第1章1話 変異の前兆 (日本)
山々が漆黒に溶けていく。
冬の長野に訪れる夜は、
いつだって早く、そして果てしなく長い。
まるで世界そのものが黒い幕を降ろしてしまったかのように。
守山謙一郎は、診察室の窓から外に沈んでいく黒い稜線をぼんやりと眺めていた。
内科医として三十年近く働いてきたが、
いまだにこの仕事に慣れた実感がない。
自分の診断に確信が持てず、
不安はいつも足元にまとわりつく。
患者やスタッフが寄せてくれるはずの信頼でさえ、なぜか自分だけが疑ってしまうのだ。
クリニックを開業したのも、
じつのところ自分の強い意志ではなかった。
年上の妻に押し切られるようにして流され、
気づけば開業医になっていた。
妻は元看護師で、
謙一郎が医師になりたての頃に出会った。
その頃の彼女は、臨床経験も立場も一枚も二枚も上手で、とても頼もしく——そして優しかった。
さて、
なぜ“優しかった”と過去形なのか、お分かりだろうか。
そう、察しの通りである。
いまの妻からその優しさは、
まるでブラジル——地球の裏側まで飛んでいってしまったのかと思うほどの勢いで消え去っている。
いや、もしかしたら沖ノ鳥島くらいは残っているのかもしれない。
だが、その“島影”は目をこらしてもなかなか姿を現してくれないのが現実だった。
「そろそろ休憩おしまい! 患者さんの診察よろしくね。あと一時間くらいだから!」
明るく弾む妻の声が、オレンジ色の光のように部屋へ飛び込んできた。
謙一郎は机に積まれたカルテに視線を落とし、小さなため息をついてから診療を再開した。
――
仕事を終え、診察室の灯りを落とすと、
疲れがどっと押し寄せた。
このまま家に帰って、そのまま眠ってしまいたい。
だが今日は、週に二度ある剣道の稽古日である。
真面目な謙一郎には、仕事の疲労を理由に稽古を休むという選択肢はない。
それでも足取りが重くなるのには、もうひとつ理由があった。
謙一郎は三年前から七段審査に挑戦し続けている。
そして、六回連続で不合格だった。
“自信のなさが剣道に表れている”
師範に何度もそう言われた。
別の稽古会に行っても、決まって同じ指摘を受ける。
そもそも、
自信など最初から持ち合わせていない。
持っていないものを出せと言われても困る。
謙一郎の"ケン"は謙譲のケンだ。
名は体を表す。
いまさら自分の生き方を変えることなど、
できるはずもない――
そんな半ば開き直ったような心境で、
道場へ向かう車を走らせた。
駐車場に車を停めて外に出ると、
冬の空気が一気に肌へ突き刺さった。
吐く息はまるで雪のように白く、
夜の冷気に溶けていく。
道場の入口からは、
竹刀の乾いた音が規則なく響き、
そのリズムは心臓の鼓動と微妙にずれているように感じられた。
扉を開けると、床板の冷たさが足裏へひやりと伝わった。
高校生たちの力強い打ち込み、
同年代の仲間の淡々とした足捌き。
外の静寂とは対照的な熱が、そこにはあった。
だが、謙一郎の心はその熱とは裏腹に冷えていた。
竹刀が打ち合わされるたびに、
「道場の隣の家は、この音をどう日常として受け入れているんだろう」
そんな雑念が浮かぶほど、集中力は散漫だった。
「お、守山先生。お疲れ様です。今日も来ましたか。あれ、なんか顔が疲れてますよ。」
同じ稽古会の佐伯が声をかけてきた。
「いや、体調は問題ないんですが。まあ……行かないと落ち着かないのでね。」
謙一郎は曖昧に笑った。
本当のところは、“剣道をしないと”ではなく、
“いつまでも不合格のまま”という現実の方が落ち着かないのだが。
面をつけると、周囲の音が一段遠のき、
自分の呼吸だけが面の中で大きく反響した。
打ち込みを始めたが息が続かない。
声も出ない。
——なんで俺はこんな苦しいことを自らやっているんだ。
そもそもなんで剣道なんて始めたんだ?
ビールが飲みたい。風呂に入りたい。
旅行にでも行きたい。ハワイなんて最高じゃないか。
稽古とは程遠い雑念が、堰を切ったように頭の中へなだれ込んできた。
その“思考の渦”から意識がふっと離れた瞬間だった。
——どこか、足元がわずかに沈んだ。
ほんの一瞬。
板がきしんだのか、錯覚なのか。
だが、身体の奥のどこかがかすかに“ずれた”としか言いようのない感覚が残った。
「どうしました? 足でも痛めました?」
佐伯が面越しに覗き込む。
「いや……なんでもないです。
多分、気のせいです」
息が上がっていると、
返事はどうしても短くなる。
そう言いながらも、胸の奥に小さな違和感がまとわりついていた。
疲労とも痛みとも違う、説明のつかない感覚。
それは、ほんの微細な“異物”のように内側に沈んでいた。
稽古が終わって外へ出ると、
冬の空気がまた鋭く頬を刺した。
夜空は曇り、星はひとつも見えない。
長野では珍しい“光のない夜”だった。
車の暖房をつけても、
なぜか胸の奥の冷えは取れなかった。
家に戻ると、妻は簡単な言葉を交わしただけで寝室へ消えていった。
食事が作ってあるだけありがたいが、
謙一郎は“関白失脚”のメロディーを頭の中に流しながら夕食と風呂を済ませた。
そもそも“関白宣言”など一度もした覚えはなかったが——。
家の中を歩くと、なぜか自分の家ではないような錯覚を覚えた。
廊下の灯りはいつもより頼りなく揺れて見えた。
布団に入り、
天井をぼんやりと見つめていると、
ふっと視界の端に“光”が走った。
一瞬だけ。
電球の反射かと思ったが、照明はすでに落としてある。
錯覚だ、疲れているだけ——
そう思おうとしても、その光は瞼の裏に淡い尾を残した。
胸の奥が、かすかにざわつく。
「……なんだ、今の」
小さく呟き、目を閉じた。
静かな夜が、深く沈んでいく。
謙一郎はまだ知らない。
この“揺らぎ”こそが、
彼の人生を音もなく変えていく前兆だったことを。




