第2章1話 交錯する困惑
——フィン・モーガン in 長野
世界に全く馴染めずにいたフィンだが、それでも日常はめぐるから残酷だ。
「あなた、朝ごはんよ」
謙一郎の妻、つまり今のフィンの妻である早苗が声をかける。
言われるがままリビングへ向かうと、味噌汁の湯気が立った朝食が並んでいた。
まさに “The 日本食”。
これが旅行中のご飯だったなら、どれほど楽しかっただろう。
謙一郎の記憶が混ざったおかげで、自然と箸を持ててしまった自分にゾッとしながら、手をつけずに固まってしまう。
「食べないの?冷めちゃうわよ」
「えっと…サンキュー。
I mean…ありがとう。ミソスープ…very hot…ね」
妻の眉がキュッとつり上がった。
脳内ルー〇柴状態が続いている。
「まだふざけてるの?ほんとにどうしたの?」
「Listen…いや、聞いてくれ。
俺はここにいる人間じゃない。昨日までシドニーに住んでて、気づいたらここにいたんだ。マジで。信じてほしい」
言えば言うほど、痛い人になる。
ところで“マジで”ってなんだ。いつ習った。
フィンの心のツッコミとは裏腹に、妻の表情は“心配”を超え、完全に医療者の目になった。
「脳神経外科か精神科、行った方がいいかも。
今日はクリニックは休みにするしかないわね」
フィン、人生最速で病院送り確定。
◇
病院にて。
問診票は地獄のスタートライン。
名前:Fin Morgan → 妻に没収
書き直し:守山謙一郎(なぜか書けるのが恐怖)
生年月日:フィンの誕生日 → 没収
住所:Sydney → 没収
妻は横で溜息をつきながら、本来のデータを淡々と埋めていく。
ほぼ妻の筆跡だけになった問診票を見ながら、医師は慈悲深い笑みで言った。
「突然、英語を話し始めたと伺ってます」
「突然じゃない! I was always speaking English!
昨日までシドニーにいたんです!!」
……言えば言うほどヤバい。
医師は優しく説明した。
「採血、CT、MRIなど検査は全て問題ありませんでした。
強いストレスによる一時的な混乱が疑われます」
そんな馬鹿な。
ストレスで国が変わるのか?
矢継ぎ早にさらにトドメ。
「英語については…外国語様アクセント症候群という可能性もありますね」
だから俺は外国語様じゃなくて、外国語そのものなんだよ。
すべて言いたかったが、言ったらまた別の医者が出てくるので、全て飲み込んだ。
◇
帰宅後。
「今日は休んでて。夕方まで寝てなさい。
仕事は明日も休みにするから。あなたの後輩さんに事情を話して、なんとか代診を立ててくれるように頼んでおいたから、心配いらないわ」
妻はそう言いつつ、完全に監視モード。
フィンは言語の交通渋滞にあいながら日本語で返す。
「Yes…いや、うん。OK…じゃなくて…わかった」
妻はテレビをつけながら、何気なく言った。
「なるべく普段通り過ごすように言われたから、
明日はいつも通り剣道に行ったらどう?」
……は?
剣道?
俺が?
いやいや無理だろ。
謙一郎の記憶には剣道が山ほどあるが、ほぼ痛い記憶しかない。
(この男、実はドMだったのか…?)
「決定ね。
稽古仲間さんにも事情を話しておくから」
フィンがうろたえている隙に話は進んだ。
シドニーにいた時、つまりは昨日までは、全て自分で決めていた。
だが今は、妻の一言で予定が決まる。
日本の妻、強い。思ってたんと違う。
この状況にもどかしさと共にほんの少しの心地良さを感じ始めているフィンであった。
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——守山謙一郎 in シドニー
フィンが日本の長野で混乱していた同時刻。
南半球のシドニーでは、謙一郎も最高にカオスな朝を迎えていた。
突然やってきたスキンヘッドの大男に腕を引かれ、気づけば隣の家。
玄関から現れたのは金髪カールに緑の瞳、長身の美女。服が限界ギリギリ。
「Morning, Finn! Ready for breakfast?」
「Morning…いや、グッモーニン。
I’m not フィンじゃない。
I’m 守山謙一郎、ジャパニーズ」
脳内ルー〇柴、逆方向で発動。
英語に日本語ミックスのバグ仕様。
「HAHA!そのキャラ設定はなんだ?朝からキレてるのか?」
大男が大きな声で会話に入ってくる。
真剣なのに冗談扱い。つらい。
「ここどこ? Where…ここどこ?」
「シドニーに決まってるって!二日酔い?朝から変だぞ」
変なのは世界の方だ。俺じゃない。
……いや、俺かもしれない。
「なぁ、フィン。ベジマイトでも食べて調子上げてこうぜ!今日はたくさん用意してるからさ」
なんだ?ベジマイトって。
ソウルフード的なものか?
せっかくオーストラリアにいるから食べなくては損か。
などと一人の世界に入ってみたが、スキンヘッド大男夫妻の視線に耐えられなくなった。
「俺、ちょっとおかしいよね。病院行ってくるよ。」
「そうか。まぁ、とりあえず朝食は食べてきな!」
このあと謙一郎がベジマイトをたっぷり塗ったトーストを食べ、悶絶したのは言うまでもない。
◇
病院。
問診票はすべて英語。だが、普通に読めてしまうことに恐怖を感じた。
本来なら喜ばしいことなんだが。
フィンの記憶に頼りながら、
“Finn Morgan”としての情報を正しく記入していく自分。
症状欄には、
「自分が自分でない感覚がする」と正直に書いた。
精神科一直線の回答だが、これ以外に言いようがない。
医師は爽やかスマイルで言う。
「アイデンティティが揺らいでるんじゃない?
仕事のストレスですよ、きっと!」
ストレスで国籍と名前と人生が変わるらしい。
懸命に説明するも、肩をバンバン叩かれて
「ベジマイト食って、ビール飲んで寝れば治りますって!」
とのアドバイス。
オーストラリアの医療はワイルドだ。
◇
帰宅すると、今度は部下らしき男たちが複数待機していた。
「Boss!よかった!連絡取れないし、早く指示をください!」
部下その1(たぶんジェームズ)が矢継ぎ早。
(誰だお前ら。てか、なんで俺がボス?)
しかしフィンの記憶が囁く。
——そうだ、こいつら部下だ。
「そのー…体調不良で。今日明日は仕事に行けない。
代わりにお願いできる?」
全員が驚いた顔に変わる。誰もがなにも答えない。
「どうしたんだ?」
「い、いつもと様子が違うので…」
「普段の俺はどう?」
顔を見合わせたあと、部下が勇気を振り絞る。
「正直…自信の塊で、我々は雑用係としか…
どんな些細なことも直接ボスに確認しないと怒られます」
(フィンさんよ…あんたなかなかの人物だな。俺はそうはなれないぞ。)
「じゃあ頼んだ。チャンスだと思って頑張ってくれ」
部下たちは一瞬戸惑い、しかしすぐにキラキラした表情になって去っていった。
オーストラリア人、前向きすぎる。
◇
謙一郎は静まり返ったリビングに一人たたずんでいた。
(……俺、なにしてんだろ)
外から聞こえるのは鳥の声と波の音。
窓の外には、憧れの海外ドラマでよく見るような青い海。
そして鏡に映るのは、典型的な日本人顔の俺。
急に現実に引き戻される。
(おいおい。どうせなら金髪青眼の西洋人にしてくれよ。)
ふとスマホに目を向けると、リマインドが表示されていた。明日の日付で
"午前7時 サーフィン VIPと"
まさかこの男は、仕事の日の朝にサーフィンに行こうとしていたのか。
恐るべし、オーストラリア人。
いや、フィン・モーガンがそういう男なのかもしれないが。
VIPってなんだよ。記憶を辿ったが、そこまで詳しい記憶は搭載されていなかった。
集合場所だけ都合よく覚えている。
(……明日、本当に行くのか、俺)
スマホの画面をスリープに戻し、謙一郎は深く息を吐いた。
窓の外には見たことのない、デカい鳥がこちらに睨みをきかせており、逃げ場のない現実を淡々と知らせてきた。




