第2章10話 刹那の交錯
チェンジリング3日目・夜
謙一郎は、シドニーの自宅で一人きり、
フィンは長野の自宅で、隣に眠る早苗の寝顔をぼんやりと眺めながら、
それぞれ静かな夜を迎えていた。
二人とも、今日は仕事復帰——
いや、正確には「仕事デビュー」を果たした日だった。
慣れない環境、慣れない役割。
そのうえ、いきなりのトラブル。
それでも結果だけを見れば、
どうにかこうにか、収まるところに収まったと言える。
(この調子なら……)
謙一郎はそう思いかけて、すぐに打ち消した。
違う。
この状況に慣れてはいけない。
順応してしまえば、元に戻る理由が失われてしまう。
(手がかりを探さないと)
天井を見つめながら、意識だけが焦っていく。
一方、フィンはというと、
同じ言葉をまったく別の意味で思い浮かべていた。
(この調子なら、意外とやっていけるな)
異文化だらけの一日。
だが、仕事は面白かったし、
何より——久しぶりに、隣に人の体温があった。
早苗は、やけに優しかった。
距離を測るようでいて、
突き放すわけでもなく、
どこか様子を窺うような、その優しさ。
(……悪くない)
そんな感想が浮かぶ自分に、
フィンは少しだけ苦笑した。
考えごとは尽きないが、
眠気に勝てないのは万国共通らしい。
いつの間にか、
二人の意識は、同時に沈んでいった。
◇
白い。
どこまでも白い。
音も、影も、境界もない。
二人は、まったく同じ“白い深淵”の中にいた。
(……また、ここか)
謙一郎は、ぼんやりと思う。
以前に見た、あの奇妙な場所。
だが、今回は少し違った。
足元がある。
いや、「ある気がする」。
視線を下ろすと、
白の中に、かすかな輪郭が見えた。
自分の足——のようなものだ。
(……前より、はっきりしている)
声に出したつもりだったが、
やはり音にはならない。
同じ頃、フィンも違和感に気づいていた。
(お? 手がある)
半透明ではあるが、
ちゃんと指の数が分かる。
(夢にしては、妙にリアルだな)
そう思った瞬間、
白の向こうに、もう一つの“存在”が見えた。
人影。
だが、焦点が合わない。
謙一郎から見ると、
落ち着きがないくせに、やたら堂々とした影。
フィンから見ると、
姿勢が良すぎて、逆に信用ならない影。
(……誰だ、あれ)
(……なんか、気になるな)
二人は、ゆっくりと近づいていく。
歩いているのか、引き寄せられているのかは分からない。
距離が縮むにつれ、
相手の輪郭が、少しずつはっきりしていく。
顔が見えそうで、見えない。
(……近い)
(……おい、ちょっと待て)
同時に、同じ予感。
このまま触れたら、
何かが起きる。
謙一郎は、思わず手を伸ばした。
フィンも、反射的に腕を上げる。
指先が、
あとほんの少しで届く——
その瞬間。
白い空間が、ぐにゃりと歪んだ。
強い力に引き離されるように、
二人の距離が一気に広がる。
(……っ)
(……冗談だろ)
声にならない叫び。
最後に見えたのは、
相手の顔——
困ったような、呆れたような表情だった……気がする。
◇
目を覚ましたとき、
謙一郎は、シドニーのベッドにいた。
「……何かがあと少しだった気がする」
胸の奥に、説明できない余韻だけが残っている。
同じ頃、長野でフィンも目を覚ました。
「……惜しかったな」
何が惜しかったのかは、分からない。
ただ、
さっきまで“誰か”が、
すぐ近くにいたような気がしてならなかった。
二人はまだ知らない。
あの白い深淵が、
ただの夢ではなく、
すでに、二人の行き先を
ゆっくりと書き換え始めていることを。
そして次に会うとき、
もう少しだけ、
相手の姿が、
はっきりと見えるようになっていることを。




