第2章8話 交錯する職場 (謙一郎 in オーストラリア)
——守山謙一郎 in シドニー
チェンジリング3日目。
カーテンの隙間から、白く強い朝の光が差し込んでいた。
長年慣れ親しんだ、あの小鳥の声はない。
代わりに聞こえてくるのは、遠くを走る車の音と、どこか乾いた風の気配だった。
守山謙一郎は、広いベッドの上でしばらく天井を見つめていた。
体が重く、だるい。
頭も痛いし、胃のあたりが気持ち悪い。
——そう、完全な二日酔いだ。
「……起きなきゃな」
誰に言うでもなく、小さくつぶやく。
誰もいない家で朝を迎えるのは、久しぶりだった。
いつもなら、食事の支度をする妻の物音や気配がある。
だが、ここにはそれがない。
心に小さく空いた穴を確かめるように、
謙一郎は、ゆっくりとベッドを出た。
二日酔い以外にも、気持ちを重くする事情がある。
一つは、昨日の出来事。
フィンの元妻との関係についてだ。
どうやら、謙一郎の返答は、
彼女が望んでいたものではなかったらしい。
女心は万国共通で、やはりよく分からない。
医学書にも、ビジネス書にも、
その正解は載っていないようだ。
考え込んでも、答えは出ない。
少なくとも、今すぐどうこうできる話でもない。
そして、いま直面している現実は、
今日は仕事に行かなければならないということだ。
フィンの記憶があるおかげで、
知識だけは何とかなりそうだった。
だが問題は、その“知識”の使い方だ。
医師としてしか働いたことのない自分が、
ビジネスの現場で、どこまで通用するのか。
休んでいる間に届いた部下たちからのメールは、どれも判断を仰ぐ内容ばかりだった。
《どう進めるべきでしょうか》
《最終判断をお願いします》
そんな文面が、画面いっぱいに並んでいる。
本音を言えば、仕事はすべて任せて、
この不可解な現象について調べたかった。
だが、昨日の夜に届いた一通のメールを
読んでしまった以上、そうも言っていられない。
——頼むから、明日は戻ってきてほしい。
懇願するようなその文面に、
他人の人生を生きてるとはいえ、
責任を感じざるをえなかった。
部下たちが組んだ今日のスケジュールは、
驚くほど隙間がなかった。
面談、社内打ち合わせ、確認事項。
特に“面談”が厄介だ。
腹の探り合いは、どうにも苦手だった。
腹を触診するのは得意なのだが。
◇
見慣れない片側三車線の広い道路を、
フィンこだわりの高級スポーツカーで、
戦々恐々としながら運転し、オフィスに着いた。
ガラス張りのエントランス越しに、
忙しなく動く人影が見える。
ここは病院とは違う。
白衣もなければ、静かな待合室もない。
「おはよう」
声をかけると、部下たちは一斉にこちらを見た。
安堵したような表情が、いくつも重なる。
「……急に休んですまない。今日から働くぞ」
皆の視線が集まる。
驚いた顔をしている者がほとんどだ。
また何か間違えたか?
至極真っ当なことを言っただけのつもりなのだが。
「どうした?」
「いえ、あの、社長が謝るなんて珍しいなと思いまして」
おいおい。
仕事を休んで謝るのは普通のことだろう。
いったい、どんなキャラなんだ。
「あ、あぁ、そうか。
まぁ、仕事に穴を空けて迷惑をかけたからな。
なんにせよ、今日からまた頼む」
皆、少し戸惑った顔をしつつも、
ほっとしたように、それぞれの仕事へ戻っていった。
最初の面談は、大口顧客との定例確認だった。
画面越しに映る相手は、
いかにも仕事ができそうな人物で、
表情の変化が少ない。
(……この人の腹は、探れないし触れないな)
そんなことを考えながら、
謙一郎は、相手の話をとにかく丁寧に聞いた。
それが功を奏したのか、
意外なことに、面談は思ったよりもスムーズに進んだ。
「フィン。なんだかいつもより慎重で丁寧だね。
でも、その方がビジネスパートナーとしては安心できるよ」
相手は、そう言って小さくうなずいた。
——慎重。
それは、医師として、
ずっと言われ続けてきた言葉だ。
次の打ち合わせも、その次も、
大きな問題は起きなかった。
派手な成果はない。
だが、致命的な失敗もない。
昼休憩に入るころ、
謙一郎は、自分でも意外なほど
疲れていないことに気づいた。
(……なんとか、なっている)
完璧ではない。
だが、完全に場違いというわけでもない。
午後の予定を確認しながら、
謙一郎は、コーヒーを一口飲む。
苦い。
だが、不思議と悪くない。
この場所で、この役割を演じることも、
思っていたほど無理ではないのかもしれない。
——少なくとも、今は。
だが、
物事はそう都合よく運ばないのが世の常だ。
窓の外では、容赦のない日差しが照りつけている。
この国の太陽のように、
人生もまた、遠慮という言葉を知らないらしい。




