第2章6話 交錯する職場 (フィン in 日本)
——フィン・モーガン in 長野
チェンジリング3日目。
チュンチュン、チュンチュン。
また間抜けそうな鳥の声が聞こえる。
フィン・モーガンは布団の中で、静かにその声を聴いていた。
外はまだ暗闇だ。
前日の〝剣道〟という名の精神的かつ物理的な修行によるダメージが、しつこく尾を引いていた。
正直、ひどい二日酔いをした時より辛い。
打たれた場所は赤く腫れ、
脳天をかち割られた頭はまだズキズキと痛み、
必死で声を出した結果、喉もひりつく。
なにより——全身が、重だるい。
「あなた。そろそろ起きて」
俺の今の妻、つまり早苗は、けっして甘やかしてくれない。
〝もうちょっと寝る〟という選択肢を、最初から用意していない人間だ。
「おはよう、早苗」
——しまった。
また名前を呼んでしまった。
早苗は一瞬だけ眉をピクッと動かしたが、何も言わなかった。
その沈黙が、逆に怖い。
布団の中でもぞもぞと体を動かし、大きなため息をつきながら上体を起こす。
——体が痛い。
だが、今日はもう休ませてもらえない。
この訳のわからない状況になってから、
俺には、ほとんど選択肢というものがなくなった。
ほんの少し前までは、
起きる時間も、仕事も、波に出るかどうかも、
全部自分で決めてきたというのに。
ここでは違う。
起きる時間も、行き先も、今日何をするかも、
気づけばすべて〝守山謙一郎の日常〟に組み込まれている。
抗う気力もないまま、
フィンは重たい体を引きずるようにして布団を出た。
◇
朝食は当然ながら、三日連続の “The 日本食” だった。
不思議なもので、まだ慣れないはずの味噌汁の匂いに、ほんの少しだけ安心している自分がいる。
舌は相変わらず戸惑っているが、昨日よりは、わずかに楽しめるようになってきた。
「今日は診療に出てもらうからね。患者さんたちに変なこと言わないでよ?!」
早苗に、きつく釘を刺される。
変なこともなにも、自分の身に起きたことを嘘偽りなく話しているだけだというのに。
心の中で悪態をついていたが、返事がないことに気づいたらしく、早苗が抗議の視線を向けてきた。
「分かった、気をつけるよ。Love」
——どうやら二度目の失敗をしたみたいだ。
だが早苗は、もう何も言わなかった。
ただ、眼だけは鋭くこちらを睨んでいるのが、はっきりと分かる。
◇
日本の慣れない田舎道を恐る恐る運転し、
なぜか記憶に残っている〝守山内科クリニック〟に辿り着く。
職員は、看護師が二人(うち一人は妻)、事務員が三人、
そして医師であり院長の謙一郎——計六人の小さな体制だ。
「おはよう」
知っているようで知らない職員たちに挨拶をしながら、院長室を目指す。
「おはようございます、院長!
体調はどうですか? 大丈夫ですか?」
どうやら早苗の計らいで、
体調不良のため仕事を休んでいたことになっているらしい。
朝起きたら変なことを言っていた、なんて理由は、さすがに通らないか。
「あぁ。二日も休みをもらったから大丈夫だ。
心配ありがとう」
「良かったです。奥様から『変なこと言ってたら無視してね』って、
よく分からないこと言われていたので安心しました」
——おいおい。
しっかり説明していたじゃないか。
しかも無視しろ、ってなかなか辛辣だな。
だが、そんな扱いにも、少しずつ慣れてきている自分がいる。
「ははっ。そうだな。無視してくれ。
それじゃ、よろしく頼むよ」
「はい! なんだか今日は、いつもより明るくて頼もしい感じですね!
よろしくお願いします」
……ちょっとキャラが違ったか。
まぁいい。
どうせ俺は、俺なりにやるしかないのだから。
さっそく午前の診療が始まった。
患者はみな定期受診で、謙一郎の記憶を頼りに対応すれば、特に問題はない。
挨拶をして、雑談して、
血圧や採血結果を見て説明し、
また雑談して、最後に処方。
ひたすら、この繰り返しだ。
(なんだ。医者ってのも案外簡単だな。
事務作業をしているみたいだ)
「院長、ちゃんと患者さんの話を聞いてますか?」
まるで心の声を読まれたかのように、早苗に指摘された。
どうやら仕事中は〝あなた〟ではなく〝院長〟らしい。
おまけに丁寧語まで使ってくる。……なんだか、やけに気味が悪い。
それにしても、日本語は本当に複雑だ。
呼び方が多すぎる。
今のところ、名前で呼んでくれた人はいない。
〝あなた〟
〝先生〟
〝院長〟
距離を感じる。
誰か、謙一郎と呼んでくれ。
……いや。違う。
俺はフィンだ。フィン・モーガンだ。
危ない、危ない。
自分を見失いかけていた。
でも——
名前を呼ばれないというのは、思った以上に寂しいものだ。
そんな哀愁を漂わせていると、早苗から午前終了の知らせを受け取った。
午前中は、大きな問題もなく終わった。
この調子なら、午後も余裕そうだ——
この時のフィンは、そう思っていた。
だが、午後に待っていたのは、
医学とは別ベクトルの〝戦い〟であることを、
この時のフィンはまだ知らない。




