第2章9話 交錯する職場 (謙一郎 in オーストラリア) -2
——守山謙一郎 in シドニー
チェンジリング3日目・続き
無駄にゴージャスで、冷房が効きすぎた社長室で午後のスケジュールを確認していた、
そのときだった。
端末から呼び出し音が鳴った。
午前中にも何度か聞いたはずの音なのに、
なぜか今回は、やけに不穏に聞こえる。
そして、その嫌な予感は、
見事に裏切られなかった。
「はい。どうした?」
「ボ、ボス……。す、すみません……」
部下の声は、明らかに震えている。
——嫌な予感、的中。
「どうした?William?」
「あ、あの、えぇと、その……」
間違いなく、何かが起きている。
だが、部下のウィリアムは怯えすぎて、
肝心の内容に、なかなか辿り着かない。
これは、フィン・モーガンという
“元の社長”に対する恐怖なのか。
それとも、事態そのものの重大さに対する恐怖なのか。
前者であってほしい、と
一瞬だけ思ってしまう自分がいた。
「いいから。落ち着いて、言ってみろ」
「は、はい。
うちと契約しているA社の社長と、
契約更新の話をしていたんですが……
ボスを見習って、勝ち気に話をしていたら、
だんだん雲行きが怪しくなって……」
嫌な言葉が、いくつも並ぶ。
「……具体的には、何を言った?」
「契約更新料の話をしていたところ、
相手が少し出し渋っていたので……
『それなら、今回で契約は
打ち切らせてもらいます』って……」
一瞬、言葉を失った。
「……言ったのか?」
「……はい。強気に」
——おいおい。
考えなしに強気で行くな。
しかも、"社長を見習って"だと?
フィン・モーガンとやらは、
いったいどれだけ剛腕で豪胆な社長だったんだ。
思わず心の中で盛大にツッコミを入れたが、
そんなことをしている場合ではない。
「それで、相手は?」
「急に怒り出して……
もう、うちとは取引しないって……」
まずい。
非常に、まずい。
よりにもよって、A社の社長だ。
規模は中小だが、顔が異様に広い。
この人に嫌われたら、この業界では生きていけない。
そんな噂が立つほどの人物である。
まさに、不幸中の不幸だ。
「……まだ、その社長は部屋にいるのか?」
「い、いえ。
顔を真っ赤にして出て行ってしまって……
でも、まだビルの中にはいると思います」
顔を真っ赤にして、などと
冷静に報告している場合ではない。
「帰らせるな。
俺が話す。
今すぐ探して、引き止めてくれ」
短く、はっきり指示を出す。
きっと、フィンならそうしたはずだ。
通話を切ったあと、
謙一郎は、ゆっくりと深呼吸をした。
ここからは、フィンの真似をしたところで
うまくいかないだろう。
あとは、自分の人生経験で
やれることをやるしかない。
(……とにかく、謝罪だ)
◇
急きょ設定された面談。
名目は"話し合い"だが、
実態はどう見ても、謝罪タイムである。
応接室に入ってきたA社の社長は、
予想通り、険しい表情をしていた。
「——正直に言って、非常に失望しているよ」
開口一番、そう切り出される。
声は低く、抑えられている。
さきほどまで真っ赤だったらしい顔は、
今や鋼鉄の仮面のようだ。
それが、かえって怒りの深さを物語っていた。
謙一郎は、反射的に
言い訳を探すのをやめた。
代わりに、椅子に腰を下ろし、
相手の目を見る。
「まずは、不快な思いをさせてしまったことについて、お詫びさせてください。
申し訳ありませんでした」
深く、頭を下げる。
相手は、一瞬、言葉を失ったようだった。
——あ。
これ、フィンなら絶対にやらないやつだ。
そんなことを、
どこか他人事のように思いながら、
謙一郎は続けた。
「今回の発言は、完全にこちらの不手際です。
部下の発言であっても、
最終的な責任は、私にあります」
「……ずいぶん、あっさり認めるな」
社長が、少し驚いたように言う。
「部下の教育も、私の責任です。
今回は、それを怠ったせいで
不快な思いをさせてしまいました」
社長だけでなく、
付き添ってきたウィリアムまで
驚いたような、感心したような表情になる。
(おい、お前はとにかく頭を下げていろ)
「意外だな。
フィン・モーガンは、
絶対に頭を下げない人間だと
思っていたからな」
そりゃそうだ。
本当の俺は、
正真正銘の純・日本人だ。
そして医師として生きてきた経験から、
傾聴、共感、謝罪。
これが、どれほど重要かを
嫌というほど知っている。
謙一郎は、そこから、ひたすら話を聞いた。
遮らず、否定せず、
ただ、うなずきながら。
怒っている人ほど、
まずは話を聞いてもらいたいものだ。
一通り話し終えたあと、
社長は、深くため息をついた。
「……正直、まだ腹は立っている。
だが、きみの態度は悪くない」
謙一郎は、静かに頭を下げた。
「契約は……
今回に限っては、続けようじゃないか。
我々の国、オーストラリアのような
広い心でな」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥の緊張が、すっとほどけた。
「ありがとうございます。
二度と、同じことは繰り返しません」
面談が終わり、
社長が部屋を出ていく。
その背中は、まだ硬かったが、
怒りだけで塗りつぶされたものではなかった。
廊下で待っていたウィリアムが、
泣きそうな顔で頭を下げてくる。
「……本当に、すみませんでした」
謙一郎は、首を振った。
「いい。
俺も、急に任せっきりにして悪かった」
またしても、ウィリアムが目を丸くする。
いちいち、リアクションが大きい。
そっと肩に手を置き、
意味ありげに微笑んで、その場を去った。
◇
社長室に戻り、
すっかり冷めたコーヒーを一口飲む。
苦い。
だが、不思議と、悪くなかった。
これからは、
部下も育てていかないと——
……いや、違う。
俺は、元に戻る方法を探すんだった。
ここに、長くいるつもりはない。
あやうく、
フィン・モーガンとしての人生を
受け入れそうになっている自分に気づき、
謙一郎は、ひとり苦笑していた...。




