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第3章2話 静かな交融 (謙一郎 in オーストラリア)

蒼い海面に映る高層ビル群がわずかに揺れ、

ガラスと水が溶け合う都市が、静かな朝の気配をまとっていた。

謙一郎は海へ向かう準備をしながら、その空気の中に身を置いていた。 


波があれば海へ向かう。

なければ、向かわない。


そんな単純な基準が、いつの間にか謙一郎の生活に組み込まれていた。

気づけばサーフィンは日常となり、

そして彼は、すっかりシドニーに溶け込んでいた。


仕事も、ときおり肝を冷やす場面はある。

だが、それでも謙一郎らしい真摯な対応によって、今のところは順調に軌道に乗っているように思える。


部下たちからは、

「人が変わったようだ」と言われる。

――まあ、実際に変わっているのだが。


もちろん、評価は肯定的なものばかりではない。

以前のような剛腕な雰囲気こそが

“Finn社長”らしく、頼りがいがあったと感じる者もいるようだった。


だが、他人を演じ続けていれば、

いずれ必ず、どこかに綻びは生じる。

結局のところ、謙一郎には

謙一郎らしく仕事をしていくしかなかった。



私生活については、

あれからフィンの元妻――ジョディからの連絡はなかった。

そして、謙一郎からも連絡をしていない。


あの日から、実に一か月が経っていた。

――やらかした覚えはない。

だが、結果的にやらかしてしまったことだけは、否定できない。


この生活になってからというもの、

仕事や隣人たちとの付き合い、

定期的に誘われるサーフィンに慣れるだけで手一杯だった。

ジョディとのことに向き合う余裕は、

正直なところ、なかった。


もちろん何をしていても、

胸の奥にモヤモヤとした感情が残っていたのは事実だ。


シドニーでの生活に、ようやく慣れてきた頃、

謙一郎の中に、ほんの少しだけ余白が生まれた。

そして、その余白にジョディの存在が浮かび上がってくる。


いつ本来の自分――つまり日本の謙一郎に戻れるのかは分からない。

だからこそ、このままジョディとの関係を

宙ぶらりんにしておくのは、忍びなかった。

もちろん、本来のフィンが戻ってきた時に気まずいのもあるが...。


ここで、謙一郎はひとつの重要な事実に思い至る。


――そういえば、子どもたち、どうしているんだ?


たしか、息子が二人いたはずだ。

年齢は、三十歳と二十七歳くらい。

だが、フィンの記憶の中に、

彼らの存在はほとんど登場しない。


それに、周囲の反応や、この一か月のあいだ、

一度も息子たちの話題が出なかったことを考えると、関係性は、あまり良好とは言えないのだろう。


まずは、フィンのことをよく知っていそうな人物に話を聞くことにした。

幸い、今日は休みだったかめ、迷う理由はなかった。


向かった先は、隣人のディビッド・スミスの家だ。


彼はしょっちゅうフィンの家に突撃してくるが、こちらから訪ねたことは、この一か月、一度もない。

少し申し訳なく思いながら、

謙一郎はカメラ付きの呼び鈴を鳴らした。


しばしの沈黙。

次の瞬間、

ドドドドドドドドドッ、という大きな足音が響く。

勢いよく、玄関のドアが開いた。


「フィン! ブラザー!! よく来たな!!」


体格に見合った、豪快すぎる声。

この一か月で、ようやく慣れてきた。


「最近は、こっちが行ってばっかりでさ。

 フィンから来てくれないから、寂しかったよ」


――やはり、気にしていたか。

大男のくせに、意外と細かいことを気にする男だな。


「すまない。仕事やら何やらで、少し立て込んでいてね」


とりあえず、無難な言い訳を口にする。

もちろん、“実は中身が別人で”などと言えるはずもない。


「そうか。まあ、いい。とにかく入れ。

 酒でも飲むか?」


まだ真昼間だ。

だが、彼にとって酒は時間を選ばないらしい。

すでに手にはウイスキーが握られている。


「ありがとう。聞きたいことがあって来たんだ。

 ……酒は、少しだけもらうよ」


巨体から放たれる、

子犬のような期待に満ちた視線に負けてしまった。


大きな男によって、大きな居間に通され、

大きなソファに座らされる。

余計な雑談が始まってしまう前に、謙一郎は切り出した。


「それで、本題なんだけど……

 おれの息子たちって、今どこにいるんだっけ?」


「おいおい。

 自分の息子だろ。そんなことも知らないのか?」


「あー……ほら、その……

 おれたち、仲があまり良くなかっただろ?

 だから、今何してるのか知らなくてさ……」


苦し紛れの言葉だった。

本当に仲が悪いのかは、分からない。

だが、聞いてみるしかなかった。


「あー、そういえばそうだな!

 仲が悪いっていうか、最低だもんな!

 がっはっはっはっは!」


――合っていた。

しかも、かなり深刻らしい。


「そうなんだ。

 でも、そろそろ会ってみようと思ってさ」


「がっはっはっはっは!

 そりゃいい!

 フィンが家族のことを考えるなんて、

 雨でも降るんじゃないか?」


ひとしきり笑ったあと、

ディビッドは言葉を続けた。


「まあ、俺が知っている範囲で話してやるよ。

 俺の妻がジョディと仲がいいからな。

 まず、上の息子だが……」


「いや、待ってくれ」


謙一郎は、思わず遮った。


「……本当に変な話なんだが、

 どうして仲が悪くなったのか、

 あまり覚えていなくてね。

 まずは、そこから教えてくれないか?」


「はぁ?

 そんな馬鹿な話があるか」


呆れたように言いながらも、

ディビッドは少し考え込み、

やがて肩をすくめた。


「まあ、仕事とサーフィンしか頭にない男だ。

 それに、かなり前の話だしな。

 自分で記憶を消したんじゃないか?

 ……はぁ、仕方ない」


そう言って、彼は珍しく真面目な顔になった。


「いいだろう。

 俺が知っている範囲で話してやる。

 まずは――」


そして、

ディビッドの語りが始まった。


彼の話によれば、

昔は家族仲が極端に悪かったわけではないらしい。


だが、子どもたちが高校生になった頃、

進路をめぐって、フィンが過剰に口を出し始めた。


反発する子どもたちに対し、

彼は、決定的な一言を放ってしまったのだという。


――俺はいつだって正しい。

――お前たちは、俺の言うことだけ聞いていればいい。

――誰の金で、ここまで育ったと思っている?


その言葉を境に、

家族の空気は徐々に冷えていった。


もともと強引なところが多かったため、

子供たちは昔から不満を抱えていたらしい。

それが、静かに、しかし確実に積み重なり、

ある一言を境に、決して戻らない溝へと変わっていったようだ。


子どもたちは大学進学を機に家を出て、

それきり、フィンとは連絡を取らなくなった。


それでも、ジョディとの離婚前までは

彼女からかろうじて様子を聞いていたらしい。

だが、離婚後はそれも途絶え、

子どもたちの近況は、まったく分からなくなったという。



話を聞き終え、

謙一郎は言葉を失った。


簡単には修復できそうもない。

深く、固まってしまった関係。


さて……どうするか。


グラスを握ったまま、

しばらく立ち尽くしてしまう謙一郎だった

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