第4章1話 交差の兆し
翌朝。
謙一郎は、ほとんど眠れないまま朝を迎えていた。
これまでは心のどこかで
――いつか元に戻れる。
そんな根拠のない期待を、勝手に抱いていた。
だが、昨夜の夢が何かの"兆し"なのだとしたら。
もし、あれが境目だったのだとしたら。
このまま一生、元には戻れないのかもしれない。
そんな不安が、胸いっぱいに広がっていた。
心をベッドに置き去りにしたまま、
身体だけが先に動く。
ルーティンワークのように、
謙一郎は海へ向かった。
そして、無心でサーフィンをした。
謙一郎の胸の内とは裏腹に、
海は驚くほど静かだった。
頭の中を空っぽにして、
ただ水面に身を預け、空を見上げる。
すると不思議なことに、
少しずつ心も穏やかになっていった。
この広大な海の上では、
自分の不安など取るに足らないものだと
言われているような気がした。
自分でも、だんだんそう思えてきた。
――いや、待て。
俺は日本の、
海のない県、長野の出身だ。
なぜ、海を見て心が静まっている?
その違和感が、
胸の奥に小さく引っかかった。
やはり自分は、
フィン・モーガンとしての人生を
歩み始めてしまっているのかもしれない。
心は、押し寄せては引いていく
小さな波のように、まだ揺れている。
それでも、
さっきまでのような荒れた海ではなかった。
自宅に戻り、
謙一郎はパソコンの前に座った。
ふと、もう一度だけ――
本来の自分の連絡先、
つまり"日本の守山謙一郎"に
コンタクトを取ってみようと思った。
昨日の夢が意味を持つのだとしたら。
やはり、フィン・モーガンと完全に入れ替わり、
謙一郎の人生を
フィンが生きていると考えるのが自然だ。
理屈は、まるでない。
それでもなぜか、
今度は"つながる"気がしていた。
自分のメールアドレスも、電話番号も、
まだ覚えている。
いや、忘れないようにと、
何度もメモを取り直していた。
まずは、メールからしてみる。
謙一郎は、
キーボードにそっと指を置いた。
≪初めまして。このメールはオーストラリアのシドニーから送っています。
メールが届いたら返信をください。
守山謙一郎より≫
送信ボタンを押したあと、
謙一郎はしばらく、その画面を見つめていた。
返事が来る保証など、どこにもない。
それでも、不思議と指先は震えていなかった。
―――そして。
長野。
昨日の試合の疲れからか、
フィンは起きてはいるものの、
ソファに深く沈み込んでいた。
ぼんやりと天井を眺め、
身体の重さだけを感じている。
ふと、スマートフォンに視線を落とすと、
メールの着信通知が表示されていた。
送信主の名前は、“Unknown”。
(また詐欺メールか)
そう思い、
開かずに削除しようとした、その瞬間。
なぜか、指が止まった。
理由は分からない。
だが、
「開いたほうがいい」
そんな感覚だけが、確かにあった。
直感のままに、
フィンはメールを開いた。
≪▓▒░◇■@%▒▒???≫
画面には意味を成さない文字列が並ぶ。
一瞬、思考が止まった。
「……なんだこれ。文字化けか?」
だが、ただの文字化けではない。
そう、本能が告げていた。
胸の奥が、
小さくざわつく。
わけが分からないまま、
フィンは“Unknown”への返信画面を開いていた。
指は、迷いなく動く。
≪What’s up ??
The text is garbled, so I can’t read it.
From Finn≫
送信してから、
フィンははっとする。
(……なんで、英語で打った?
それに今、Finnって書いたよな)
理由は分からない。
だが、それが
自然だったことだけは、否定できなかった。
———シドニー。
パソコンの前で、
謙一郎はぼんやりと画面を見つめていた。
やはり返事など来るはずがない――
そう思いかけた、その瞬間。
小さな通知が画面に表示された。
「……え?」
受信トレイの最上段に、
見慣れない差出人名がある。
“Unknown”。
指先が一瞬、止まった。
そして、静かにクリックする。
≪What’s up ??
The text is garbled, so I can’t read it.
From Finn≫
短い英文。
どうやら、こちらのメールは
うまく読めなかったらしい。
だが、それは紛れもなく“返事”だった。
思わず、息を吸い込む。
胸の奥に、じわりと温度が戻ってくる。
確信には、ほど遠い。
「……つながった」
小さく呟きながら、
謙一郎は、わずかに口元を緩めた。
大きな希望ではない。
だが、確かに一歩だ。
心はまだ揺れている。
それでも、
荒れた波ではなくなっていた。
小さな波が、
ふたりの人生のあいだを、
確かにつないでいた。




