を、

このときのフィンは、まだ知らなかった。



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