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第3章4話 静かな交融 (フィン in 日本)

白く冷たい息が、朝の空気にすっと溶けて消えていく。

山に囲まれた長野の町は、まだ完全には目を覚ましていなかった。


すっかり寒さに慣れてきたフィンは、

早苗の用意してくれた朝食をとり、

いつもの様に仕事へ向かう支度をしていた。


今日は仕事のあとに剣道の稽古がある。

始めた頃は、つらさしかなかった剣道も、

郷に入っては郷に従えの精神で続けるうちに、

いつの間にか、フィンの日常の一部になっていた。


シドニーでは、波があれば海へ向かう生活だった。

それが今は、

仕事をして、

妻の機嫌をそれとなく気にかけ、

ときどき剣道の稽古に通う、

まるで別の時間を生きているような毎日だ。


最初の頃は、サーフィンが恋しくなることもあった。

だがこの寒さの中では、

その切望も次第に薄れていった。


そして代わりに、不思議と竹刀を握る時間が増えていた。


当初はただの異文化体験のつもりだった。

飽きたらやめればいい。

どこかで、そう思っていたはずなのに。


今でも痛い。

正直に言えば、つらい。

それでも不思議なことに、

もう"やめたい"とは思わなくなっていた。


謙一郎の記憶や感情とは別に、

フィン自身が剣道を好きになり始めているようだった。

それと同時に、日本での生活にも少しずつ馴染んできていた。



そしてフィンは相変わらず、

このおかしな現象について調べようとする気配はなかった。

むしろ休日には気ままに出かけ、

訪れた土地の空気を楽しんでさえいた。


早苗もまた、

以前より行動力のある謙一郎――

正確にはフィンに対して、

違和感を覚えつつも、

どこか好意的な視線を向けているようだった。



仕事は幸い、これまで大きなトラブルもなくこなせていた。

定期受診の患者がほとんどで、

いつも通りの会話をし、

ときどき雑談を挟み、

検査と処方をして終わる。


もちろん、検査値がおかしかったり、

様子に違和感のある患者が来ることもある。


そんなときは、

謙一郎の記憶を頼りつつ、

フィンの決断力で素早く判断し、

「おかしい」と思えば、

迷わず近隣に紹介する。


診断が合っているかどうかはともかく、

危険を見逃さない。

その姿勢は、職員たちからも好意的に受け取られていた。


謙一郎は慎重すぎるあまり、

決断までに時間がかかり、

決断してからも不安を口にしていたらしい。

その点、フィンの即断即決は、

現場では頼もしく映るようだった。


そんなわけで、

今日も仕事は無事に終わった。


さて――剣道だ。

痛くて、つらくて、苦しい剣道だ。


(なんで俺、剣道なんかやってんだ)


この問いは、

この一か月で何度も繰り返してきた。

いまだに、答えは出ない。


最初は早苗に促され、

その後は、なんとなく足を運んでいただけだった。


サーフィン、ラグビー、サッカー、

バスケットボール、テニス。

これまでやってきたのは、

いわゆる“陽キャのスポーツ”ばかりだ。


武道が嫌いだったわけではない。

ただ、自分には縁がないものだと、

勝手に決めつけていただけだ。

まぁ、そもそも

シドニーに武道スクールなんて、

ほとんどなかったのだが。



考えごとをしているうちに、

いつの間にか道場に着いていた。

ここまで来たら、もう逃げられない。


道場に入る瞬間、

心拍数が一段階上がる。

数段の段差を、一歩ずつ踏みしめ、

自分を叱咤して中へ入った。


「こんばんは、お願いします」


「こんばんは、お願いします」


道場中から、

一斉に返事が返ってくる。

その目が、

心なしかいつもよりギラついて見えた。


「守山先生、こんばんは。

 今日もよろしくお願いします。

 稽古後に、ちょっと相談があるので、

 帰らないでくださいね」


佐伯が声をかけてきた。

その笑みが、妙に意味深だ。


嫌な予感を抱えたまま、防具をつける。


「素振りしまーす」


あとは、

いつも通りの死に物狂いだった。



「ありがとうございました」


最後の礼をして、稽古が終わる。

面を外すと、

頭から湯気が立ち上っていた。


吐く息は白い。

だが、不思議と寒くはない。


身体は限界だが、

心は妙に満たされている。

この爽快感と充実感には、

確かに中毒性があった。


稽古前は嫌で仕方ないのに、

終わったあとは、

"また来てもいい"と思ってしまう。


(……これが、続けてる理由か)


そう考えたとき、

佐伯が近づいてきた。


「お疲れさまでした、守山先生。

 それで、相談なんですが……

 来週の大会、ご存じですよね?

 欠員が出てしまって、

 ぜひ出場してもらいたくて」


――は?


頭が真っ白になる。


無理。

絶対に無理。


君たちは知らないだろうが、

まだ始めて一か月だ。

今の稽古についていくので精一杯だ。

試合なんて、

痛い未来しか見えない。


何より、負けるのが嫌いだ。

やる前から負ける気しかしない勝負に挑むつもりは毛頭ない。


全力で断るつもりだった。


「あ、いや〜、その日は予定が……」


「え?

 奥さんが、ぜひ出場させてって

 言ってましたけど」


……早苗。


日本の女、恐ろしい。


「そ、そうか。

 予定は再来週だったかな。

 でも体調があまりよくなくて……」


自分でも意味が分からない言い訳を重ねる。


「大丈夫ですよ。

 最近の守山先生、

 気迫がすごいってみんなで言ってますし。

 ちなみに負けても誰も責めません。

 楽しむ大会ですから」


まずい。

完全に包囲されている。


「あ、それと。

 娘さんも観に来るって言ってましたよ。

 久しぶりだから、楽しみにしてるみたいです」


My daughter?!ここにきて娘の登場か。

……はい、詰み。


「……わかりました。

 出ます。

 どうなっても知りませんよ」


最後は、

自分でも驚くほど力の抜けた笑顔だった。


道場を出ると、

夜の冷気が頬を打つ。


来週、試合。

逃げ場はない。


フィンは空を見上げ、

小さく息を吐いた。


(……なんで俺、剣道なんかやってんだ)


その問いに、

まだ答えはない。


だが、

なぜか足取りは、

来たときよりも軽かった。


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