第2章5話 交錯する日常 (謙一郎 in オーストラリア) -2
——守山謙一郎 in シドニー
チェンジリング2日目・続き。
気まずい雰囲気のまま、元妻のジョディと別れ、謙一郎はなんとなくしょんぼりとした気分で家へ戻った。
ビーチの眩しさとは対照的に、帰り道はやけに静かだった。
潮の匂いは相変わらず強く、胸の奥にじわりと重たいものが残る。
なんで俺が、元妻との復縁話をダメにしたみたいな空気になってるんだ。
いや、俺のせいなのか?そんなことはない。
もともと、何を言ってもダメだった可能性だってある。
結局、なにも分からないまま、
胸の奥にもやだけを残して“VIPとのひと時”は終わってしまった。
家に戻ると、やたらと広いリビングが出迎えた。高すぎる天井、大きな窓、無駄にふかふかなソファ。
一瞬、長野の自宅が頭をよぎり、こたつの幻影が浮かぶ。
謙一郎は重たい身体をソファに投げ出し、
パソコンの画面をちらりと見た。
――未読メール、27件。
「……ですよね」
経営者という立場は、やはり伊達ではなかった。
部下たちに任せたつもりだったが、
いざとなると判断を仰ぐメールばかりが届いている。
部下を十分に育ててこなかったフィンを、心の中で少し恨みながら、一件ずつメールを開いていく。
《至急、確認お願いします》
《メール確認後、折り返しください》
《即時対応をお願いします》
どれも「今すぐ」「至急」「確認」のオンパレードだ。
サーフィンと違って、こちらは知識だけでもなんとか切り抜けられそうなのが救いだった。
それでも、部下たちは自分で判断できないのだろうか。先が思いやられる。
ようやく最後の返信を送り終えた、そのときだった。
「Hey, Finn!」
玄関の向こうから、やたらと陽気な声が響く。
ノックも遠慮もない。
恐る恐るドアを開けると、
そこに立っていたのは、朝にも見たスキンヘッドの隣人だった。
上半身裸にエプロンという、相変わらず情報量の多い格好。
右手には巨大なトング、左手にはワイン。
「今からバーベキューやるんだけど、来ないか?
昨日ちょっと様子が変だったからさ。
肉と酒で大体のことは解決するだろ?」
今さらながら、この隣人の名前を思い出す。
たしか、David Smithだったか。
「あぁ、デイブ。今日は――」
「よっしゃ、行くぞー!」
断る理由を探す間もなく、答える暇すらも与えてもらえず、腕をつかまれて連れて行かれた。
この国では、断るほうが難しいらしい。
隣の庭に足を踏み入れた瞬間、圧倒された。
まず、音。
笑い声、音楽、肉の焼ける音。
次に匂い。
脂、スパイス、炭火。
そして何より――量。
「これ、ステーキ……?」
差し出された肉は、もはや鈍器だった。
日本で見てきた「一人前」という概念を、軽々と超えている。
「食え!食え!それから飲め!飲め!」
皿には肉、ソーセージ、正体不明の塊が次々と載せられ、
グラスにはビール、ワイン、そしてよく分からない液体がなみなみと注がれる。
「いや、ちょっと多くないか……?」
そう言いかけたが、誰も聞いていない。
隣では別の男がワインを開け、
さらに隣では女性が「ショットもいく?」と笑っている。
一口目の肉は、驚くほど美味かった。
だが、二口目で気づく。
(……量がおかしい)
酒も同じだった。
一杯目は爽快。
二杯目で異変。
三杯目で記憶が怪しくなる。
誰かが肩を叩き、
誰かが昔話を始め、
誰かが大声で笑う。
内容は半分も分からないのに、
なぜか自分も、その輪の中にいる。
気づけば、星空の下。
煙と笑い声に包まれながら、
謙一郎は巨大な肉をかじり、巨大な酒を飲んでいた。
(……世界が、違いすぎる)
それでも、不思議と悪くなかった。
長野の夜とは、あまりに違う。
静寂も、節度も、ここにはない。
代わりにあるのは、
音と熱と、遠慮のなさ。
謙一郎はふと、
自分がまた別の形で溺れかけていることに気づいた。
今度は、酒と肉と、
オーストラリアという海の中で。




