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第1章6話 気づかれぬ変異 (謙一郎 in オーストラリア)

——守山謙一郎 in シドニー


謙一郎はスマホを握ったまま、完全にフリーズしていた。

広すぎる寝室。クーラーの低い唸りだけが虚しく響く。

喉がまた焼けるように乾いている。


(と、とにかく……水)


足早に室内を探すが、水は見当たらない。

仕方なく部屋の外へ。

やはり見覚えがない場所だった。ホテルか?別荘か?

そもそも、ここはどこだ。自分は——


洗面所めいた部屋を見つけ、蛇口をひねる。

やけに立派な水栓から、水が勢いよくあふれた。

備え付けのグラスに水を入れ、一気に半分ほど飲む。

そのとき——鏡が目に入った。


寝癖のついた、いつも通りの自分。

黒髪黒眼の、見慣れた日本人の顔。


(夢じゃない……けど現実でもないはず)


状況を整理しようと、鏡の前で眉間を押さえた瞬間——

チャイムが鳴った。


無視。

もう一度鳴る。

無視。

連打。

——そして、ドアが開いた。


(おい、鍵をかけてないのか。不用心にもほどがあるだろ)


心の中で突っ込みつつも動けない。

足音が近づき、背後で止まった。


「Hey!!!! Morning, Finn! You up?」


背筋が猫みたいに跳ねた。

振り返ると、スキンヘッドの大男。

瞳は青く、眉は自然な茶色。

海辺仕様のTシャツとサンダル。

笑顔がやたら陽気だ。


「……Fin…?」


オウム返しすると、親指を立てられた。


「Yeah! Finn Morgan. That’s you, mate!」


(違う!!!!)


声にならない悲鳴。

英語が喉で渋滞してる。


混乱。言語能力のクラッシュ。

日本の英語教育の責任にしたいけど、そんな余裕はない。


大男は気づかず、肩にドンと手を置いた。


——その瞬間。


耳鳴りが爆裂した。

視界が波打つ。光が弾ける。

沈んでいた何かが、轟音とともに浮き上がってくる。


潮の匂い。

灼けた砂。

サーフボード。

笑い声。ビール。

朝焼け。

海に飛び込む高揚。

知らない友人達の顔。

“フィン”と呼ばれる自分。


(やめろ……それは俺じゃない)


流れ込む。

侵食する。

昨日までの自分を押し流そうとする、もう一人の人生。


膝が崩れ、鏡台につかまる。


男はさらに笑って言う。

「妻が朝食作りすぎたってさ。一緒にどうだい、フィン!」


英語なのに。

すべて理解できる。

発音もイントネーションも、懐かしいくらい馴染む。


まるでこの身体が、

英語の人生を何十年も生きてきたみたいに。


(俺はフィンじゃない。俺は……)


でも返事をしそうになる。

脳が“日常”と錯覚し始めている。


ただ、感情だけが置き去りだ。


見知らぬ家。見知らぬ隣人。見知らぬ名前。

それなのに、世界は完璧に“フィンの朝”を進行している。


(待て。じゃあ俺の顔も変わってるのか?)


慌てて鏡を見る。

——いつもの顔。


(こういう時は顔も変わるんじゃないのか……?どうせなら海外ドラマの俳優みたいにカッコよくしてくれよ。最近観てたメンタリストってドラマの俳優みたいにさ。)


心の中で悪態をつきつつ、とりあえず確認。


「あの、俺って今どう見える?」


「ん?何言ってんだ。ナイスガイって誉めてほしいのか?」


「いやそうじゃなくて……髪、黒い?」


「ああ。真っ黒だ」


「瞳の色は?」


「ブラウン」


「何人に見える?」


「オーストラリア人に決まってるだろ!」


「この顔で?アジア系だろどう見ても」


「いぃや。オーストラリア人だ。絶対に」


「そもそも『フィン』って顔じゃないだろ。」


「何を言ってるんだ。お前はフィン・モーガンだ!これまでも、そしてこれからも!」


「いや、だから俺は——」


「お前はフィン・モーガンだ!これまでも、そしてこれからも!」


会話が、固定されている。


謙一郎はゆっくり後ずさった。


(だめだ。これ以上話が通じない)


ふとスマホを見下ろす。

英語の通知。入れた覚えのないアプリ。

そして——

水平線を切り裂くサーフボードが輝く待ち受け画面。


それらが「フィンの人生」を指し示すたびに、

世界は当たり前の顔をして、俺を塗り替えてくる。


なのに——

俺の中だけ違う声が叫び続けている。


この違和感を知っているのは、俺ひとりだけ。


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