第1章3話 変異の到来
夜の静寂は、漆黒に漂う白い残光のように、ひっそりと脈打っていた。
長野の山間にも、シドニーの海辺にも、等しく。
——長野。
布団に潜り込んだ守山謙一郎は、天井を見上げたまま、もう一度ため息をついた。
もちろん隣で眠る妻を見てため息をついたわけではない。
そんな失礼なことはできないし、許されない。
さっき見た光が、なぜだか妙に気になって頭から離れない。
目の錯覚か疲れかと自分に言い聞かせながらも、胸の奥には小さなざわつきだけがしつこく残っていた。
「明日も仕事だ。早く忘れて寝よう。」
妻を起こさないように小さくつぶやき、考えたくない現実をぼんやり思い浮かべているうちに、
まぶたは黒いカーテンのようにゆっくりと降りてきた。
——シドニー。
フィン・モーガンは、ワインボトルを三本空にしたあとの豪快な勢いのまま、キングサイズのベッドへ倒れ込んでいた。
「くそ……俺の中のカンガルーはなんでブレーキを踏んでくれなかったんだ。」
天井の白い模様がぐらぐら揺れて見える。
もちろん酔っている。そして疲れてもいる。
スマホの画面には新たな仕事メールの通知が並んでいたが、フィンはそれらをまとめて裏返すように画面を伏せた。
「Easy, easy. Everything’s gonna be fine. なんてことない。きっとなんとかなる。」
そう言って目を閉じた瞬間、彼の意識もまた漆黒へすべり落ちていった。
その時、二人はまったく同じ“白い深淵”の中にいた。
そこはどこでもなく、すべてでありながら、何ひとつ形を持たない場所だった。
自分の身体の輪郭さえ曖昧になり、存在がほどけて光の粒へ変わっていくような感覚。
白い景色の中にぽつんと小さな光があった。
それが謙一郎であり、フィンであった。
二つの光は、誰かに導かれるでもなく、互いを知るわけでもないのに、
まるで“本来そうあるべきだった”ようにゆっくりと近づいていく。
引き寄せられるようでもあり、押し出されるようでもあり、何かが静かに動き始めていた。
そして、二つの光が触れ合った瞬間——
白い深淵が震え、かすかな風のようなものが吹き抜けた。
光は交わらず、まるで道を交換するようにすれ違い、入れ替わり、
一瞬だけ、誰のものでもないひとつの輝きが生まれた。
それはまるで、世界がほんの少しだけ息を吸い直したような、
静かで、しかし抗いようのない“変異”の気配だった。
次の瞬間、光は白の底へ吸い込まれ——
世界はゆっくりと、元に戻るふりをした。
暁の空は、北半球でも南半球でも、いつも通りきれいだった。
まるで何事もなかったかのように。
しかし、ほんのわずかな揺らぎの残滓が、確かに存在していた。
——長野。
11月の冷たい空気は、部屋の中でさえも肌を刺すほどだった。
全く起きる気配のない謙一郎の妻の隣で、寒さに本能的に丸くなって布団にくるまっている人物がいた。
それは——残念ながら謙一郎ではない。
シドニーにいたはずのフィン・モーガンであった。
彼はまだまどろみの中にいた。
布団から出ている顔だけが冷気を感じていたが、眠気のほうが勝ち、違和感を確かめることもできない。
そのまま意識は再び深いまどろみに沈んでいった。
——シドニー。
無駄に広々とした部屋は日中の暑さを吸い込み、それに抗うようにクーラーが轟音を立てていた。
キングサイズベッドにぽつんと横たわっているのは、フィンではなく——長野にいたはずの守山謙一郎であった。
彼もまたまどろみの中にいた。
隣にあるはずの妻の気配がないことは感じていたが、瞼を上げるだけの気力がない。
体内時計は午前3時。
「まだ眠れる……」
そう思った謙一郎は、再び深い眠りへと溶けていった。
二人はまだ知らない。
世界がすでに、“入れ替わった朝”を迎えようとしていることを。




