第1章5話 気づかれぬ変異 (フィン in 日本)
——フィン・モーガン in 長野。
フィンは窓の外の光景を前に、ただ立ち尽くしていた。
長野の山々。吐く息の白さ。足から伝わってくる畳の感触と冷たさ。
背後で布団がもぞりと動いた。
フィンの全身がびくりと跳ねる。
「あなた? どうしたの、そんなところに突っ立って」
隣で寝ていた見知らぬ女性が声をかけてきた。
言語はフィンの知らないもの——日本語だ。
意味は分からない。ただ、自分に話しかけていることだけは分かった。
ゆっくりと振り返る。
黒髪の女性が、眠たげにこちらを見ている。
「ちょっと。どうしたのって聞いてるんだけど」
怪訝そうな顔。
フィンは慌てて口を開く。
「Uh… I’m sorry, I don’t understand.
Who are you? Where am I!?」
英語を吐き出した瞬間、女性の表情がさらに険しくなる。
「何言ってるの? 冗談なら面白くないんだけど。海外ドラマの見過ぎ?」
伝わらない。言葉が通じない。
それが、恐怖となって胸に沈む。
「Listen, please. There’s been a mistake!
I don’t live here! I don’t know y—」
必死に訴えるが、女性はぽかんと口を開けたまま。
「英語で何言ってんのよ……ほんとに大丈夫?」
困惑を超え、今度は心配そうに近づいてくる。
その視線は、幼児が突然意味不明な言葉を喋り出したときのようだ。
フィンは後ずさる。
だが女性は距離を詰め、そっと肩に手を置いた。
——ドクン。
視界が白く弾ける。
幼少期の記憶。
学生時代。
病院の廊下。
剣道の竹刀の音。
結婚式の日の涙。
この部屋で笑い合った夜。
知らないはずの人生が、
一気に、容赦なく脳内へ流れ込む。
(……なんだこれ……全部、俺じゃない)
否定しようとするほど、記憶は鮮明になる。
フィンと謙一郎の人生が、頭の中で衝突し、混ざり合う。
「大丈夫?」
女性の声が優しく刺さる。
なぜだか言葉が分かる。
混乱しつつもその女性をじっと見つめれば、それは妻の顔だった。
口が勝手に動いた。
「……お、俺は……守山……謙一郎……?」
口から出たのは日本語だった。
そしてその言葉に、女性は安心したように微笑む。
「そうよ。当たり前じゃない」
当たり前じゃない。
俺はフィンだ。
海辺で育ち、シドニーで眠った。
なのに、どうして——
視界が滲み、畳の冷たさが足先を刺す。
「いったいどうしたのよ。まあいいわ。朝ごはん作るからね」
女性は何も知らず、キッチンへ去っていく。
フィンはふらつく足で鏡へ。
映る姿は——
ブロンドの髪。青い瞳。筋肉質な体。
どこからどう見ても、いわゆる日本の中での “The 外国人”。
(これで……守山謙一郎は無理があるだろ!!)
思わず妻を呼ぶ。
「俺ってどう見えてる?」
「何言ってんのよ。いつも通りよ」
「金髪?」
「金髪」
「青い目?」
「青い目」
「ナイスガイ?」
「……知ってる」
「サイモンベイカーみたいな?」
「それは言い過ぎ」
「厳しいな。
それで、守山謙一郎で違和感ない?」
妻は一瞬だけ眉をひそめ、
すぐに答えた。
「別におかしくないわよ。あなたは守山謙一郎。ずっとそうだったでしょ?」
フィンはさらに食い下がる。
「外国人顔なのに?」
妻、動じず。
「あなたは守山謙一郎。ずっとそうだったでしょ?」
「この顔で守山謙一郎はないだろ」
「あなたは守山謙一郎。ずっとそうだったでしょ?」
フィンはそっと後ずさった。
(……ヤバい。会話がループしてる)
フィンはもう一度、窓の外を見た。
見慣れない山々。冷たい空気。静かな朝。
ここは日本の長野。
そして俺は、守山謙一郎……らしい。
けれど——鏡に映る自分はフィン・モーガンで。
世界は、何事もなかったような顔で朝日をのぼらせてくる。
その眩しさに、フィンは思わず目を細めた。
(……本当に間違ってるのは、俺なのか?
それとも、この世界か?)
美しい朝のなかで、ひとりだけ違う存在——
つまり――
この違和感を知っているのは、俺ひとりだけ。




