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第1章4話 変異の朝

——長野。

11月の朝は、長野の山間にいつもより重い冷気を運んでいた。

木造の家の隙間から入り込む冷たい空気が、布団の中のぬくもりと鋭い対比をつくる。


本来ならその布団の中には守山謙一郎がいたはずだった。

しかし、不可思議な妖精のいたずらにより、

そこには何の縁もゆかりもないフィン・モーガンが寝ている。


まだ夢の底に沈んでいたフィンの耳に、控えめな鳥の声が届く。

チュンチュン、チュンチュン。

日本の朝を象徴する、あの素朴な鳴き声。


「……チュン? なんだ、この間抜けな鳴き声は……」


彼は顔をしかめた。

気のせいかと思い、寝返りをうった拍子に、

今度は右手が何かに触れる。

硬すぎず、柔らかすぎず、人の体温を宿した感触。


「っ……!?」


一瞬で目が覚めた。

そこで視界に入ったのは、見知らぬ女性の横顔。


肩まで伸びた黒髪が枕に流れ、

規則正しい寝息が聞こえる。


「……ま、待て……だ、誰だ……?」


恐怖よりも先に頭をよぎったのは、


(……俺……昨日、誰と寝た……?)


最低な反応だった。


必死に記憶をたどろうとするが、三本目のワインを空にしたあたりから映像が存在しない。


「ハハ……ついに俺もヤキが回ったか……。」


乾いた笑いで自分を誤魔化していると、

さらなる違和感が襲う。


寒い。

そして——この部屋は知らない。


ベッドがない。

自分は畳の上らしき床に寝ている。

着ているのは見覚えのないパジャマ。


(……おいおい、こういうコンセプトの店に行ったのか?)


また最低な方向へ現実逃避しつつ、隣の女性を起こさぬよう静かに体を起こした。


部屋を見回す。

壁に掛けられた墨絵のような書。

その隣には剣に似たもの——日本刀か。

そして床はフローリングではなく、記憶が正しければ、畳とよばれる床。


間抜けそうな鳥の声だけが遠くで続いている。


(……なるほど。アジア系の、おそらく日本を意識した“そういう店”ってやつだな。)


どこか自分に言い聞かせるように結論づけ、窓へ近づいた。

寒さに思わず身をすくめながら、カーテンに指をかける。

少しだけ布を持ち上げ——


目に飛び込んできた光景に、脳がフリーズする。


「……Oh my god.」


遠くまで連なる山肌。

黄色と赤の落葉樹。

吐く息の白さ。

静かで、冷たい、見知らぬ日本の景色。


演出でも、コンセプトでもない。


ここはシドニーではない。

彼の知るどの街でもない。


(……俺は……どこだ?)


カーテンの隙間から吹き込んだ冷気が、ようやく現実を知らせてきた。


フィン・モーガンは、長野の家で、長野の朝を迎えているのだった。



——シドニー。

11月のシドニーの朝は早い。6時にはすっかり明るくなり、太陽が陽気な顔でオレンジ色に輝いていた。


真っ白な壁に囲まれた広い部屋の中央で、一人の男が眠っていた。

それは、フィン・モーガンではなく——守山謙一郎。


日本人の中では少し大きめな体格の彼が、

大の字になってもなお余裕のある巨大なベッドで、まだ夢と現実の境目を漂っていた。


部屋を冷やし続けるクーラーの轟音にわずかな違和感を覚えつつも、眠気が勝り、瞼を上げる気が起きない。


ピリリリリッ、ピリリリリッ


ハッと目が覚める。

まるで病院勤務時代の当直中のPHSの着信音だった。

10年以上聞いていなかったが、まだこの音で起きられることに驚きつつ、

音の出どころを探ろうと虚ろな眼の焦点を合わせた。


「……えっ。」


まさに絶句だった。これ以上ない絶句だった。

見慣れた和室が、跡形もない。

隣で眠っていたはずの妻はあとかたもなく、

自分以外の誰の気配もない。

広く、真っ白で、無機質な西洋風の部屋。

キングサイズのベッド。

巨大なクーラー。

見知らぬ家具。

——自宅ではない。


あわてて昨日を思い出す。

仕事を終え、剣道をして、風呂に入って、眠った。

いつもと同じ日常。

何も変わらないはずの一日だった。


「夢だ。夢に決まってる。」

自分に言い聞かせながらベッドにもぐり、

五分間、ぎゅっと目をつむって待ってみたが——何ひとつ変わらない。


どうやらここが現実らしい。


自分以外だれもいない部屋で、なぜか忍者のような動きでそっとベッドから抜け出し、

窓へ向かう。

フローリングの冷たさが足裏に刺さる。

巨大なカーテンをそっとめくると——


果てしない青い水たまりと、その縁に敷き詰められた、陽光で笑うように輝く白砂が眼前に広がった。


つまり、海。

ビーチ。


長野に、海はない。

大きな川はあるが似ても似つかない。


(……ここは、どこなんだ……)


急に喉が渇いた。

水を探そうと部屋を振り返ると、

さっきの音の正体であろう枕元のスマホがみえた。


画面に並ぶのは英語の通知。

見たことのないアプリ名。

聞いたことのない人名。


その黒い画面が、ようやく現実を知らせてきた。


守山謙一郎は、オーストラリアのシドニーで、混乱した朝を迎えているのだった。



こうして二人は、

それぞれの“本来あるべきではない場所”で、見知らぬ朝を迎えることになった。

世界は美しいまま残酷だった。


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