第1章2話 変異の前兆 (オーストラリア)
海原が白光を弾き返していた。
南半球の初夏の陽射しは煌々《こうこう》として容赦なく、波の輪郭をひとつ残らず縁どり、
世界がきらきらと散光しているように見えた。
フィン・モーガンは
サーフボードの上で体勢を整え、
沖から押し寄せる白波をじっと見つめた。
57歳とは思えない筋肉質な体躯を、
まるで見せびらかすかのように、
堂々と胸を張り、
陽射しを受けてゆったりと呼吸した。
「まったく、太陽に休暇はないってか?俺より働き者で感心だよ。」
ブロンドの髪が潮風に揺れ、
光を受けて淡い金色の炎のようにきらめく。
海の上では、彼は誰よりも“フィン・モーガン”らしくいられた。
——強く、自由で、陽気な男。
そこには、陸の上でまとってしまう“鎧”は一切いらない。
波の音が、自分の中に散らばった雑念をひとつずつ洗い流していく。
強がる必要も、笑顔を作る必要もない。
ただ波を待ち、風を読み、海に身を委ねるだけでいい。
余計な肩書きも、年齢も、家族との距離感も——
波がさらって、白い泡の向こうへ消えていく。
ここにいる自分こそが本当の姿なのだと、
心のどこかが確かに叫んでいた。
海は、余計なものをすべて洗い流し、
ただの“フィン”に戻してくれる。
だが、ボードが岸へ向き始めると、
その自由さも潮のように静かに引いていった。
陸に上がれば、同じ“陽気な男”を、どこかでまた演じてしまう。
「Easy, easy. Everything's gonna be fine!
大丈夫、大丈夫。万事順調さ!」
口ではそう言える。
だが胸の奥には、消えない小さな空洞がある。
会社の部下にも見せられない。
元妻にも、子どもたちにも伝えられない空洞だ。
完璧な陽キャ。エネルギー産業の成功者。
離婚した今でも“いい関係”。
——そのどれもが、どこか薄い膜でできている気がする。
会社でも家庭でも、
ずっと“強い男”を演じ続けてきた。
そうしていなければ誰にも受け入れてもらえないと、いつの間にか思い込むようになっていたのだ。
もし違う人生があったなら、
もっと“素の自分”でいられたのだろうか。
そんな考えを、
打ち寄せる波に置き去りにして、
フィンは岸へと戻り、
ボードを白い砂の上に静かに置いた。
強烈な日差しが濡れた肌にまとわりつく。
遠くでは海鳥が鳴き、
海原はまだ白くまぶしく、
夜の気配など微塵もなかった。
それなのに——胸の奥のどこかだけが、
なぜか冷えていた。
「ああクソ、家に帰ってワインでも開けるか。今日はコアラがアイスコーヒーでも頼みそうな暑さだってのに」
タオルを肩にかけ、短く息を吐く。
昼の海原の眩しさとは裏腹に、内側のざらつきだけはどうしても消えなかった。
――
無駄に広々とした一人きりの自宅に戻り、
パソコンの画面をのぞくと、未読の仕事メールが山のように積み上がっていた。
エネルギー産業の会社を率いる者として、
“陽気で頼れるボス”という役割が、彼には常に張り付いている。
《Hey Boss, we need your decision on this.
ボス、この件についてあなたの判断が必要だ。》
《Urgent matter. Call me back ASAP.
至急の案件。できるだけ早く折り返しを。》
——今日は休みだと言っただろう。
海にいる間くらい、放っておいてくれ。
お前らは俺がいないと何もできないのか?
俺はお前らのママじゃないんだぞ。
それか……俺の代わりに働いてくれるカンガルーでも雇ってくれよ。
あいつら、蹴りは強いが判断力はどうかな。
喉元まで出かかったその冗談を飲み込み、
フィンは乾いた笑いをひとつ漏らした。
その笑いも、どこか落ち着きがなく、心の奥で跳ね返るように消えていった。
ため息をつきながら部下のメールすべてに返事をし、
くたびれたようにカウチへ沈み込んだ。
5分も経たないうちに、
胸の空洞がじわりと広がり始めた。
ワインの一つでも飲まないとやっていられないとでもいうように、足早にキッチンへと歩き出した。
ワインは腐るほどあったが、フィンを満足させるものは何一つなかった。
仕方なく適当に1本の白ワインを選び、
キッチンカウンターに置いた瞬間、
ふっと視界の端が揺らいだ。
——光。
まだ外は夕日にすら染まっていないというのに、
白い揺らぎが、部屋の隅をかすめた。
日差しの反射か?
通りを走る車のヘッドライト……のはずはない。
まさかUFOか?シドニーじゃ珍しくもないって言われてるけど……いや、ないない。
ただの疲れか?液晶の見過ぎか?
最近どうも眠りが浅い——。
そう言い訳を重ねながらも、不思議な点が一つだけあった。
その光は、水面の波が逆立つように、空気ごと揺れていた。
まるで光そのものが“揺らいで”いるように。
——
五時間かけて三本のワインを一人で飲みほした頃には、すっかり日が沈んでいた。
カウチに身を沈めた瞬間、
また“光”がよぎった。
今度は、誰かが指先で空気を弾いたように、
短く、細く。
「なんだ……飲みすぎたか……?」
重くなった瞼を上げて見回してみても、いつも通りの景色しかない。
ただ胸の奥が、微かにざわつき続けている。
気味が悪い、というよりは——
呼ばれているような。
そんなバカげた感覚を振り払うように、フィンは立ち上がった。
「シャワー浴びて寝るか。明日は早いしな。」
電気を消し、寝室へ向かう。
ベッドに倒れ込むと、天井がゆっくりと沈んでいくように見えた。
瞼を閉じた瞬間、
暗闇の奥で——白い光が、波立つように揺れた。
静かな夜が、海の底へ沈んでいく。
フィンはまだ知らない。
その光が、
遠い異国の地で同じ瞬間に揺らいだ“何か”と、
深く繋がっていることを。
そしてそれが、
彼の人生をまったく予想しない方向へ押し流す、
最初の“波”だったことを。




